綱島から樽・諸岡・大倉山

セカンドライフ協会主催、見学会の説明用資料(2005年2月22日)
講師 大倉精神文化研究所専任研究員 平井 誠二

東横線
大正15年(1926))2月14日、東京横浜電鉄(現、東急)の神奈川線(丸子多摩川~神奈川)が開通した。綱島温泉駅もその時開業した。その後、昭和2年に渋谷線(渋谷~丸子多摩川)が開業し、昭和7年(1932)3月31日、渋谷~桜木町間の東横線全線が開通した。

綱島駅
・大正15年(1926)2月14日、「綱島温泉駅」開業。昭和19年(1944)10月20日「綱島駅」に改称。
・「綱島」の地名の由来は、川の中州や湿地に浮かぶ島から来ている。


大綱橋
・1405年(応永12)に綱島橋(少し下流、旧大綱橋)が架けられた。江戸時代は7年に1度位補修をしていた。
・明治22年に大綱村が出来た時から「大綱橋」となった。
・現在の橋は、西側が昭和45年(1970)に、東側が昭和52年(1977)に竣工。
・下流に鷹野橋、江戸時代の鷹場のなごり。

鶴見川
・バリケン島ビオトープとピーチ花壇。
・明治43年の大洪水を契機として、県が中心となり両岸の堤防を改修し、大正3年に完成記念として桜並木を作り、名所となった。

樽町
「樽」は、辞書的には、渓谷が段を成していて雨時に滝となる所という意味だが、地元には、諸岡熊野神社の神領として御神酒の樽を作って奉納していたという説と、鶴見川が氾濫したとき水がなかなか引かず樽に溜まった水のようであった、という2つの説がある。

杉山神社
鶴見川流域に散在する杉山神社の1つ。明治6年(1873)に樽村の村社となり、現在は樽町全町の鎮守となっている。創建年代は不詳だが、応永年間(1394~1428年)には既に創建されていたといわれる。祭神は日本武尊。例祭日は9月15日。
全国には12万社もの神社があり、稲荷の32000社、八幡の25000社、伊勢の18000社、天神の10000社などが多い例ですが、鶴見川流域には、日本中でもここにしかない珍しい神社があります。「杉山神社」です。鶴見川流域には49社もあり、よく見かける神社ですが、他の地域にはありません。
杉山神社の名前が初めて記録されたのは、六国史の1つ『続日本後紀』(869年成立)です。「承和五年(838)二月庚戌(22日)、武蔵国都筑郡枌(杉)山神社、官幣に預かる、霊験を以てなり。」(原漢文)とあります。意味は、「都筑郡の杉山神社が朝廷(神祇官)から幣帛(お供え物)を捧げられた、それは杉山神社が霊験のいちじるしい神社だからである」ということです。
江戸幕府が1810年から28年にかけて編纂した『新編武蔵風土記稿』という地誌には、橘樹郡37社、都筑郡25社、南多摩郡6社、久良岐郡5社の計73社の杉山神社が記載されています。これら諸社はいずれも鶴見川流域にあり、その多くは、鎌倉から室町時代にはすでに祀られていたと思われます。杉山神社がこのように増加した要因については、主に2つの説があります。第1説は、杉山神社はいつの頃か鶴見川をさかのぼり流域に入植・定着したある氏族が祀っていた氏神であり、一族の勢力拡大に伴って流域各所に末社がつくられたとする説です。第2説は、各地の小土豪が統合する際にその中心となった土豪が祀っていた氏神が杉山神社であり、その他の土豪が以前から祀っていた氏神も杉山神社の名に統一されたとする説です。どちらの説にしても、式内社杉山神社を本社として鶴見川流域に拡散したもので、その後の勢力交代などにより、長い年月の間に本社が不明となったものと考えられます。
さて、この73社のうちで式内社杉山神社の有力候補と考えられているのは、①西八朔村(緑区西八朔町)、②大棚村(都筑区中川町)、③茅ヶ崎村(都筑区茅ヶ崎町)、④吉田村(港北区新吉田町)の杉山神社の4社です。
杉山神社の祭神は各社まちまちなのですが、日本武尊か五十猛命が祀られていることが多いようです。日本武尊は東征の神話から、五十猛命は木材の守護神であることから祀られたと思われますが、こうした祭神が祀られたのは明治初年のことらしく、元来は杉の巨木を神聖視した原始的な自然崇拝から発生したものと考えられています。

熊野神社社叢林と市民の森
・市民の森……1980年(昭和55)7月19日指定、面積5.2ha。
・平成3年(1991)、県の天然記念物に指定。市街地にありながら、極めて自然に近い常緑広葉樹林として貴重。

