地図を見ながらわが町発見

(平成19年11月14日、21日 菊名地区センター主催事業)


大倉精神文化研究所

平井 誠二

日 時 平成19年11月14日(水)

集 合 10時、横浜市大倉山記念館正面

見学コース

大倉山記念館集合 → 梅林 → 大乗寺 → 大倉山天然スケート場跡 → 大曽根第2公園(ちの池跡) → おぼう坂 → 師岡熊野神社・いの池・のの池 → 旧海軍省書庫跡 → 旧綱島街道、旧吉田家長屋門 → 大豆戸不動尊 → 菊名地区センター(昼食) → 菊名神社 → 成田山水行場跡 → 蓮勝寺 → やかん坂 → どんどん橋跡 → 菊名駅解散

◆◇ 見学地解説 ◇◆

横浜市大倉山記念館

昭和7年(1932)4月9日竣工、元大倉精神文化研究所本館。詳細は、別紙チラシ参照。

◎横浜市が命名権の売却を検討していないのか、気がかり。

太尾町

古くは「橘樹郡(たちばなぐん)太尾村」といい、村内を三分して東から上太尾(駅前辺り)、中太尾、下太尾(鶴見川沿い)といった。明治22年(1889)の市町村制施行の際に「橘樹郡大綱村大字太尾」となり、昭和2年(1927)に横浜市に編入され「神奈川区太尾町」、昭和14年(1939)に「港北区太尾町」となった。平成19年11月19日から一部が町名変更となり、平成21年度には、全域が大倉山一丁目~七丁目となる。

地名の由来 「太尾」の地名の由来は、かつて海岸線がこの辺りまで来ていて、大倉山が岬のように海へ突き出しており、その形が動物の太い尾のように見えたことから付けられたといわれている。文献としては、観応3年(1352)の『鶴岡脇堂供僧次第』に供米料所として「太尾」の名が記されているのが最初。

鎌倉古道(下の道)

鎌倉時代、「いざ鎌倉」の非常時に、地方の御家人が一族郎党を引き連れて鎌倉に馳せ参じるために整備された道を「鎌倉道」といい、上の道、中の道、下の道、山の道などがある。区内を通る鎌倉道は、「下の道」と呼ばれている。

旧綱島橋 → 大乗寺前 → 大倉山公園南縁 → 歓成院北側 → 正覚寺東側

梅林

観梅の歴史は古く、すでに奈良時代から行われており、『万葉集』には118首の歌が載せられている。これは桜の3倍以上で、かつてはそれほどに人気があった。

大倉の梅林は、東急電鉄が東横線沿線開発の一環として、龍松院から土地を購入し、昭和6年(1931)に開園したもの。その後、昭和18年頃に大倉邦彦が旧制の高等学校を大倉山に開校しようとしたとき、校地に譲り受ける計画もあったが、実現しなかった。戦争中はイモ畑にされたこともある。

戦後も梅林には数百本の梅が咲き誇り、東横線沿線の観光地として賑わい、かつては観梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に止まったこともあったという。

梅林は、昭和58年から61年にかけて東急から横浜市に売却され、再整備の上、平成元年に今の形で開園された。

梅は登録品種だけでも400種類あるが、大倉山には平成16年現在で、36種類、201本の梅が植えられている。一番本数が多いのは「野(や)梅(ばい)」の47本、次に多いのが大きな実を付ける「白加賀」35本。珍しいところでは、中国伝来で花が緑色がかった「緑(りょく)萼(がく)梅(ばい)」、白とピンクの花を思いのままに咲かす「思いのまま」などの梅もある。

6月頃には、実を付けるが、港北観光協会から園芸農家に依頼して実を集め、協会推奨の大倉山梅酒「梅の薫」を造り、観梅会の時に販売している。観梅会から1ヶ月程すると梅林周辺は桜が満開になる。

(梅の木の一覧)

白札(白梅系)

