よくある質問~大倉精神文化研究所FAQ~ 

大倉精神文化研究所でお問い合わせの多い質問や、過去に寄せられた質問とその回答を掲載します。

今後も随時、更新していく予定です。

 

質問1

大倉邦彦さんはどんな人なのですか?
答え

大倉邦彦は紙問屋の会社の社長でしたが、いくつもの学校や研究所をつくりました。 大倉さんは教育に熱心で、世の中の役に立つ立派な人間になるためにはどうしたらいいかを考え、心や身を鍛える方法を研究し、自らそれを実行した人でした。

 

質問2

大倉邦彦さんは大倉財閥の関係者ですか?

答え

大倉邦彦や大倉精神文化研究所は、大倉喜八郎氏が設立した大倉財閥とは関係がありません。

 

質問3

大倉精神文化研究所という名前はなぜついたのですか?
答え

「大倉」は大倉邦彦の名字からつけられました。
「精神文化研究所」の「精神文化」とは心のことです。(物質文化・・・もの=建てもの、機械、車など)
大倉邦彦は明治以降の日本が、古くからの文化や考えをおろそかにして、西洋風の考えばかりを取り入れるようになったために、日本人の心が貧しくなってしまって世の中が悪くなっていると考えていました。そこで邦彦は単なる学問を研究する施設ではなく、東洋と西洋の文化のいいところを集め、立派な人間になるにはどうしたらよいかを研究し、その成果を広めることを目的として、「精神文化研究所」をつくりました。
 

 

質問4

なぜ大倉山記念館という名前に変わったのですか?
答え

大倉精神文化研究所は昭和46年(1971年)に大倉邦彦が亡くなってから、経営がとても苦しくなりました。そこで研究所は、昭和56年(1981年)に土地を横浜市に売って、建物は市に寄贈しました。それに伴って、研究所の建物はコンサートや展示会、講演会など、さまざまな活動が出来る施設として生まれ変わり、名前も「大倉精神文化研究所」から「大倉山記念館」に変わりました。

現在、大倉精神文化研究所は大倉山記念館の中で活動を続けています。


質問5

なぜ、大倉邦彦さんは大倉山の土地を買ったのですか?
答え

研究所と図書館を作るためです。大倉邦彦は、日本の伝統や文化を大切にすることと、社会の役に立つ立派な人を育てたいと考えていました。そういう勉強をするための本を集め、研究所と図書館をつくりました。

 

質問6

大倉山記念館は戦争のとき、どんなふうになったのですか?
答え

大倉山記念館は昭和19年から20年にかけて、海軍の気象部というところの施設の一部として使われていました。
気象部は天気などに関する調査や研究を行うところです。戦争では飛行機や船が使われますが、霧が出たり、波が高くなったりすると、それらを使うことが出来ないので、天気に関する情報はとても重要なものでした。大倉山では主に霧の研究や暗号電文の解読などが行われていたようです。

 

質問7

太尾駅から大倉山駅に名前が変わったのはなぜですか?
答え

駅が出来たのは大正15年(1926年)2月14日で最初は太尾駅と言いました。その後、昭和7年(1932年)3月31日大倉山駅に改称します。駅名を変えた理由は2つ考えられています。
①「ふとお」という名前が、東京や横浜市内から来る人たちになじみのない駅名だったから。
②「太尾」と漢字で書くと「たお」と読まれ、「ふとお」と言うと、港の「埠頭」と間違えられたから。

 

質問8

大倉邦彦さんと大倉山駅の名前が似ているのですが、何か関係があるのですか?

答え

東急電鉄が駅名を変えたいと考えた時に、大倉精神文化研究所へ名前の案を考えるように頼んだため、大倉精神文化研究所や大倉邦彦に似た名前になりました。


質問9

大倉山記念館の建物の特徴はどんなところですか?
答え

大倉山記念館は「プレ・ヘレニック様式」という建築様式で建てられています。一番よくわかる特徴は、上が太くて下が細い柱です。
「プレ・ヘレニック」とは「ギリシャ以前の」という意味です。
記念館は一見するとギリシャ神殿のような見た目をしていますが、実は建物の中には、日本の建築様式も取り入れられています。

 

質問10

大倉山記念館の運営や掃除などのメンテナンスは誰がやっているのですか?
答え

横浜市から委託された指定管理者の人がやっています。

 

質問11

大倉山記念館は今、誰が、どんなことに使っているのですか?
答え

ギャラリー
ギャラリーでは一般の人がサークルなどで作った絵画や工芸作品を展示しています。またプロの写真家や画家が展示会(個展)を開いたりしています。
集会室
大倉山記念館には集会室が10部屋あります。集会室では、さまざまな団体の勉強会や講演会・会議、音楽や美術など同じ趣味を持った人が集まるサークルの活動などが行われています。
ホール
ホールでは、音楽教室やサークルの発表会、プロの音楽家のコンサートなどが行われています。また研究所の講演会をここで行うこともあります。

 

質問12

吹き抜けの窓は、黄色に輝いていますが、夜になったらどうなりますか?
答え

昼間は太陽の光が差し込んで窓は黄色に輝いていますが、吹き抜けの所には明かりがついていないため、夜になると暗くなってしまいます。
 

質問13

大倉山公園の梅林はいつ出来たのですか?
答え

大倉山の梅林は、東京急行電鉄(東急)が電車の乗る人を観光客で増やすために、龍松院から3ヘクタールの土地を買って昭和4年から整備を行い、昭和6年に開園しました。梅は東横線の学芸大学駅の辺りにあった金持ちの別荘の梅を移植したのが始まりだそうです。

 

質問14

梅林が今の広さになったのはいつですか?
答え

昭和58年から61年にかけて、梅林は東急から横浜市に売られました。横浜市は新たに梅を植えたり、散策用の道や休憩所をつくったりして梅林を整備し、平成元年に今の形で梅林が開園しました。なお、梅林には平成25年現在、約224本の梅が植えられています。なお、梅林の現在の面積は約1万㎡、梅林を含む大倉山公園全体の面積は約6万9千㎡です。

 

質問15

梅林の梅や松は、誰が植えたのですか?
答え

梅林の梅は、最初東急電鉄が植えていました。その後、昭和58年(1983)から昭和61(1986年)の間にかけて少しずつ横浜市が土地を買い取ります。それからは横浜市が少しずつ梅を植え替えています。

 

質問16

大倉山記念館の広さはどれくらいですか?

答え

記念館の延床面積は約2989.63㎡です。