師岡貝塚
・平成6年(1994)11月1日、横浜市指定史跡。縄文海進によって形成された古鶴見湾岸に分布する約30ヶ所の縄文時代前期貝塚群のうちで保存状態が良好であり、市域では類例の少ない中期前半の貝塚として学術的価値が高い。
・権現山の東斜面、昭和50年代に発掘、東西20m、南北15m、縄文前期から中期。

師岡熊野神社
・神亀元年(724)全寿仙人が創立。
・師岡一帯の土地を開いた全寿仙人が創立した。
・かつては関東の熊野信仰の拠点だったという。
・『江戸名所図会』に俯瞰図が掲載。
・平成16年(2004)10月~17年11月まで、120年ぶりの社殿改修中。
・熊野郷土博物館
・八咫烏と日本サッカー協会
筒粥神事……1994年(平成6)11月1日、横浜市指定無形民俗文化財。
・天暦3年(949)正月7日、7歳の少女へ神託があってから毎年続く。平成16年で1055回。
・小正月の神事として、1月14日寅刻(午前4時)のの池の水を汲み、大釜に神木梛木の5つ葉と米1升と鶴見川岸で取った27本のヨシの筒を入れ、午後4時(2時か)まで約8時間煮て、筒の中に入った粥の量で「かゆうら」をする(広報S58.1)。
・占うのは、大麦、小麦、早稲・中手・奥の米から始まって、ひえ(稗)、粟、大豆、小豆(あずき)、大角豆(ささげ)、ふんどう(緑豆or八重なりあずき)、あさ(麻)、な(菜)、大根、荏(えごま)、ごま(胡麻)、きび(黍)、いも(芋)、そば(蕎麦)、霜粟(晩生のアワ)、夕顔(かんぴょう)、かいこ(蚕)、茶の各種の農作物の作柄など。
*しめよりの神事……昭和30年(1955)頃まで藁の大蛇を作り村境の木に架けるという神事を行っていたが、これは元暦元年(1184)源頼朝の発願により始められたと伝えられている。
のの池
・熊野神社の社殿の裏にある。
・ここの水を神社の神事に使用する。
・神社創建当初からの池。
・一度も枯れたことが無く、溢れたことも無く、「禅定水」といわれる。
・640年くらい前に、落雷で社殿を焼失したが、御神体・宝物類は全てこの池の中に入れて焼失を免れたと古記録に伝える。

法華寺 (天台宗)
・熊野神社の別当寺だったが、明治元年(1868)の神仏分離令により分離。本尊は阿弥陀三尊立像。
・本堂は昭和47年(1972)立て替え。
・承安4年(1174)高倉天皇寄進の写経大般若教残欠を所蔵。

いの池
・形が「い」の字に似ているから名が付いた。
・1988年(昭和63)11月1日、横浜市登録文化財。
・昭和10年頃まで、ここで雨乞い神事が行われていた。その時使った龍の頭の彫り物が博物館に残されている(広報375)。その始まりは、『熊野山縁起』によると、1174年(承安4)の大干魃に、高倉天皇の勅命により神社の別当延朗上人が木彫りの龍頭を12個作り、池の淵で雨乞いの儀式をしたところ、三日三晩雨が降ったという。
・池の中央に水神社をまつり、弁財天がおかれていた。
・例年8月1日に(池さらいをして)水神祭が行われている(1988年当時、広報S63.11)。
・熊野神社では、古来正月14日に水口祭を行っている(1988年当時、広報S63.11)。
・片目の鯉の伝説がある。
・昔、熊野の神が誤って弓で片目を射られた時、池の鯉の目をくりぬいて代用した。それ以来、この池に鯉を放つと、すべて片目が潰れてしまう。ある時、この池の鯉を盗んで売ろうとした男がいたが、「この鯉は片目だ、熊野権現の池の鯉だろう」と一目で見破られたという(広報375)。

ちの池(大曽根第二公園、ちの池公園) 
・もとため池で農業用水に使用していた、昭和44年に児童公園になった。
・池の広さは、3306㎡、樽村に流す水と、大曽根村に流す水の水門があったが、文化年間(1804~17)に中央を仕切った。今の公園はその東半分の樽村分で、西の大曽根分は宅地になっている(わたしたちのおおそね)。
・妊婦が通りかかると、六部の霊に池へ引き込まれたという。
・血の池伝説② 池に生えているマコモが、秋になると赤みを帯びて水が赤く見えた。
・血の池伝説③ 水争いがあり、怪我人の血で池が染まった。

