主催 財団法人大倉精神文化研究所


 

会(完結)



月例講話会は、平成15年度より、「大倉山講演会」と名称を変更いたしました。

講演録:これまでの講演の内容は、月例講話として刊行されています。


平成14年度月例講話会

-武道精神とスポーツ精神-

日本古来の武道と外来のスポーツについて、さまざまな側面から取り上げ、東西両洋の精神文化について考えたいと思います。子どもから高齢者に至るまで、武道やスポーツの精神が現代の生活の中にどのように受け入れられているのでしょうか。そして、私たち日本人がそこから得ている美意識、修行観、教育観、身体観、技術観などにつて皆様と一緒に考えてまいります。

平成15年3月15日(土)   遊びとスポーツ-遊戯行動の変遷と現代っ子の心と体-   斎藤昇(横浜市立中川西小学校校長)

洋の東西を問わず、いつの時代でも、“子どもは、子ども”であり、決して大人を縮小したものでないことは、誰でも認識していることで論を俟たないところです。つまり、子どもは、精神的にも肉体的にも未発達、未成熟な存在であり、日々成長を続けている発展途上人ということができます。
「遊戯三昧(仏教)」、「風の子」…。時代の移り変わりと遊戯行動の変化は密接に繋がっており、環境を自ら選択できない子ども達は、その時々の時代背景の中でしたたかに生き抜いてきました。
今、飽食暖衣の時代にあって、価値観の多様化が進み、急激な変貌を遂げている諸種環境の中で生きている子ども達の遊戯行動と心と体の変化について考えてみたいと思います。子ども時代を失った子ども達を作らないために、共に考えてみましょう。

平成15年2月15日(土)   近代スポーツとアマチュアリズム   大熊廣明(筑波大学助教授)

最近ではプロも参加するようになりましたが、かつてのオリンピックはアマチュアしか参加が許されませんでした。プロフェッショナルとアマチュアとの主な違いは、競技をすることで金銭を得るか否かにありますが、初期のアマチュア規定では、それ以外に職業が大きな意味を持っていました。職人や職工や労働者はアマチュアとは認められなかったのです。これは一体何を意味していたのでしょうか。19世紀における近代スポーツの成立事情とアマチュアリズムの関係について考えてみたいと思います。
また、このアマチュアリズムはわが国ではどのような受け止められたのでしょか。明治期末から大正期における競技会参加規定などから、当時のアマチュアに対する理解についてお話してみたいと思います。

平成15年1月18日(土)   刀剣観にみる日本人の精神性   酒井利信(清真学園女子短期大学専任講師)

武道のひとつである剣道・剣術の文化的独自性ということを考えたとき、そのひとつとして刀剣を一種神聖視するような観念が浮かび上がってきます。これを刀剣観といっていますが、剣道・剣術の技術観に深く介入しているものです。しかし、注意深く探ってみると、刀剣に対する観念は、ひとり剣の技術の問題ではなく、古来、信仰や宗教、政治や社会制度など実に多くの領域において展開していたことがわかります。そこには様々な日本人の精神世界が垣間見られます。
今回は皆さんと一緒に、剣術の刀剣観を入り口にして、時代を古代にまで遡りながら、その奥にある日本人の精神世界、さらにはそのルーツと思われる東アジアの精神文化を探検してみたいと思います。

平成14年12月21日(土)   芝生とスポーツ-日本人の芝生文化-   柴田智之(横浜国際総合競技場グリーンキーパー)

Jリーグが発足して10年が経ち、今年6月には横浜でワールドカップ決勝戦まで行われました。それと同時に競技場の芝生も高い品質が求められるようになり、年々上質の芝生が造られるようになってきました。それに伴って「我が家にも芝生を」という方も増えてきているようです。しかし、芝生とはどのような性質を持ちどのように繁殖しているのか、また弱点は何かを知る人は残念ながら非常に少ないのが現状です。
芝生は生き物です。その成育は子供を育てるのと似ています。芝生と上手く付き合うためにはその特性を理解し、私たち自身も芝生とともに成長していく必要があると思われます。これが芝生を使ったスポーツの発展にもつながっていくのではないでしょうか。
今回は、日本人と芝生のかかわりを歴史的に概観し、競技場の芝生育成者としての体験をもとに、芝生の使い方と育て方にスポットをあててお話ししたいと思います。

