(注)この報告は『大倉山論集』第57輯に掲載されたものです。一部省略等がありますので、引用等については『大倉山論集』第57輯をご覧下さい。

第18回研究所資料展
信念の人、大倉邦彦
ごあいさつ
大倉精神文化研究所の創設者であり、研究所の本館建物(現、大倉山記念館)の施主である大倉邦彦は、実業家、教育者、思想家として様々な活動をしていました。大倉邦彦は、大倉洋紙店・特種製紙・大倉製作所等の企業を経営する実業家であり、富士見幼稚園・農村工芸学院・浄牧院の園長・院主であり、東洋大学学長を務めていたこともありました。
大倉邦彦が関わったこれら組織は、それぞれ独立した別の団体ですが、大倉邦彦は共通する理念を持って、LIFE WORK(使命事業)として経営していました。
そこで、今回は、大倉精神文化研究所の設立理念にも通ずる、大倉邦彦の経営理念に関する展示を行うこととしました。
これらの資料をご鑑賞いただいて、大倉山の地に精神文化研究所を設立した大倉邦彦のLIFE WORK(使命事業)に想いを馳せていただければ、これに勝る喜びはございません。
◆会期:平成22年(2010)7月3日(土)~8月31日(火)
◆会場:図書館閲覧室および公開書庫
展示パネル及び展示品解説
大倉邦彦 明治15年~昭和46年
明治15年(1882)、佐賀県神埼郡(現、神埼市)の素封家江原家に生まれました。上海の東亜同文書院を明治39年(1906)に卒業後、大倉洋紙店に入社しました。明治45年(1912)、社長の大倉文二に見込まれて養子となり、大倉文二の死後は社長に就任しました。
大倉邦彦は、社長として事業を大きく発展させましたが、真の経済活動とは単なる利益追求ではなく、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると考えていました。この観点から、教育事業に携わり、東京目黒の富士見幼稚園や佐賀県西郷村の農村工芸学院などを開設しました。また、この考え方をより深め、さらに世の中に広く普及するため、昭和7年(1932)大倉精神文化研究所を設立しました。
研究所は、戦中戦後の混乱期に何度も存亡の危機を迎えますが、大倉邦彦は全私財をなげうって信念を貫き通し、研究所の維持発展に尽力しました。
昭和46年(1971)、死去(享年89歳)。
大倉邦彦と揮毫
揮毫とは、「毫を揮う」という意味であり、著名人や書家などが、人からの依頼に応じて格言などを筆で書くことをいいます。本研究所には、創設者大倉邦彦が揮毫したものが計158点保管されていますが、そこには当時、大倉邦彦が抱いていた思想や信念が如実に現れています。
揮毫158点の中で最も多く書かれているのが、禅の言葉です。大倉邦彦は仏教、神道、儒教と宗教宗派にかかわらず幅広く学んだ人ですが、とりわけ仏教、禅に深い関心を抱きました。禅寺で参禅し、その後、大倉精神文化研究所で坐禅会や作務(修養会)を行うなど、自ら積極的にその指導に当たりました。
今回はその揮毫158点の中から、大倉邦彦の思想の中核ともいうべき「随処に主と作る」「宇宙心、万有古今に通ず」の2点を紹介します。
1、大倉邦彦揮毫-「随処作主」 沿革史資料№11567(複製)森川家寄贈
『臨済録』の中に「随処に主と作れば、立処皆真なり」とあります。『臨済録』とは、臨済宗の開祖、臨済義玄の語録です。
「随処に主と作る」とは、今自分がどのような環境にあっても、「今、この瞬間」に本来の自己になり切り、自らが主人公となるという意味です。
人というものは、周囲の環境に流され、引きずられ、日々を漫然と過ごして、全てが行き当たりばったりです。これでは真に「生きている」とはいえないでしょう。
「今、この瞬間」に目を覚まし、周囲の何物にも左右されない不動なる自己を確立し、自らがこの世界の主人公となる。そうすれば、今自分が立っているこの場所が、真実の場所になると臨済は説きます。
