港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第92回 -終戦秘話その9-  国民学校と学童疎開

昭和19年(1944)8月21日のことです。神奈川区の子安国民学校(こやすこくみんがっこう)の3年生から6年生の児童335名(24日との合計、後に追加64名)は、新子安駅から省線(しょうせん、国電の旧称、後のJR)に乗車し、横浜駅で東横線に乗り換え、大倉山駅に下車しました。大倉山からは縦列(じゅうれつ)を組み徒歩で新吉田町の常真寺(じょうしんじ)・浄流寺(じょうりゅうじ)、新羽町(にっぱちょう)の西方寺(さいほうじ)・善教寺(ぜんきょうじ)・専念寺(せんねんじ)などへ向かいました。この日から集団疎開(しゅうだんそかい)が始まりました。
昭和16年(1941)4月、戦時体制に即応するために小学校は国民学校に変えられました。港北区域では、日吉台国民学校・新田国民学校(にったこくみんがっこう)・大綱国民学校・城郷国民学校(しろさとこくみんがっこう)の4校が誕生しました。この頃はまだ、疎開は考えられていませんでした。空襲を受ける危険性がほとんどありませんでしたし、軍部の方針も、空襲を恐れて都市から避難することは我が国の防空の敗北を意味することになるので、これを認めないというものでした。しかし、昭和18年(1943)になると、都市から人員や建物の疎開を認めざるを得なくなり、翌19年1月になると市街地の疎開命令が出され一般疎開が促進されます。さらに6月30日、「学童疎開促進要綱」が閣議決定され、都市部にある国民学校の3年生から6年生までを疎開させることになりました。しかし、これは学童の避難ではなくて、都市防禦(ぼうぎょ)を積極的に強化するためと、児童には「独立不撓(ふとう)の心身錬成(れんせい)」による戦争参加を求めるという教育的見地から実施するものであると説明されました。
この学童疎開には、「縁故疎開(えんこそかい)」と「集団疎開」の2種類がありました。集団疎開には、国や県から多額の経費が必要となりますから、まず縁故疎開を優先しました(7月に完了)。その後、疎開先の決まらない児童を集団疎開させました(8月に完了)。縁故疎開が5割、集団疎開が4割、残留した児童が1割ぐらいの比率でした。
神奈川県の集団疎開は、横浜・川崎・横須賀の3市が対象となりました。当初は静岡県へ行かされる計画でしたが、当時の近藤壌太郎知事の決断により、県内への疎開となりました。横浜市の集団疎開児童25,237名の大半は、小田原、中郡、足柄上郡・下郡、津久井郡など県西部へ疎開させられましたが、港北区域は少し事情が違っていました。当時の港北区域は郊外の農村地帯でしたので、ほとんど避難対象とされませんでしたが、唯一日吉台国民学校だけが対象となりました。昭和19年8月19日、日吉台国民学校の3年生から6年生までの児童は、教職員の引率により、高田町(たかたちょう)の興禅寺(こうぜんじ)に70名が、下田町(しもだちょう)の真福寺(しんぷくじ)に100名が疎開しました。資料によっては合計120名ともいわれます。理由はよく分かりませんが、疎開後の日吉台国民学校を海軍人事局功績調査部が使用したり、慶応の日吉キャンパスに連合艦隊司令部が移転してきたり、地下壕が掘られるようになることなど、軍の作戦と関係があるのかも知れません。
その他の国民学校は避難対象とはなりませんでした。逆に区外から縁故疎開で多くの学童が疎開してきたことにより、生徒数が激増しました。大綱国民学校では、千名近く増加して児童数2,117名となり、学校を兵舎に徴用されたことも加わり、16ヵ所に分かれて分散授業をしました。疎開児童を受け入れた新田国民学校高田分教場では、全員を一度に収容できなくなり、二部授業となりました。
区外からの集団疎開としては、前述した子安国民学校の他に、神奈川区の斎藤分国民学校(さいとうぶんこくみんがっこう)からも、8月13日に165名の児童が徒歩で小机町の本法寺(ほんぽうじ)、鳥山町の三会寺(さんねじ)に疎開してきました。疎開児童の悲惨な体験については、『横浜市の学童集団疎開』(山本健次郎、1985年)、『横浜市の学童疎開』(横浜市教育委員会、1996年)などに詳しく記録されています。
かつて桃太郎の話をせがんでいた我が子らも(第15回参照)、いつの間にか「愛川ふれあいの村」へ宿泊体験学習へ行くような年になりました。宿泊体験は1泊2日ですが、集団疎開はいつ帰れるのかも分からないままに1年余に及びました。なんと大きな違いでしょう。出発前に集団疎開の話をしておこうと思います。疎開を体験された方は、お孫さんに是非話してあげてください。

(2006年8月号)