尾根道
・峰道ともいう。昔の幹線道、山の稜線を走る。  *根道(谷戸道、大道)…山の裾を廻る。*野道。

大倉山駅
・大正15年(1926)2月14日、「太尾駅」として開業。
・昭和7年(1932)3月31日、「大倉山駅」に改称。大倉山は駅から始まる。
・現在の駅舎は、昭和56年4月から改修を始め、昭和59年(1984)に完成。ホームの位置を菊名寄りに80メートル移動し、ホームのカーブを緩やかにし、ガードの高さを4メートルに上げた。

武田谷戸(大谷戸)
・大倉山跨線人道橋の北側、谷戸の中央を東横線が縦断した。甲斐の武田氏の末裔が住むという。

大倉山記念館 (元大倉精神文化研究所本館、太尾町706)
研究所の建設……昭和4年(1929)10月から7年(1932)4月9日
施 主  大倉邦彦(1882~1971)
目 的  国民の良心の扉を開く
設計者  長野宇平治
施工業者 竹中工務店
特 色  プレ・ヘレニック様式(長野宇平治命名)
大倉山記念館……昭和59年(984)に開館し、港北の文化の中心へ
文化財指定
平成3年(1991)に記念館が、平成16年(2004)にその建設関係資料4546点が横浜市の文化財に指定された。

芝桜
芝桜の山へと……まず平成16年12月7日に5,000本の苗を植栽

観音前
大倉山駅から大倉山記念館、歓成院、大綱中学校、大綱小学校に囲まれた辺りを、字で「観音前」とか「観音耕地」と呼んでいました。その内の山の部分を「観音山」と呼んでいたようです。
この観音とは、現在、歓成院の本尊として祀られている十一面観音のことで、かつては歓成院とは別に大倉山の麓に観音堂があったことからこの字名がつけられたようです。

神明社 (太尾町760)
太尾村の村社で、天照大神を祀っていました。
かつて太尾村には、神明社(2)、天満社、八幡神社、杉山神社、熊野社があり、村内の歓成院が別当寺を務めていました。明治6年(1873)の村社指定の際に、村民が各地区ごとに祀っている氏神を固執して譲らなかったために、中間をとって大倉山の上の神明社を村社としました。神明社は、昭和33年(1958)に村内5社と合祀され、場所を移転し、太尾神社となっています。

鎌倉古道(下の道)
鎌倉時代、「いざ鎌倉」の非常時に、地方の御家人が一族郎党を引き連れて鎌倉に馳せ参じるために整備された道を「鎌倉道」といい、上の道、中の道、下の道、山の道などがあります。区内を通る鎌倉道は、「下の道」と呼ばれています。
旧綱島橋 → 大乗寺前 → 大倉山公園南縁 → 歓成院北側 → 正覚寺東側

梅林
観梅の歴史は古く、すでに奈良時代から行われており、『万葉集』には118首の歌が載せられています。これは桜の3倍以上で、かつてはそれほどに人気がありました。
さて、大倉の梅林は、東急電鉄が東横線沿線開発の一環として、龍松院から土地を購入し、昭和6年(1931)に開園したものです。その後、昭和18年頃に大倉邦彦が旧制の高等学校を大倉山に開校しようとしたとき、校地に譲り受ける計画もありましたが、実現しないままに、戦後を迎えました。
戦後も梅林には数百本の梅が咲き誇り、東横線沿線の観光地として賑わい、かつては観梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に止まったこともあったそうです。
梅林は、昭和58年から61年にかけて東急から横浜市に売却され、再整備の上、平成元年に今の形で開園されました。
梅は登録品種だけでも400種類ありますが、大倉山には平成16年現在で、36種類、201本の梅が植えられています。一番本数が多いのは「野梅」の47本、次に多いのが大きな実を付ける「白加賀」35本です。珍しいところでは、中国伝来で花が緑色がかった「緑萼梅」、白とピンクの花を思いのままに咲かす「思いのまま」などの梅もあります。
6月頃には、実を付けますが、港北観光協会から園芸農家に依頼して実を集め、協会推奨の大倉山梅酒「梅の薫」を造り、観梅会の時に販売しています。観梅会から1ヶ月程すると梅林周辺は桜が満開になります。
(梅の木の一覧)
白札(白梅系)
野梅(やばい) 47本      白加賀(しらかが) 35本
八重野梅(やえやばい) 6本      冬至梅(とうじばい)   5本
豊後(ぶんご) 5本      玉英梅(ぎょくえいばい) 4本
茶青梅(ちゃせいばい)  4本      月影(つきかげ) 4本
緑萼梅(りょくがくばい) 3本      白玉梅(しらたまばい) 3本
古今集(こきんしゅう) 2本      月宮殿(げっきゅうでん) 1本
杉田(すぎた)      1本      しだれ          1本
田子の浦(たごのうら) 1本      思いのまま(おもいのまま)1本
長者(長寿か)      1本      白一重(しろひとえ)   1本
種類不明        25本
ピンク札(紅梅系)
八重寒梅(やえかんばい)10本      見驚(けんきょう) 4本
鹿児島紅(かごしまこう) 4本      八重旭(やえあさひ)   4本
一重唐梅(ひとえとうばい)3本      寒紅梅(かんこうばい)  2本
八重(やえ)       2本      玉すだれ(たますだれ)  1本
しだれ紅         1本      御所紅(ごしょべい)   1本
花香実(はなかみ) 1本      筑紫紅(つくしこう) 1本
桜梅(さくらばい) 1本      姫千鳥(ひめちどり)   1本
桜鏡(さくらかがみ)   1本      三吉野(みよしの)    1本
玉垣(たまがき)     1本      蓬莱(ほうらい) 1本
種類不明        11本