平成14年10月19日(土)   テニスことはじめ物語-欧米スポーツの受容と変容-   鳴海正泰(テニス発祥記念館館長)

野球とテニス(庭球)は、わが国の地域社会のスポーツとして長い歴史をもっています。野球は1871年(明治4)に、テニスは1876年(明治9)に、共に横浜から始まりました。さまざまな外来のスポーツのなかで、野球とテニスほど全国津々浦々にいたるまで普及したものはないでしょう。
では、どうして短期間にテニスが全国に広まったのでしょうか。その秘密は、わが国独特の仕方で欧米の文明を受容し、変容させていったことにあるのではないかと思われます。イギリスとアメリカから別々に入ってきた「しゃもじ踊り」の庭球と「すりこぎ踊り」の野球という二つの外来スポーツを、明治の人びとはどのように受け入れたのでしょうか。
テニスを普及させようとした明治政府の政策と、テニスに夢中になった明治人に焦点を当ててお話ししたいと思います。

平成14年9月21日(土)   人馬一体で歩むつわものの道   村井文彦(JRA競馬博物館学芸員)

今を去る140余年前に横浜に競馬が上陸しました。この近代競馬は、日本では知られていなかった多彩な世界の馬文化の一つの現れです。そして、私たちの先祖は外国人がもたらした西洋式の競馬を進んで受け入れました。
では、どうして人々はこの競馬を迎え入れたのでしょうか? それは、わが邦にも、馬とともに仕事にいそしみ、スポーツに励んだ歴史と、馬に親しむ伝統があったからです。その歴史と伝統は、横浜の地名や行事にも現れています。
そこで、これらを手がかりに、競馬の背景にある騎馬スポーツやわが邦で受け継がれてきた馬との触れ合いの伝統、ひいては、今は触れる機会も乏しくなった馬をめぐって、皆様と一緒に考えてみたいと思います。

平成14年6月15日(土)   近代武道と嘉納治五郎   藤堂良明(筑波大学助教授)

平成14年5月18日(土)定員50名   武道文化に見る日本人の技術観   入江康平(筑波大学教授)

近年、わが国の伝統的身体運動文化としての武道に対して、国内外を問わず関心が高まっています。
武道は長い歴史の中で、武術、芸道、競技、教育など多様な価値を形成しながら今日に至っており、今もなお多くの人々に愛好されています。今回は武道の歴史を概観しながら、「流派」や「稽古」、「型」、「勝敗」、「修行」、「技術観」、「スポーツとの比較」などを通してわが国の武道の特性を考えます。
混迷する現代社会の中で、古くて新しい身体運動文化としての武道の持つ特性をお話ししたいと思います。

平成14年4月20日(土)定員50名   国技相撲と横浜   伊藤八郎(相撲研究家)

わが国の国技とされる相撲は1400年以上の歴史を誇り、プロである大相撲は約300年前に確立しました。幕末期、アメリカのペリーが開国を求め、軍艦を率いてやってきたとき、横浜では力士たちが相撲の奉仕活動を行い、その巨体と怪力ぶりで異人たちの度肝を抜きました。横浜は、昭和時代に活躍した横綱武蔵山や大関若羽黒を輩出した土地でもあります。
力士たちは、肉体を見事なまでに鍛え上げるとともに、礼に始まって礼に終わるしきたりを踏みつつ精神力を鍛え、伝統的な技を繰り出して勝ち負けを決しています。相撲にはわが国の精神文化の粋が凝縮されているのです。講演では、豊作を祈願する農村の神事としての相撲にも目を向けつつ、相撲の魅力についてさまざまな視点からお話しします。また、人気に翳りが見られる大相撲の将来についても触れたいと思います。


平成13年度月例講話会

-港北の歴史散策-

平成14年3月16日定員50名   近代の日吉-旧海軍日吉台地下壕の話を中心として-     寺田貞治(横浜の自然と歴史を守る会副理事長、元慶應義塾高校教諭)