野梅(やばい)     47本      白加賀(しらかが)   35本

八重野梅(やえやばい)  6本      冬至梅(とうじばい)   5本

豊後(ぶんご)      5本      玉英梅(ぎょくえいばい) 4本

茶青梅(ちゃせいばい)  4本      月影(つきかげ)     4本

緑萼梅(りょくがくばい) 3本      白玉梅(しらたまばい)  3本

古今集(こきんしゅう)  2本      月宮殿(げっきゅうでん) 1本

杉田(すぎた)      1本      しだれ          1本

田子の浦(たごのうら)  1本      思いのまま(おもいのまま)1本

長者(長寿か)      1本      白一重(しろひとえ)   1本

種類不明        25本

ピンク札(紅梅系)

八重寒梅(やえかんばい)10本      見驚(けんきょう)    4本

鹿児島紅(かごしまこう) 4本      八重旭(やえあさひ)   4本

一重唐梅(ひとえとうばい)3本      寒紅梅(かんこうばい)  2本

八重(やえ)       2本      玉すだれ(たますだれ)  1本

しだれ紅         1本      御所紅(ごしょべい)   1本

花香実(はなかみ)    1本      筑紫紅(つくしこう)   1本

桜梅(さくらばい)    1本      姫千鳥(ひめちどり)   1本

桜鏡(さくらかがみ)   1本      三吉野(みよしの)    1本

玉垣(たまがき)     1本      蓬莱(ほうらい)     1本

種類不明        11本

東横神社 (太尾町1014 神域330㎡)

昭和14年(1939)6月22日、東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄両社社長五島慶太が両社の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営し、伊勢の神宮より本体を遷座した。翌23日鎮座奉祝祭と物故殉職社員の慰霊祭が行われ、渋沢栄一をはじめとして44柱が合祀された。その後、毎年慰霊祭が行われており、昭和34年(1959)からは五島慶太も祀られている。神社は現在でも東急グループの所有であり、関係者以外の参拝は出来ない。

大乗寺 (曹洞宗、転(てん)法(ぽう)輪(りん)山(ざん)箕(そ)谷(や)峰(ほう)院(いん)大乗寺、大曽根台9-30)

・この辺りを大乗寺谷戸という。

・本尊 釈迦如来坐像

・創立 天正4年(1576)厚木市三田の清源院第五世英(えい)顔(がん)麟(りん)哲(てつ)上人の創立。

・中興 第三世生(せい)外(がい)東(とう)鐵(てつ)、東鐵は師の麟哲を招いて開山とし、自身は第三世となった。

・第24世 珉山台嶺、本名城田作三(1884~1953年)駒沢大学文学部長を務める。

・第25世 台山謙壽、本名和田謙壽(1926~1994年)駒澤大学教授、勲四等瑞宝章。

・江戸時代は、寺領五石の朱印状を受けていた。

・都筑橘樹十二薬師霊場の第12番札所

大倉山天然スケート場跡  (大曽根台8-35の辺り)

・冨川善三さんが、氷場を改装して、昭和3年に開業、昭和10年に東急の融資で改装、昭和22~25年頃まで営業した。

・東急『沿線案内』……「都心から一番近い天然スケート場、リンク400坪、休憩室、更衣室の設備があり、1月上旬より2月下旬まで公開、入場料1時間25銭、貸スケート1時間20銭」

東横線

・大正15年(1926))2月14日、東京横浜電鉄(現、東急)の神奈川線(丸子多摩川~神奈川)が開通した。綱島温泉駅もその時開業した。その後、昭和2年に渋谷線(渋谷~丸子多摩川)が開業し、昭和7年(1932)3月31日、渋谷~桜木町間の東横線全線が開通した。

・大倉山駅の北側は東に大きくカーブしていたが、昭和15~16年頃に線路を付け替えて、直線化した。

大曽根第2公園(ちの池跡)

・元はため池で、大曽根村と樽村の農業用水に使用していた。

・昭和44年(1969)に児童公園になった。

・池の広さは、3306㎡、樽村に流す水と、大曽根村に流す水の水門があったが、文化年間(1804~17)に中央を仕切った。今の公園はその東半分の樽村分で、西の大曽根分は宅地になっている(わたしたちのおおそね)。