大倉邦彦は「現実刻々の生活が、そのまま信仰の道場」(「常思猛進」)といいます。つまり、修行とは道場で一人特別なことをするだけではなく、平凡な日常生活の全ての瞬間が修行であるということです。たとえ今どのような環境にあっても、「平常心」を保ち、自らが主人公となることが出来れば、これこそ真の修行であり、これこそ悟りへの道なのです。
森川覚三の言葉
皆がその気になって、自分の持ち場において、自分の役割の仕事を「随所作主」で行う。各自の仕事は自分の力で選んだというものではなく、運命でそうなったと考えるべきである。われわれが生まれたことでさえも、宇宙の大精神によるものだから、自分の持場、持場で努力して一隅を照らすということができれば、われわれが生まれてきたことは大変意義あるものになっていく(『森川覺三の世界-経営能率に賭けたその生涯-』日本能率協会、昭和61年、p170)。
2、大倉邦彦揮毫-「宇宙心通於万有古今」 沿革史資料№11566(複製)江原家寄贈
大宇宙の根源であり、この宇宙の全ての存在を生かし、成り立たせているものを大倉邦彦は「宇宙心」と呼んでいます。これを中国風に言えば「道」であり「理」であり、「神」「根源神」「法則」「エネルギー」と言うこともできます。
この大宇宙は「宇宙心」によって成り立っており、それは万物にゆき渡って全ての現象を司っていると言います。そしてこの「宇宙心」の働きは、太古の昔から途切れることなく永遠に続いていくものなのです。これが「宇宙心、万有古今に通ず」という意味です。
以上を「大宇宙心」とするならば、私たち一人一人の心は「小宇宙心」とも言えます。これは「仏性」「真如」「神性」「内在宇宙心」と言ってもよいでしょう。私たちの心とは「大宇宙心」の一部であり、本来は一つであるということができます。私たちは本来一人一人がこの「宇宙心」を宿しているのであり、それをまず「自覚」し、そして無欲・謙虚に、「今」を真剣に生きる事によってその「宇宙心」が発露してくるといいます。
大倉洋紙店
大倉書店で成功した大倉孫兵衛は、明治22年(1889)、出版に必要となる洋紙を輸入する大倉洋紙店を開業します。その3代目社長が、当研究所創設者の大倉邦彦です。大倉邦彦は、養祖父大倉孫兵衛・養父大倉文二の商売の思想、方針を継承し、大倉洋紙店の発展に寄与しました。
戦前・戦中・戦後にかけて数回の合併・会社名変更の後、平成17年(2005)に新生紙パルプ商事株式会社となり、現在に至ります。
3、写真-大倉洋紙店本店 沿革史資料№6809(複写)
昭和4年(1929)11月、日本橋区西河岸(現、中央区)に竣工した本店ビルの写真です。設計したのは、後に当研究所本館も設計することとなる建築家長野宇平治です。
このビルは、西河岸の代名詞として親しまれるランドマーク的な存在でした。残念ながら、現在は建て替えられ、その勇姿を目にすることは出来ません。
4、パネル解説-社員教育
大倉邦彦は社員の人格形成の上に会社の発展があり、社会の繁栄があると考えていました。大倉邦彦は自身の経営する大倉洋紙店において、『商売往来』・『小店員の心得』・『大倉洋紙店綱領』などを通じて、人格形成を主とする社員教育を行っていました。
5、展示ケース-『小店員の心得』 沿革史資料№7130
年若い店員を対象に作成された小冊子。「人はなぜ生きるのか」「宇宙心」など、大倉邦彦の基本精神から、日常生活の言葉遣い、挨拶、礼儀作法に至まで事細かに書かれています。
6、展示ケース-『商売往来』 沿革史資料№7132
大倉邦彦の商売人としての精神が書かれています。商売は「金儲け」ではなく、人や社会のために尽力することが天の道にかなうとしています。
7、展示ケース-『大倉洋紙店綱領』 沿革史資料№5342
会社方針が書かれた小冊子で全社員に配布されました。利益のために手段を選ばないようなことは断じてしない、といった決意が書かれています。
富士見幼稚園 大正13年~昭和19年