明治・大正・昭和の時代は、日本の近代化と共に戦争の時代でもありました。日吉もその時代の大きな波に翻弄されながら、いろいろと変遷を遂げてまいりました。
まず、簡単に時代を追いながら日吉の変遷の歴史をお話しし、特に大きな話題や問題となった関東大震災・東横線の開通・慶應大学予科の日吉移転・旧日吉村の分割合併・旧海軍日吉台地下壕などについてお話しいたします。
中でも、旧日吉村の分割合併について川崎市と横浜市の住民が行政も巻き込んで4年間も紛糾し乱闘事件が起こり逮捕者まで出たこと、また、現在も慶應の日吉キャンパスの地下に残っている延べ2.63㎞に及ぶ巨大な日吉台地下壕のこと、第2次世界大戦の末期旧海軍の連合艦隊司令部がやってきて壕の中から戦争の指揮をとっていたこと、空襲のこと、戦後キャンパスが米軍に4年間接収されていたことなど、詳しくお話ししたいと思います。

平成14年2月16日   鶴見川流域の幕末維新-綱島飯田家文書を中心として-     平野正裕(横浜開港資料館調査研究員)

安政6年(1859)、外国貿易が再開されると、それまで長い鎖国体制をとっていた人々の生活に大きな変化が生じました。
今回の講話は、北綱島村の名主(村の代表)であった飯田広配の事績を紹介し、横浜近郊農村からみた明治維新についてふりかえります。広配は、激しい時代の波を単に「生きた」だけでなく、旺盛な事業意欲を発揮して、みずから地域に新たな波をおこした殖産興業家でした。製氷事業、屎尿処理にもとづく耕地の開墾、横浜建設への投資、など、残された資料からうかがえる広配の積極的な生き方には感銘させられるものがあります。
また、鶴見の市場村名主として広配と同時代を生き、維新後に神奈川県の官吏としての地位を極めることとなった添田知通の生涯も対比して紹介したいと思います。

平成14年1月19日   古道を歩いて-鎌倉道と小机周辺-     勝田五郎(古道研究家、元城郷中学校教諭)

私は、古い書物と古地図を手がかりに、15年間にわたり東海道、中山道、鎌倉道などの古い街道を何往復も歩き続けています。その体験の中から、今回は鎌倉道についてスライド等も使いながらお話しします。鎌倉道は、なにしろ七、八百年前に出来た道ですから、当然ほとんど消えているわけですが、それを探しながら歩くのは大変楽しいものです。鎌倉道は、上、中、下など七道あるといわれていますが、今回はその中から下の道について探ってみます。下の道は、小机の横を通りますので、小机についてもお話しします。東海道が出来る以前は、小机は橘樹郡の中では大変発達した所でした。
古道を歩けば、古い寺、神社、地蔵、庚申塔、名木、古木など多くの名物が待っていますし、それぞれに歴史があります。皆さんと古道の散策に出かけてみたいと思います。

平成13年12月15日   古代人の食物-食物からみた集落立地-     大塚文夫(郷土史家、元新田中学校教諭)

約13万年前、地球は温暖となり、海水面が大幅に上昇しました。この跡が鶴見区から港北区にまたがる下末吉台地です。以後寒冷期と温暖期を経て、約2万年前ヴェルム氷期に入り、海水面が低下し、日本列島は大陸と地続きとなりました。この頃の植生は、中部地方以北が針葉樹で、西日本は針・広混交林でした。横須賀の打木原遺跡からは、約2万5千年前旧石器時代に掘られたと見られる狩猟用の落とし穴が見つかっています。
洪積世に入り、約1万5千年前を境に温暖化が進み、8千年前頃には気温も現在より2~3度高く、海水面も上昇しました。約6千年前には、東北地方以南にはコナラ・クリ・クルミなどの温暖帯林が、西日本には照葉樹林が急速に広まりました。約5千年前になると海退期に入り、気候も冷涼化にむかいます。そして、約2千年前弥生時代に入ります。
旧港北区域(港北、都筑、緑、青葉)の遺跡数をみると、旧石器時代が17ヵ所、縄文時代1592、弥生時代352、古墳時代618ヵ所と他の地域に比べて圧倒的にたくさんあります。この扶養力は何だったのでしょうか、気候や植生の変化などから考えてみたいと思います。

