『楽・遊・学』平成21年9月号原稿

シリーズ わがまち港北

第129回  港北の名望家 -大日本博覧絵-

 

横浜開港資料館のホームページで、企画展「近代を迎えた横浜の村々-地方名望家の誕生」(10月28日~12月27日)の予定が発表されました。「地方名望家(ちほうめいぼうか)」とは、地域社会のリーダーたちのことです。横浜開港により、急速な近代化の波にさらされた横浜周辺の村々で、地域振興につとめ港都(こうと)・横浜の発展を支えた「地方名望家」たちの展示です。ホームページには、地方名望家の一人だった南綱島村池谷義広(いけのやよしひろ)邸の銅版画が掲げられていました。
池谷邸の絵は、『大日本博覧絵』(だいにほんはくらんかい)に掲載されているものです。『大日本博覧絵』は、日本全国の農家、商店、工場、会社、寺社などを細密な銅版画で紹介した10巻ほどの画集です。この内、港北区域の建物を掲載した巻は、明治22年(1889年)に出版されたもので、絵には明治18、19年頃の様子が描かれているようです。
港北区内では、1軒の醤油醸造家(しょうゆじょうぞうか)と5軒の農家が描かれていますので、掲載順に紹介しましょう。
①大豆戸村(まめどむら) 吉田三郎兵衛邸
吉田家は屋号を「堀上(ほりあげ)」といい、江戸時代には大豆戸村の名主を務めた家です。天保(てんぽう)年間(1830~44年)より戦中まで醤油の醸造をしていました。年配の方は太陽印の醤油を御記憶でしょう。三郎兵衛は、万延(まんえん)元年(1860年)の生まれで、橘樹郡(たちばなぐん)の郡会議員、大綱村(おおつなむら)村長、耕地整理組合長などを歴任していました。
②大豆戸村 椎橋宗輔(しいはしそうすけ)邸
菊名駅西側にある椎橋宗輔家は、初代の三九郎が寛保(かんぽう)年間(1741~44年)に没したと伝えられている旧家です。七代目の宗輔は天保9年(1838年)の生まれで、幕末の大豆戸村村長、明治になると県会議員や大綱村村長などを務めていました。
③小机村 浅田治郎作邸
治郎作は橘樹郡(たちばなぐん)の郡会議員を務めていたようです。浅田家については、どなたか教えてください。
④南綱島村 池谷義広(いけのやよしひろ)邸
池谷家については、桃栽培を始めた道太郎(みちたろう)について第15回、30回で書きましたが、義広はその父親です。義広については開港資料館の展示解説にゆずることとしましょう。
⑤北綱島村 飯田助大夫邸
助大夫は飯田家で代々受け継がれた通名(とおりな)で、ここでは第10代広配(ひろとも)を指します。広配は、文化10年(1813年)吉田村相澤家の生まれで、飯田家へ養子に入り、幕末から明治の前半に地域の指導者として活躍しました。養豚、養蚕(ようさん)、製茶などを振興しましたが、特に天然氷の生産を始めたことで知られています(第43回参照)。
⑥師岡村(もろおかむら) 横溝喜重邸
樽町(たるまち)の吉川英男さんに伺ったところ、横溝家は屋号を「百石(ひゃっこく)」といい、江戸時代は師岡村の名主、明治になり戸長(こちょう)を務めた家だそうです。獅子ヶ谷(ししがや)の横溝屋敷とは別の家です。
『大日本博覧絵』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られますし、①から⑥の銅版画は少し修正したものが『わが町の昔と今 8 港北区続編』の「明治時代の民家」に掲載されています。『大日本博覧絵』の序文によると、この銅版画は「緻密鮮明(ちみつせんめい)にして、なおかつ家屋(かおく)の構造たるや、実に真を写し、そこに至りて目撃するがごとく」(少し読みやすく改めました)と記されています。①吉田家の長屋門、④池谷家の主屋(おもや)と土蔵、⑤飯田家の長屋門などは描かれた当時の建物が現存していますから、絵と見比べるとその正確さがよく分かります。
港北区域には『大日本博覧絵』に掲載されてもよいと思われる地方名望家の家がまだまだ数多くありますが、6軒以外の家は掲載を依頼されなかったか、依頼を断ったものと思われます。
さて、地方名望家たちは、具体的には、村長、議員、校長、大地主、会長、組合長、委員、総代、僧侶や神主などの肩書きを持っていました。あるいは、自治功労者と呼ばれた人たちもいました。第37回で、神奈川県の人名辞典には港北区域の人物があまり取り上げられていないことを書きましたが、最近になり、こうした人たちのことを詳しく記した本があることが分かりました。その話は次回に。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)