富士見幼稚園は、大正13年(1924)に本研究所の創立者である大倉邦彦によって東京市目黒区(現、東京都目黒区)に設立されました。
当時、幼児教育はさほど重視されてはいませんでしたが、大倉邦彦は、幼少時代の学びや体験が人間としての基礎を作り、その後の人生に大きな影響を与えると考え、幼児教育の必要性を訴えました。そして、自らの信念を実現するために富士見幼稚園を開設し、昭和19年(1944)戦局の悪化によって閉園するまで、毎年100名程の園児を送り出しました。
また、よい母親を育てるための成人学校である「富士見学びの会」や、卒園した子供たちを対象に「富士見日曜学校」も開きました。
大倉邦彦は幼稚園経営を通して、自身の目指す精神教育実現のためには、園児の教育だけでなく、日本文化の創造と発展に寄与し、教育を行うに相応しい知識と人格を持った人間の養成と、幼稚園から大学まで一貫した方針で行う総合教育が必要であるという思いを強く抱くようになり、そのことが研究所設立の構想へとつながっていきます。
8、写真-富士見幼稚園の園舎 大正14年~昭和11年 沿革史資料№6873(複製)
幼稚園は大正13年(1924)に設立されますが、園舎の落成は翌年の大正14年でした。写真の園舎は昭和11年(1936)に改築が行われるまで使用されました。
9、写真-庭で遊ぶ園児たち 沿革史資料№6760-122(複製)
10、写真-朝の参拝 沿革史資料№6760-130(複製)
11、展示ケース-恩物(積み木) 沿革史資料未登録
「恩物」はドイツの教育学者、フレーベルが発明した教育玩具です。幼児が神から賜った物という意味から、ドイツ語では「Gabe」と名付けられており、日本では「恩物」と訳されました。
いわゆる「積み木」のことで、展示品は富士見幼稚園で実際に使用されていたものです。
12、パネル解説-富士見学びの会
富士見幼稚園では保護者会から発展して、園児の母親から一般の婦人までを対象とした成人学校である「富士見学びの会」が設立されます。
大倉邦彦は、幼稚園は家庭の延長であり、その教育方針は一致していなければならず、また、母親は子供の教育に大きな役割を担っているという思いから、主婦の思想を向上させ、活動心を養成することが必要であると感じていました。
学びの会はこの2つの目的を達成するために開かれたものでした。
13、写真-富士見学びの会会員と製作品 沿革史資料№8214(複製)
富士見学びの会では修養会として、瞑想・神前礼拝、大倉邦彦の講話を行っていました。また会員相互の親睦をはかる趣味会として、手芸や洋裁などの教室も行っており、写真で並べられた洋服も趣味会で作られたものだと思われます。
また学びの会では、社会奉仕を目的としたバザーや、展覧会なども行っていました。
14、パネル解説-富士見日曜学校
日曜学校は毎週日曜の午前9時から11時半まで、6歳から17歳までの男女を対象に、富士見幼稚園で開校されました。その目的は神仏の教えや日本古来の歴史や文化を大事にする教育で、博愛精神や愛国心を育てることにありました。
大倉邦彦は、機械的に知識を詰め込むばかりの学校教育によって現代社会ではさまざまな問題が引き起されており、良い人間を作るためには精神面の教育が必要であると考えていました。日曜学校はそのような学校教育の不足を補う塾のようなものでした。
15、写真-富士見日曜学校九品仏遠足にて 沿革史資料№6873(複製)
日曜学校では、富士見幼稚園で行う講話や遊戯などのほか、遠足がありました。この写真は昭和4年10月13日に世田ヶ谷区の九品仏へ行った時の写真です。 また遠足では大倉山に来たこともありました。
農村工芸学院 昭和3年~昭和13年
(昭和6年4月に国民女子工芸学院、昭和8年4月に国民家政学院と改称)
昭和3年(1928)1月、大倉邦彦が郷里佐賀県神埼郡(現、神埼市)に設立した女子の教育機関です。院主は大倉邦彦、院長は江原貞一(邦彦実兄)。学院設立の目的は、女子に職業教育を施し独立生計をたてさせることにありました。ひいては、それが郷里の農村振興にもつながると考えていたようです。また、学院は全寮制を採用しており、正しい人生観を教えることも目的としていました。