・妊婦が通りかかると、六部の霊に池へ引き込まれたという(広報377)。

血の池伝説② 池に生えているマコモが、秋になると赤みを帯びて水が赤く見えた(わたしたちのおおそね)。

血の池伝説③ 水争いがあり、怪我人の血で池が染まった(わたしたちのおおそね)。

おぼう坂(うぶがざか、産ヶ坂、生母坂、おぼろ坂、おぼが坂)

・三菱病院(1962年開業)の先(南側)のガソリンスタンドの前の坂。

血の池伝説① 女六部(巡礼または乞食)が、ここで子供を産んだが、通りかかる人もなくて、ちの池まで来たところで力尽きて池にはまって死んだ。翌朝、人々か集まってみると、池の水が真っ赤に染まって、血の池の様だったことから、池の名と坂の名が付いた(広報377)。

・この辺りを切り崩した土を、太尾から菊名への綱島街道新道(県道東京丸子横浜線)の盛り土に使用した。

盗ッ人ヶ谷戸(ぬすっとがやと)

・産ヶ坂のあたりは、樹木が鬱蒼としていて、昼なお暗く、里人も近寄らなかった。

いの池

・灌漑(かんがい)用の溜池だった。

・形が「い」の字に似ているからその名が付いた(広報375)。

・1988年(昭和63)11月1日、横浜市登録文化財(地域史跡)。

・昭和10年頃まで、ここで雨乞い神事が行われていた。その時使った龍の頭の彫り物が博物館に残されている(広報375)。その始まりは、『熊野山縁起』によると、1174年(承安4)の大干魃に、高倉天皇の勅命により神社の別当延(えん)朗(ろう)上人が木彫りの龍(りゅう)頭(ず)を12個作り、池の淵で雨乞いの儀式をしたところ、三日三晩雨が降ったという(13回、広報375)。

・池の中央に水(すい)神(じん)社(しゃ)をまつり、弁財天がおかれていた(広報S63.11)。

・例年8月1日に(池さらいをして)水神祭が行われている(1988年当時、広報S63.11)。

・熊野神社では、古来正月14日に水(みな)口(くち)祭(さい)を行っている(1988年当時、広報S63.11)。

・近くのケヤキ……樹齢600年以上、近隣で一番古く、市の古木・名木に指定されていたが、現在は切株のみ。

片目の鯉の伝説……昔、熊野の神が誤って弓で片目を射られた時、池の鯉の目をくりぬいて代用した。それ以来、この池に鯉を放つと、すべて片目が潰れてしまう。ある時、この池の鯉を盗んで売ろうとした男がいたが、「この鯉は片目だ、熊野権現の池の鯉だろう」と一(●)目(●)で(●)見破られたという(広報375)。

法華寺  (天台宗、熊野山全寿院法華寺、師岡町1168)

・神亀元年(724)全(ぜん)寿(じゅ)仙人が創立。

・熊野神社の別当寺で、中世には17坊を抱えていたが、明治元年(1868)の神仏分離令により分離。

・本尊は阿弥陀三尊立像。

・現在の本堂は、昭和47年(1972)に建て替えたもの。

・高倉天皇が写経し、承安4年(1174)に寄進したと伝える大般若経の残欠を所蔵。

・稲毛六阿弥陀の二番札所

師岡熊野神社  (師岡町1137)

・神亀元年(724)全(ぜん)寿(じゅ)仙人が創立。

・かつては関東の熊野信仰の拠点だったという。

・光孝天皇が、仁和元年(885)に勅使藤原有房を下して社殿を造営させた。

・高倉天皇が、承安4年(1174)延朗に雨乞いの祈祷をさせた。

・源頼朝が、元暦元年(1184)に平氏追討祈願のために大般若経を転読させたと伝えている。

・『江戸名所図会』『新編武蔵風土記稿』に俯瞰図が掲載されている。

・平成16年(2004)10月から、120年ぶりの社殿改修を始めて、17年11月に完了。

・17年7月17日に上棟祭。11月1日に本殿遷座祭。

・熊野郷土博物館

・八咫烏と日本サッカー協会

筒粥神事 ……1994年(平成6)11月1日、横浜市指定無形民俗文化財。

・天暦3年(949)正月7日、7歳の少女へ神託があってから毎年続く。平成19年で1058回。

・小正月の神事として、1月14日寅刻(午前4時)のの池の水を汲み、大釜に神木梛(な)木(ぎ)の5つ葉と米1升と鶴見川岸で取った27本のヨシの筒を入れ、午後4時(2時か)まで約8時間煮て、筒の中に入った粥の量で「かゆうら」をする(広報S58.1)。

