港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第101回 菊名の新栄稲荷神社



前回の原稿執筆の後、武田信治(たけだのぶはる)さんからもう1枚の写真と「成田山諸経帳」発見の知らせを受けました。また、水行場を造った行者加藤得又(かとうとくゆう)氏の娘正子(まさこ)さんに詳しいお話を伺うことが出来ました。それらの情報を総合しながら話を進めていきましょう。まずは、現存する「成田山新栄稲荷神社」についてです。
神社の敷地にはいると、鳥居の前に石碑がありました。石碑の表には、上段に横書きで「成田山」、下段に縦書きで「新栄稲荷大神」の文字が大書されています。裏面(りめん)は次のとおりです(現物は左を上にした縦書きです)。

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    │                │ 横 浜 新 栄 講          │  │ 
    │                │    花咲町水行場        │ │ 
    │                │ 成 行者小金井得又     │  │ 
    │                │ 田 講元太田徳次郎     │  │ 
上 │  大正十二年癸亥五月  │ 山 行者加藤得又      
│  │ 下 

    │                │   同 斎藤得元        │  │ 
    │                │ 横浜大綱世話人中       │  │ 
    │                │ 大綱菊名総代小泉大助  │  │ 
    │                │ 地所奉納金子啓二     │  │ 
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武田さんの2枚目の写真は、前回同様に大正9年(1920年)のもので、寒行(かんぎょう)の白装束に身を包んだ武田貞太郎(ていたろう)さんと松坂福太郎さん(まつざかふくたろう、大曽根)が写っています。撮影したのは野毛山不動前の多千花(たちばな)という写真館で、菊名での出張撮影のようです。水行場の開始は確認できませんでしたが、この時が開創記念で撮影したものかと思われます。その後、しだいに盛大になり、大正12年(1923年)に石碑が建てられたのでしょう。
稲荷神社そのものの創建年も不詳ですが、祠(ほこら)の右前にあるキツネの石像は、台座に「横浜水行場、行者、小金井得又、加藤得又」と刻まれています。新栄稲荷神社も、石碑とほぼ同年代の創建と思われます。
さて、『新修成田山史』(1968年)によると、成田山の信者達は、全国で1,900近い講社を組織しており、神奈川県下には148の講社があります。碑文に名前の見える「横浜新栄講(よこはましんえいこう)」はその中でも古くからある有力な講社です。
成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)は、真言宗智山派(しんごんしゅうちざんは)の寺で、不動明王(ふどうみょうおう)を本尊(ほんぞん)としています。成田山には8つの別院(べついん)がありますが、その1つが「野毛山不動尊」の名で知られる「横浜別院成田山延命院」(西区)です。別院の土地は、この横浜新栄講が高島嘉右衛門(たかしまかえもん)と共に寄進したものです。現在でも、野毛の別院の山裾(やますそ)には、新栄講の水行場があります。碑文の「横浜新栄講花咲町水行場」がそれです。そこの行者であった小金井得又(こがねいとくゆう)・加藤得又(かとうとくゆう)・斎藤得元の3名と、横浜新栄講の講元太田徳次郎(おおたとくじろう)が、布教活動の一環として菊名に水行場を開き、新栄稲荷大神を勧請したようです。その土地を提供したのが金子啓二(かねこけいじ)氏、菊名の信者の総代が小泉大助(こいずみだいすけ)氏でした。
後に、加藤得又行者を中心として「菊名新栄講」が結成されます。菊名新栄講は、金子啓二氏の子の金子清太郎さん、小泉大助氏の子の小泉久一さん、斎藤庄八さんの3名が講元を務めました。神社の調査は金子清太郎さんの子の孝雄さんと久隆さんのお世話になりました。成田山へのお詣りは、「正五九詣り(しょうごくまいり)」といって、正月・五月・九月の年3回が良いとされていますが、金子家では今でもこれを守って新栄稲荷にお詣りしています。

(2007年5月号)