設立後は、ユニークな私学校として注目されていました。しかし、大倉邦彦は昭和7年の大倉精神文化研究所開設にともない非常に多忙となり、学院経営から手を引かざるを得なくなります。その後、江原貞一が単独で学院経営を行いますが、生徒数の減少、学院維持の経費に関する問題、江原貞一も村長としての仕事におわれるなど諸事情が重なり、昭和13年(1938)廃校となりました。
16、展示ケース-『(農村工芸学院)読本』 沿革史資料№2643
学院院長(江原貞一)が自ら編纂した手作りのテキストです。古今の文章や、学院院主である大倉邦彦の言葉などが収録されています。
17、写真-学院生製作の作品 沿革史資料№8214(複製)
年次不明ですが作品展覧会の写真と思われます。
「技芸」で製作した作品は、邦彦自らが、東京大阪地方の大商店と交渉し、直接市場に送り出していました。昭和6年6月18日付けの『東京時事新報』は、「企業生産品に対抗して市場に売りさばくことが出来、生徒は自己の生産によって自活してゐるという」と報じています。
18、写真-昭和4年第2期農村工芸学院卒業写真 沿革史資料№6811(複製)
写真後列左から、江原英興(貞一長男)、大倉邦彦、江原貞一。前列の卒業生の洋服姿と座り方が、目を引く卒業写真です。
背景に見える建物が、農村工芸学院の校舎です。写真はモノクロのため分かりませんが、赤い色の屋根でした。
大倉精神文化研究所
大倉精神文化研究所は昭和7年(1932)4月9日に大倉山の地に設立されました。
大倉邦彦は、明治の文化が精神的部分を忘れたために、教育や宗教に携わる人々はそれを単なる生活の糧としか考えておらず、生きた教育が実現されていないために、社会で様々な問題が起きていると考えました。
そこで、理論と実践による教育を実行できる優れた宗教家、教育家、思想家、実行家を輩出し、国民に宗教的信念に基づく人生観と、健全なる国家観を確立させることを目的に、大倉邦彦は私財を投じて精神文化研究所を設立します。
研究所には各分野の一流の研究者を集めて、学術研究を進めるとともに、精神文化に関する国内外の図書を収集して附属図書館も開設しました。また、企業や学生など一般人を対象とした修養会なども開催していました。
19、写真-欧州調査旅行 沿革史資料№6870(複製)
研究所の設立にあたり、大倉邦彦は欧米各国の教育施設の視察に行っており、研究所にかける情熱は並々ならぬものでした。写真は大正15年(1926)11月11日に国際連盟本部前(スイスのジュネーブ)で撮影されたものです。左が大倉邦彦、右は国際連盟職員の原田健氏。
20、展示ケース-ヨーロッパの学校のパンフレット 沿革史資料№5922
大倉邦彦は研究所設立にあたり、大正15年(1926)から足かけ2年ヨーロッパ各国の教育施設を視察しました。その際に集めたパンフレットの1つです。
21、写真-日本精神文化曼荼羅 井村方外画
沿革史資料№11032(パネル写真は複製、実物は図書館閲覧室に展示)
「日本精神文化曼荼羅」は、大倉精神文化研究所設立における精神を表した絵です。
聖徳太子を中心に神道、仏教、儒教を極めた先哲たちを描き、四隅に仏教の守護神である四天王を配置した構図には、三教一致という日本の伝統文化を大事に守り伝え、世界に広めていこうという大倉邦彦の思いが込められています。
22、写真-建築中の大倉精神文化研究所本館 沿革史資料№8214(複製)
23、写真-大倉山学生修養会の作業訓練 沿革史資料№6781(複製)
大倉邦彦は、知識と実践による修練なくして真の教育は達成できないと考えていました。そこで大倉精神文化研究所では、作務(労働奉仕)や坐禅といった実践活動をとおして、人格を錬成する修養会を行っていました。
大倉邦彦と東洋大学