龍松院 (曹洞宗虎石山龍松院、太尾町1023)
文殊堂由来石碑(文殊堂前の入口左手側)
文殊堂智恵殿には、小机城主笠原能登守康勝公が陣中常に胸に掛け奮戦せる不動尊像(文安三年1446年作)と、君主北条早雲公より拝領の文殊菩薩像を霊感により合祀して、堂宇を建立した。慶安三年(1643年)徳川三代将軍家光公は此の由来を聞し召され、文殊堂領として九石余の御朱印を賜り、代々将軍家より下賜さる。爾来、出世文殊、怪我除け不動と近郷の者より深い信仰を集めた。
是れ、龍松院の起源なり。
昭和五十九年七月吉祥日
龍松院廿五世憲雄代建立
「龍松院由来」石碑(山門入口右手側)
開創 大順宗用和尚永禄三年(1560)示寂
開基 小机城二代目城主(所領拾万石)笠原能登守康勝公
開山 小机雲松院明山宗鑑大和尚
縁起 当院は、笠原能登守龍松院殿外視禅眼庵主(天文年間歿不詳)が、霊夢により文殊堂を建立。其の後六代を経て雲松院九世明山宗鑑大和尚万治四年示寂(1661年)を請じて開山とした。寛政八年(1796)出火炎上。天保二年(1831)十六世元明祖享和尚再建したが、老朽化したので、昭和五十四年廿五世禅鼎憲雄和尚改築、現在に至る。
昭和五十九年七月吉祥日
虎石山龍松院廿五世憲雄代 建立
山門の前には、六地蔵、観音菩薩石像、庚申塔があります。
文殊菩薩像(湛慶作という)は、長さ1寸8分(約5センチ)の、獅子に乗った像です。境内の文殊堂脇には、笠原氏を祀った五輪供養塔が2基あります。
本尊は釈迦牟尼仏。
毎年4月25日に文殊菩薩の御開帳がありましたが、最近は2月末の観梅会に合わせて開帳しています。
笠原氏 笠原氏は、小田原北条氏の家臣です。一時廃城となっていた小机城が、北条氏の勢力下に置かれたのに伴い、笠原越前守信為がその城代となりました。この笠原氏の下、近在の武士団は小机衆として組織され、小机城は後北条氏の有力な支城となりました。太尾村周辺もその勢力下におかれ、大倉山の北側の山裾に笠原氏一族の者が砦を築き住んでいました。その跡地を「殿谷」といいます。
天正18年(1590)の北条氏滅亡により、笠原氏は冨川と名前を変えました。旧家の冨川家はその子孫になります。
小机の雲松院は笠原信為が建立した笠原氏の菩提寺です。龍松院はその末寺になります。

東横神社 (太尾町1014 神域330㎡)
昭和14年(1939)6月22日、東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄両社社長五島慶太が両社の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営し、伊勢の神宮より本体を遷座したものです。翌23日鎮座奉祝祭と物故殉職社員の慰霊祭が行われ、渋沢栄一をはじめとして44柱が合祀されました。その後、毎年慰霊祭が行われており、昭和34年(1959)からは五島慶太も祀られています。神社は現在でも東急グループの所有であり、関係者以外の参拝は出来ません。

太尾町
古くは「橘樹郡太尾村」といい、村内を三分して東から上太尾(駅前辺り)、中太尾、下太尾(鶴見川沿い)といいました。明治22年(1889)の市町村制施行の際に「橘樹郡大綱村大字太尾」となり、昭和2年(1927)に横浜市に編入され「神奈川区太尾町」、昭和14年(1939)に「港北区太尾町」となりました。
地名の由来 「太尾」の地名の由来は、かつて海岸線がこの辺りまで来ていて、大倉山が岬のように海へ突き出しており、その形が動物の太い尾のように見えたことから付けられたといわれています。

以上