-説話の森を歩く-

平成13年10月20日   鎌倉武士の心意気     平井誠二(職員、湘南工科大学講師)

私たちは、武士についてどのようなイメージを持っているのでしょうか。忠臣蔵の大石内蔵助の生き方、あるいは『葉隠』に「死ぬ事と見付たり」と書かれた武士像でしょうか。これらは、江戸時代の武士の姿です。鎌倉から江戸まで武家社会は七百年近く続きますが、時代により武士の理想像は少しずつ違っていました。
武家社会の成立と共に、それまでの貴族とは違う武士の生き方や心構えが自覚されるようになります。それは、「弓矢取る身の習」「弓矢の道」などと呼ばれ、江戸時代の武士道・士道の原型となりました。
今回は、この弓矢の道を取り上げて、私たちの知っている江戸時代の武士とは少し異なる鎌倉時代の武士の生き様について、逸話を紹介しながら、考えてみたいと思います。

平成13年6月16日   中世神話の誕生     伊藤聡(早稲田大学講師)

我が国において、「神話」といえば、記紀に代表される古代神話が先ず想起されるでしょう。しかし、神話という言葉を、自分たちの起源に対するイメージの結晶化した物語の意味とすれば、古代・中世・近世のそれぞれの時代において、そのイメージは自ずと差異があるはずです。だから神話とは、必ずしも古代的なるものとのみ結びつくものではなく、各時代における独特の神話叙述が存在するのです。
今回お話しするのは、中世の神話についてです。中世は、政治の中心が貴族から武家へと移行していった時代であり、また仏教が最も深く浸透していた時代でした。中世における神話叙述も、記紀神話を継承をしつつも、時代状況を明確に反映した改作・改変が加えられ、さらに全く異質な物語が作られているのです。このような中世神話の世界を具体的な例を紹介しつつ、お話したいと思っています。

平成13年5月19日   いかにすべきか我が心-西行の遁世と数寄-     打越孝明(職員、埼玉女子短期大学講師)

西行は、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した歌人です。もともとは鳥羽上皇に仕える北面の武士でしたが、23歳のとき突然出家し、以後、生涯を遁世者として数寄(和歌)の道を歩みました。
講演題は、「地獄絵を見て」の詞書を持つ西行の歌「見るも憂しいかにすべき我が心かかるむくいのつみやありける」から採ったものです。血族同士がたがいに殺し合った保元・平治の乱から源平の争乱の時代にあって、遁世者として生きる道を選んだ西行は、自らの心を深く見つめる内省的な歌を数多く詠んでいます。
講演では、説話に描かれた西行を素材としつつ、西行の歌の持つ魅力をお話ししてみたいと考えています。

平成13年4月21日   中世説話の世界     大隅和雄(所長)

平安時代の末から、鎌倉時代の半ば過ぎまでの二世紀あまりの間、書物から面白い話を抜き書きしたり、世間のうわさ話を集めたりすることが盛んになって、つぎつぎに説話集が編纂されました。中世の典籍の中で、説話集というのは大きな部分を占めています。
説話は、歴史の史料としては、不確かなもので、歴史を考える場合の証拠とするには問題があります。しかし、それを書いたり、書写したり、読んだり、聞いたりした、中世の人々の考え方や、興味や関心のあり方を、具体的に知らせてくれますし、生活の断面を生き生きと伝えてくれることも少なくありません。
中世の説話の世界を、のぞいて見ることにしましょう。


平成12年度月例講話会

 

-心に刻む〈ことば〉-


先人の残した様々な〈ことば〉には、私たちが日常生活をおくる上で教訓となるような貴重なものがあります。今年度も昨年度に引き続き、そうした―心に刻む〈ことば〉―に焦点を当て、そのいわれ(来歴)や歴史的背景等について、講師自らの体験談をも交えつつ、わかりやすくお話しいたします。

平成13年3月17日   アジアは一つ(Asia is One)-岡倉天心-       三宅守常(研究主任)