・占うのは、大麦小麦早稲(わせ)・中手(なかて)・(おく)の米から始まって、ひえ(稗)、(あわ)、大豆(だいず)、小豆(しょうず)(あずき)、大角豆(だいかくず)(ささげ)、ふんどう(緑豆or八重なりあずき)、あさ(麻)、な(菜)、大根(え)(えごま)、ごま(胡麻)、きび(黍)、いも(芋)、そば(蕎麦)、霜粟(しもあわ)(モチアワ)、夕顔(ゆうがお)(かんぴょう)、かいこ(蚕)、といった農作物の作柄と、世の中の27項目。

しめよりの神事……昭和30年(1955)頃まで藁(わら)の大(だい)蛇(じゃ)を作り村境の木に架けるという神事を行っていた。元(げん)暦(りゃく)元年(1184)源頼朝の発(ほつ)願(がん)により始められたと伝えられている。

昔の農業

・熊野神社の筒粥神事の項目を見ると、江戸時代の生産物が分かる。

・鶴見川の水は海水が混じるので灌漑には使えない。鳥山川からの取水か、ため池の水を使用していた。

・明治以降の農作物は、米、麦、養蚕などか盛んでしたが、野菜も多くなり、太尾のたまねぎ、樽のほうずき、大曽根のそらまめ、綱島の桃、ほうずきなどが有名だった。

のの池

・熊野神社の社殿の裏にあり、この水を神社の神事に使用する。

・創建当初からの池で、一度も枯れたことが無く、溢れたことも無く、「禅定水」といわれる。

・640年くらい前に、落雷で社殿を焼失したが、御神体・宝物類は全てこの池の中に入れて焼失を免れたと古記録に伝える(広報377)。

師岡貝塚

・平成6年(1994)11月1日、横浜市指定史跡。縄文海進によって形成された古鶴見湾岸に分布する約30ヶ所の縄文時代前期貝塚群のうちで保存状態が良好であり、市域では類例の少ない中期前半の貝塚として学術的価値が高い。

・権現山の東斜面、昭和50年代に発掘、東西20m、南北15m、縄文前期から中期。

熊野神社社叢林と市民の森

・市民の森……1980年(昭和55)7月19日指定、面積5.2ha。

・社叢林………1991年(平成3)、県の天然記念物に指定。市街地にありながら、人の手で作られた里山ではなく、極めて自然に近い常緑広葉樹林として貴重。

式坂

・仁和元年(885)、光孝天皇の勅使として京都から派遣された藤原有房が、神社を目前にして儀式を行った場所といわれる。光孝天皇は、社殿を造営せしめ、「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜ったという。

●大口…勅使の大口袴、足洗川…供奉の者の足を洗った

西寺尾の面滝(めんたき)…顔を清めた、式坂…儀式に臨むところ

獅子ヶ谷…獅子舞の道具を受け持ったという説あり

樽…御神酒の樽を受け持ったという説あり

旧海軍省図書庫と書庫閲覧所跡  (師岡町344~356の辺り)

・師岡の南側斜面には、戦争中に海軍省図書庫が数棟、横穴式に作られた。多くの資料が搬入されたが、閲覧室が無く、一時は、軍関係者が木陰で閲覧していたという。

・昭和20年7月に閲覧所が新築されたが、間もなく終戦となり、閲覧所は昭和27年まで大綱小学校の師岡分教場として使われた。

旧綱島街道

・東横学園の下からフジ食品の前を通り菊名へ抜けるのが旧道。現在の新道は昭和15年頃に開通した。

東横学園大倉山高等学校(大倉山女学校→大倉山学園)

・昭和15年(1940)、高野平氏が大倉山女学校を創立。昭和18年に学校法人大倉山学園の大倉山高等女学校となる。昭和23年、大倉山女子高等学校・大倉山中学校・大倉山幼稚園となる。