大倉邦彦は、昭和12年(1937)から昭和18年(1943)まで二期6年間にわたって東洋大学学長を務めました。大倉邦彦が就任する前の東洋大学は慢性的な財政難、学生数の減少に苦しんでいました。この閉塞状態を打開すべく学長に推薦されたのが大倉邦彦でした。大倉邦彦は当時、日本を代表する三大洋紙商社の一つ大倉洋紙店の社長であり、また大倉精神文化研究所の所長でもありました。東洋大学の歴代学長は研究者や仏教者が就任するというのが慣例でありましたから、実業家である大倉邦彦の学長就任は当時としては異例のことでした。
大倉学長はこの6年の就任期間、無給で働き、さらに自らの私財も投じて東洋大学の再建に尽力しました。この間、史学科の新設、また実用的な人材の養成を目指して拓殖科(現経済学部)を新設し、自ら学科長となって直接指導にあたりました。これらの結果、学生数は激増して財政は安定し、東洋大学が戦後、文科系単科大学から総合大学へと発展する礎を作ったのです。
24、パネル解説-大倉精神文化研究所と東洋大学
大倉邦彦の学長就任を熱烈に押し進めたのは、西義雄という人です。西義雄は当時、大倉精神文化研究所の研究主任(後、当研究所第7代所長)であり、東洋大学の教授(印度哲学gt)でもありました。西義雄は東洋大学の窮状を訴え、東洋大学創立者、井上円了の建学の精神である「護国愛理」を説いて大倉邦彦の心を大きく動かしたのです。
学長就任後の大倉邦彦は、大倉精神文化研究所の理事や研究員を東洋大学の幹事長、学長秘書、学生主事に任命し、学長を初めこれらの職員も全て無給で東洋大学の再建に尽力しました。(大倉邦彦の東洋大学における業績の詳細については、『大倉山論集』第五十輯をご覧下さい。)
25、写真-「護国愛理」(大倉邦彦筆・個人蔵)
東洋大学は、井上円了が明治20年(1887)に創立した「哲学館」をその起源とします。「三田(慶應)の理財、早稲田の政治、駿河台(中央)の法学、白山(東洋)の哲学」と言われるように、東洋大学はもともと哲学の大学であり、創立者井上円了は孔子・釈迦・ソクラテス・カントを四聖として掲げ、「護国愛理」、つまり「真理を愛し、国家を護り発展させる」ことを建学の精神としました。大倉邦彦はこの建学の精神に強く共感し、在任中に「護国愛理」の色紙を数多く書いています。この写真はその1枚です。
26、パネル解説-大倉邦彦学長就任時の言葉 新旧学長送迎式(昭和12年7月1日)
今般私を動かして学長就任を受諾せしむるに至った動機は実に本学学祖井上円了先生の熱烈なる護国愛理の建学精神である。学祖のこの精神は私が精神文化研究所を創立した精神と全く合致し、今般の学長就任の交渉は実に井上学祖の生ける魂が私の心に呼びかけられた如く感じられ、微力を顧みず事情に囚はれる事なく起つて学祖の精神を興隆すべき責任をさへ覚えるに至った。これが私をして乏しきに重任を受くる決意をなさしめた所以であり、動機の全部である(「大倉山だより」『躬行』第42号、1937年8月1日)。
27、写真-東洋大学修養会 昭和16年5月 沿革史資料№6762-238(複製)
大倉邦彦は東洋大学の新入生を、大倉精神文化研究所で行われていた大倉山修養会に参加させました。そこで「行の精神」に基づく生活を体験させ、「知識」に偏重することのない真の人材教育を目指したのです。
28、展示ケース-大倉邦彦東洋大学学長退任挨拶状  沿革史資料№8246-20
大倉邦彦は、昭和12年(1937)から昭和18年(1943)まで二期6年間にわたって東洋大学学長を務めました。この葉書は、大倉邦彦が退任した際の挨拶状です。
29、展示ケース-昭和14年東洋大学卒業アルバム 沿革史資料№6856
大倉邦彦が東洋大学学長時代の卒業アルバムで、文学部3学科卒業生74名の写真が掲載されています。大倉邦彦が学長就任時には、381名(全学部)であった学生数は、退任時の昭和18年(1943)には新学科の創設などにより1378名に増加しました。