岡倉天心ってどんな人?、と問うなら、おそらく多くの方は、美術関係、東京美術学校(東京芸術大学の前身)の創設に深く関係した人と答えるでしょう。その通りで、天心は外国人フェノロサと一緒に日本美術を発掘し、その価値と優秀性を高く称揚すると共に、横山大観・下村観山など日本近代を代表する画家を数多く育てた明治時代随一の美術史家として知られています。その一方で、海外で仕事をしつつ、練達した語学力をもって「東洋の理想」「日本の覚醒」『茶の本』などの英文著書を出版して、外国の人々に、美術芸術を通して日本人や東洋人の歴史や精神構造を紹介しています。これらの内容は一種の文明評論と言うべきもので、その冒頭第一声が、“アジアは一つ”という言葉として集約されているのです。そこで、文明評論家岡倉天心という視点から、この言葉の意味を考えてみましょう。

平成13年2月17日   天の日嗣は必ず皇緒を立てよ-宇佐八幡神託-    三橋正(研究員)

道鏡による政治が進められていた奈良時代末、女帝称徳天皇の嗣を道鏡にという託宣が宇佐神宮でありました。その真偽を調査するために宇佐に赴いた和気清麻呂は「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ」という託宣を受け、帰京して報告します。そのために野望を打ち砕かれた道鏡により、清麻呂は一時、因幡員外介に左遷され、別部穢麻呂と改名させられて大隅国に流されます。この話は、戦前、天皇制最大の危機を救った清麻呂を讃える形で語られてきました。その反動により、戦後は大きく取り上げられなくなりました。しかし、清麻呂のとった態度は、天皇への忠誠という問題を別にしても、現代社会に生きる私たちにも見習うべきところがあるのではないでしょうか。今回は、当時の社会状勢や宗教事情を考慮しながら、この事件を歴史学的に検証し、清麻呂の行動の意義を考えてみたいと思います。

平成13年1月20日   「三空」と「宇宙心」-大倉邦彦-           西岡和彦(客員研究員)

大倉精神文化研究所を設立した大倉邦彦(明治15年[1882]~昭和46年[1971])は、戦前戦後を通じて、実業家であると共に教育家としても活躍しました。彼の経営理念は実業に適用されたのみならず、人間がより良く生きていくための処方箋でもありました。大正デモクラシーの影響によって、「公」よりも「私」が優先される世の中になると、邦彦は教育家や宗教家の手によってその風潮を是正しようと考えました。そこで、教育家や宗教家に、「真の宗教的信念に立脚した人生観を持たせ同時に国民的意識」を与えなければならないと考えました。そのために、私財を投じ研究所を設立したのです。「真の宗教的信念」とは、「三空」「宇宙心」とも表現され、経営理念の根底を成すものでした。本日は、そのような大倉邦彦の思想を、見つめてみたいと思います。

平成12年12月16日   我れ深く汝等を敬う-『法華経』-          菅野博史(研究主任)

『法華経』の中心思想である一仏乗の思想は、生きとし生ける衆生は、すべて平等に成仏することができるという思想です。それを最も生き生きと表現したものが、不軽菩薩の礼拝行です。これは、すべての人は未来に成仏する尊い存在であるという理由で、尊敬礼拝するということであり、不軽菩薩が語った表題の「我れ深く汝等を敬う」という言葉に、それはよく示されています。中国では、この不軽の行は、衆生に内在する仏性との関連で解釈されたり、唐代に流行した三階教の重要な修行として取り入れたりしましたが、日本では中世の仏教説話集『閑居友』(慶政著)に、紹介されています。また、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」も、この思想に着想を得たといわれます。混迷する現代社会では、このような他者を尊敬する精神が、益々重要になっているといえるのではないでしょうか。

平成12年11月4日    慎みて怠ることなかれ-吉田兼倶-          岡田莊司(研究部長)

中世末期の1400年代の後半、京都での戦乱がはじまり、日本の伝統文化は衰退していきました。この混乱した社会不安の中で、京都・吉田神社の神官、吉田兼倶は伝統的精神文化に基づきながら、新たな思想を形成していきました。兼倶は宮廷の天皇・貴族、幕府の将軍家・武将、僧侶、神職などに、「日本書紀」「中臣祓」を講釈して神道説を宣伝し、「神の国日本」の精神文化を明確化しようとつとめました。兼倶は神職たちに、神道古典の心を読み解き、「慎みて怠ることなかれ」と伝えて、精神性の回復を訴えつづけました。危機的状況にある20世紀の最末期に、吉田兼倶を問い直してみたいと思います。