・昭和30年(1955)に学校法人五島育英会が、学校法人大倉山学園を合併して、校名を現校名「東横学園大倉山高等学校」に改称、昭和32年より東横学園高等学校の姉妹校として発足した。

・平成20年3月で閉校の予定。

*東横学園は昭和13年(1938)に東急電鉄社長五島慶太によって創立され、昭和14年4月に開校した。学校法人五島育英会が経営している。

妙義社

・妙義山信仰として、群馬県妙義山へ詣でる代わりに参拝されていたという。

・旧太尾村の東端、西照寺(曹洞宗大乗寺末)境内の鎮守小祠だったが、綱島街道の拡幅に伴い西照寺が廃寺となった後、妙義社だけがここに残った。

・旧太尾村の神社は、昭和33年(1958)6月9日に、6社(天満社、八幡社、杉山神社、熊野社、神明社2社)が旧杉山神社跡地に合祀され「太尾神社」となったが、妙義社は合祀されずに残った。

市之坪公園(市之坪池)

・市之坪……条里制の遺構か、師岡氏と関係が有るのか?

・太尾の耕地を潤す灌漑用ため池だった。駅の方や大豆戸交差点へ向かって用水路があったらしい。

・自噴していたらしい。昭和42年頃埋め立てた。

・セブンイレブンのところが、元の岩田屋。雑貨や大綱小学校の教科書などを扱っていた。

旧吉田家長屋門  (大豆戸町94)

・大豆戸村の名主だった吉田家の住宅の長屋門。

・吉田家は、屋号を「堀上」といい、天保年中(1830~43年)から戦中まで、醤油の醸造業を営んでいた。

富士食品工業株式会社

・1938年 初代社長松倉賢治、東京都蒲田にて粉末醤油、味噌等の非常用食品の製造を開始する

・1952年 国産初の「固形コンソメスープ」を開発

・1958年 富士食品工業株式会社設立、オイスターソース、粉末そばつゆ、コンソメスープ発売、世界で初めて麺用粉末スープを開発、特許取得

・1961年 即席ラーメン用別添スープを開発

豊川稲荷

創業者胸像

大豆戸不動尊

・旧綱島街道沿いに鳥居がある。

・参道の突き当たり、階段を上がると不動尊(菊名の本乗寺が所有)があったが、火事で焼失した。その上が、リビオ大倉山ヒルトップヴィラ。

・階段の右脇に、水行場があり、今でも龍の口から水が出ている。

小泉糀屋 (菊名5-24-25)

・菊名村のはずれ、大豆戸村との境にあったので、屋号を「はずれ」という。

・明治から3代続いた老舗の糀屋だったが、先代の死去により昭和58年に閉店。

・平成10年10月に再開、マスコミにも数多く取り上げられている。

菊名地区センター(昼食)

港北区役所

・昭和14年(1939)4月1日、港北区の誕生。最初の区役所は、篠原の大綱小学校分教場跡を仮庁舎とした。

・二代目庁舎は、昭和17年(1942)1月15日に菊名町780番地に木造二階建てとして落成。昭和19年2月18日昼火事で2階81坪・階下34坪を焼失。

・三代目庁舎は、大綱小学校を仮区役所とした。

・四代目庁舎は、昭和22年2月に二代目庁舎を復旧。

・五代目庁舎は、昭和35年4月に鉄筋三階建てとして竣工し、昭和53年まで使われた。昭和55年8月27日からは港北図書館・菊名地区センターとなっている。

・六代目庁舎は、昭和53年(1978)11月に現在の地に新築・移転した。

菊名神社  (菊名6-5-14)

・この地は菊名村総鎮守の八幡社が祀られていた場所。

・昭和10年(1935)、菊名南部の神明社、中の谷戸の杉山神社、北部の八幡神社・阿府神社を杉山神社(菊名コミュニティハウスの場所)に合祀し、社名を菊名神社と改称した。

