港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第43回 天然氷で村おこし

最近では暖かくなり、真冬でも水田や道端の水たまりが凍り付くのを目にすることが少なくなりましたが、以前はマイナス10度になることも珍しくなかったそうです。かつての港北区域では、人々は谷間(たにあい)の谷戸(やと)に集住していました。その北側斜面は一日中日が当たらず厚い氷が張りましたので、この氷を利用して村おこしをしました。
その起源は、北綱島の飯田助太夫(いいだすけだゆう、広配)が明治初年に天然氷の製造を始め、地域にこれを奨励したもので、『大綱村郷土誌(おおつなむらきょうどし)』によると、大正元年(1912)に、樽(たる)、大曽根(おおそね)、菊名(きくな)、大豆戸(まめど)、篠原(しのはら)で、年間800トンを製造しており、4500円の売り上げがありました。その他にも、小机(こづくえ)、吉田(よしだ)、新羽(にっぱ)、高田(たかた)、駒林(こまばやし)、箕輪(みのわ)など区内全域で生産していました。
飯田広配(いいだひろとも)は、北綱島の名主で、地場産業の振興に尽力した人ですが、横浜の外国人がボストンや天津(てんしん)などから輸入した氷をたくさん消費しているのを見聞し、外国人より製法を聞き、改良を加えて港北地域の特産品としたのです。後に県の製氷組合の組合長も務めています。
さて、氷を造るところを氷場(こおりば)といいます。氷場は、水田のようなものですが、底を固めて、周囲を板や石で囲ってありました。水は山からのきれいな湧(わ)き水を使い、石灰(せっかい)で消毒しました。12月ごろから凍り始め、1月から2月が最盛期です。一度凍った氷の上に薄く水を張り、3日から5日かけて7センチくらいの厚さに凍らせました。途中で暖かい日があれば溶けますし、風が吹けばゴミが入ります。曇りや雪になってもやり直しでした。良い氷が出来ると、氷が最も厚くなる早朝に、氷場の上に渡した梯子(はしご)に乗って、寒さをこらえて、氷鋸(こおりのこ)で50センチくらいの正方形(一説には45×60センチともいう)に切り出しました。一枚が17キロくらいあったそうです。重労働でしたが、多くの村人が人夫を務め、大事な現金収入となりました。
切り出した氷は、分厚い土蔵造りの氷室(ひむろ)の中に10枚ずつ積み上げられ、おがくずをかけて夏まで保管されました。ほとんど溶けなかったそうです。飯田家では鶴見川沿いの氷室から船に乗せ横浜に出荷し、真砂町(まさごちょう、中区)の氷室に一時保管し販売していました。やがて地場産業として製氷が盛んになると、荷馬車や大八車(だいはちぐるま)も使うようになり、販路も神奈川、横須賀、東京などへ広がりました。当初は外国人家庭の冷蔵庫(電気冷蔵庫が普及する前は氷で冷やしていました)用でしたが、しだいに日本人も使うようになっていきました。氷の主な用途は、魚の貯蔵用や病院の熱冷ましでしたが、きれいな氷は食用のかき氷や飲み物用にも使われましたので、衛生面の厳しい規制がありました。
天然氷づくりは大正期までが最盛期でしたが、関東大震災による製氷設備の被害と機械製氷の普及により昭和に入ると廃(すた)れていきます。

(2002年7月号)

付記1 今でも飯田家の長屋門脇には氷場跡の池が残っています。

付記2 樽町一丁目の三菱重工大倉山病院の近くには「氷室」の地名も残っています。

付記3 大曽根に作られた氷場の跡地は、昭和になりスケートリンクとして活用されました。その話は、第85回を御覧ください。