平成12年10月21日   今は父子のぎはあるべからず-親鸞-         森章司(研究員)

これは「親子の縁を切る」という意味で、浄土真宗の祖・親鸞(1173~1262)が、自分の息子慈信坊(善鸞)に宛てた、「義絶状」と称される手紙の中の言葉です。「聖人」と呼ばれる人にさえ、こういう家族の葛藤があったことに驚かされますが、実はその裏に、一人の親としての優しくも弱い、人間らしい心の動きが感じられて、親鸞という人に、より一層の親しみを持たざるを得なくなります。この手紙に至るまでの、日付のない、断片的な、いくつかの手紙の背景を推理しながら、この手紙を読んでみたいと思います。

平成12年9月16日   行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張-勝海舟-     茂住實男(研究員)

明治も半ばを過ぎた24年(1891)福沢諭吉は、旧幕臣の勝海舟と榎本武揚が新政府に入って栄達の道をあゆんだことを批判して、「瘠我慢の説」を執筆しました。福沢はこの草稿をふたりに送り、意見を求めています。これに対して勝は「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」、つまり出処進退は自分のものだ、それを貶したり褒めたりするのは他人の勝手で、自分には関係のないこと、と回答しています。勝の生涯を追いながら、この言葉の背景を見てみたいと思います。

平成12年6月17日   天道は是か非か-司馬遷と李陵-           三澤勝己(専任研究員)

匈奴に降った悲運の人李陵を弁護したため、司馬遷は宮刑という屈辱を受けました。その痛烈な体験が、「天道は是か非か」という言葉には込められています。「果して、天は善人に味方するものなのであろうか」というこの言葉は、自分自身の境遇から出たものであると共に、不遇な生涯を送った先人への同情や共感でもありました。今回は伯夷・伍子胥・屈原・韓非・李広といった悲運の人々を、司馬遷がどのように見ていたのかを『史記』を通して考え、「天道は是か非か」の持つ深い意味を見つめてみたいと思います。

平成12年5月20日   無戒名字の比丘-『末法燈明記』-          淺田正博(研究員)

『末法燈明記』は、伝教大師最澄の著作と伝えられていますが、その真偽の程はわかりません。しかし、鎌倉時代の親鸞・法然・日蓮という祖師方が、最澄の著作としてこれを引用しています。ですから、本書は鎌倉時代に大きな影響を与えたといえます。この中で、「末法」の時代に存在出来る僧侶とは、名ばかりの「名字の比丘(僧侶)」で戒律を守ったり厳しい修行の出来る出家者は一人もいないというのです。現在社会に通ずるような「末法」の世に、「無戒名字の比丘」の持っていた意味を考えてみたいと思います。

平成12年4月15日   天道は是か非か-司馬遷と徳川光圀-          藤森馨(研究員)

「天道は是か非か」は、『史記』の「伯夷列伝」の言葉です。司馬遷が、伯夷と叔斉の清廉潔白な行動に感銘すると共に、宮刑という自分自身の痛烈な体験に基づいて発した言葉といえましょう。この言葉は、古来、多くの人々に強い印象を与えてきましたが、徳川光圀も、その一人でした。光圀にとり、この言葉や「伯夷列伝」がどのような意味を持っていたのかを、その生涯を辿りつつ考えてみたいと思います。さらには、「伯夷列伝」に触発されて開始された『大日本史』編纂の意義についても、述べてみたいと考えています。


平成11年度月例講話会

 

-心に刻む〈ことば〉-


先人の残した様々な〈ことば〉には、私たちが日常生活をおくる上で教訓となるような貴重なものがあります。今年度は、そうした―心に刻む〈ことば〉―に焦点を当て、そのいわれ(来歴)や歴史的背景等について、講師自らの体験談をも交えつつ、わかりやすくお話しいたします。

4月17日   敬天愛人-西郷隆盛-               打越 孝明(専任研究員)