・昭和23年、同所に保健所を建設することとなり、現在地に移転した。

・祭神 天照皇大神・日本武尊・応神天皇・竹内宿祢命

がまんさま

・手水鉢の四隅を天邪鬼が支えている。長い年月苦難なことも同じ仕事も飽きることなく、不平もいわずジッとがまんして守り通している姿は、人の進むべき道を教え諭している。

・寛政年間(1789~1801年)に作られたもので、左後ろの一匹が古い。

成田山水行場跡

・東急の『沿線案内』に、「断食水行の人、常に絶えざる霊場」と記されている。

・太尾出身の加藤得(とく)又(ゆう)(本名浦蔵)得又は、成田山の行者で、野毛の横浜新栄講で活躍し、大正9年(1920)頃から菊名の地に水行場を開いた。

・得又は昭和26年に亡くなるが、その2、3年まで水行をしていた。

・得又の没後は、娘の春子が幸春と名のり平成元年頃まで活動していた。

・菊名新栄講は、昭和34年に結成され、毎年バスで成田参詣をしていた。

・水行場のあった屋敷は、現在マンションになっており、新栄稲荷神社だけが残っている。

蓮勝寺 (浄土宗、菊名山喜楽院蓮勝寺、菊名5-4-40)

・開山 正和4年(1315)浄土宗第5祖蓮勝上人

この地が野菊咲き乱れ風光明媚であったため、念仏の道場として山上に庵室を作った。これが菊名の地名の語源ともいわれる(別の説もある)。

・中興 喜楽和尚が天文年間(1532~54)に現在地に移建した。

・本尊 阿弥陀如来坐像

毘沙門堂

・横浜七福神の1つ、毘沙門天立像を祀る。

・「枕返しの毘沙門堂」といわれる。堂内で毘沙門天に足を向けて寝ていると、いつの間にか向きが変わっていたという。

奇跡の石猿

・古くは近くの街道にあった石猿だが、人々に呼びかけたり急に驚かしたりしたため、住職が寺に封じ込めた。以来、この石猿は声を出さなくなったが、口許が常に湿りっぱなしとなった。猿の口が乾くと不吉なことや天変地異が起きるという(『港北百話』)。

やかん坂  (川崎坂)

・蓮勝寺の東側を山の上に登り、川崎方面へ抜ける坂道。通称「川(かわ)崎(さき)坂(ざか)」という。

・山の上に上る辺りは、昼でも薄暗く、「追いはぎ坂」といわれた。

・別名「薬(や)缶(かん)坂(ざか)」といい、その由来は、『港北百話』に記されている。

坂の付近に年老いた古(ふる)狸(だぬき)が一匹棲(す)みついていたが、この狸、人を驚かせるのを趣味にしていたらしく、道を通る人々に悪戯(いたずら)をしたり、時には薬(や)缶(かん)に姿を変えて川崎坂をころげ落ち、人々を驚かせたと言う。そこで、この坂を村人は一名薬缶坂などと言っていた。昔は昼なお暗い坂道であって気味が悪かったという。

・「やかん」は、元は「野(や)干(かん)」と書いたらしい。野干とは、キツネの異(い)名(みょう)であり、薬缶坂とは、キツネに化かされそうな程、昼なお薄暗い寂(さび)しい坂道という意味らしい。発音が同じことから、「薬缶」と書くようになり、薬缶に化けるという話になったものと考えられる。

・『菊名あのころ』(菊名北町内会、平成8年)に、川崎坂で古ダヌキの子孫を見た話が載っている。

屋号「水開け」

・交差点のタバコ屋は、屋号を「水開け」という。この家の前で用水路が2方向に分かれていた。その分岐点に関板があり、開閉により流れる方向を調節していた。

・タバコ屋は昔300坪あったが、新道を作るときに屋敷地の真ん中を道が通って二分された。

どんどん橋跡

・菊名池からの用水路は、バイクが並んでいる辺りを流れていた。

・用水のほとりに土上げの場所があり、その上を歩くようになった。しかし、横浜線の線路下は土上げの場所が無く、川の中に打ち込んだ杭の間に板を渡して、簡単な橋を作っていた。歩くと「ドン、ドン」と音がするので。どんどん橋と呼ばれた。

・どんどん橋の先、東急線との閒に、東急の保線区員の社宅があった。