平成11年度第一回目は、西郷隆盛の「敬天愛人」(天を敬い、人を愛す)です。西郷は、明治維新を成就させた最大の立役者でありながら、明治10年の西南の役で非命に薨れました。しかし、今日でも多くの人々が“西郷さん”と呼んでその人となりを慕っています。「敬天愛人」は西郷が用いたもので、この〈ことば〉を座右の銘として心に刻んでいる方も数多いことと思います。本講話では、西郷の生涯を追うとともに、『西郷南洲遺訓』を繙きながら「敬天愛人」に迫ります

5月15日   五十にして天命を知る-孔子-          吉田 篤志(研究員)


今月は、孔子の「五十にして天命を知る」(五十而知天命〔『論語』為政篇〕)です。孔子は七十過ぎまで生きましたが、五十歳は当時としては長生きであり、五十の大台に達したときの心境を回想したものがこの言葉です。では、この「天命を知る」とは、どのような意味だったのでしょうか。また「天命」とは孔子にとって、あるいは古代の中国人にとってどのように理解されていたのでしょうか。本講話では、『論語』やその他の古典に見る「天命」について考え、孔子の「天命を知る」の意味を明らかにしてみたいと思います。

6月19日   有り難う-ゴータマ・ブッダ-            森 章司(研究員)

「有り難い」は「めったにない」「まれである」という意味です。それがどうして「有り難う」になると、感謝の意を表すことばになるのでしょうか。この間の変化を学問的に説明したものを知りませんが、私は「有り難う」は仏教語ではないかと思っています。仏教の教えからすると、これがしみじみ実感できるからです。ということになれば、「有り難う」はお釈迦さま(ゴータマ・ブッダ)のことばとしてよいでしょう。この私の「実感」をお話しさせていただきたいと思います。

9月18日   陰徳を積む-大倉邦彦-              平井 誠二(専任研究員)

陰徳とは、人に知られない言行のことです。私たちの心には必ず名誉欲があって、良いことをすると称賛されたくなるもので、陰徳を積むことは大変困難なことです。研究所創設者・大倉邦彦の調査で、ある印刷会社の社長さんにお会いした折、若き日に邦彦からこの言葉を学び、それを人生訓としてこられた話を伺いました。「陰徳あれば陽報あり」とは、『淮南子』から生まれた名言ですが、大倉邦彦は学んだことを実践する大切さを説き、自らも陰徳を積むことに心がけました。今回は、そうした話を踏まえて、邦彦流の陰徳の積み方をお話しします。

10月16日   悪法も法なり-ソクラテス-             木野 主計(研究員)

「悪法も法なり」というのは法諺(法格言)の一つです。この法格言というのは、「人が悪法というものに抵抗するならば、社会に無政府状態が招来されてしまう。その混乱よりむしろ不正な平和の状態で社会の秩序を忍ぼうとする」という意味のことです。この悪法の問題で、古代ギリシャの哲学者のソクラテス(470~399BC)が、当時のアテナイ人が誇りとした言論の自由を守るために、民会外での言論の自由に対する禁令に従って、この国法の下に裁判によって敢然と死を選び、毒杯を仰いだという有名な話があります。これは人は法の原則に従うという譬の一つです。今回は、こんなお話をしてみます。

11月 6日   元始、女性は太陽であった-平塚雷鳥-     大隅 和雄(所長)

「元始、女性は太陽であった」ということばは、平塚雷鳥(1886~1971)が、1911年(明治44)に、婦人文芸集団青鞜社を結成し、同人誌『青鞜』の創刊号のために書いた、女権宣言の冒頭のことばです。同じ年、島村抱月がイプセンの『人形の家』を翻訳し、松井須磨子が主役のノラを演じました。一世代おくれて、詩人として登場した高群逸枝(1894~1964)は、女性としての生き方を考えることにめざめ、生涯を賭けて女性史学を築きあげることになりました。近年、女性学、女性史の論議は大変活発になりましたが、そうなるまでの道のりを辿ってみたいと思います。

12月18日   まるまるとまるめよわが心-木喰行道-     西本 照真(研究員)

「まるまるとまるめまるめよわが心 まん丸丸く丸くまん丸」という歌は、江戸時代の遊行僧木喰行道(1718~1810)が詠んだ歌で、彼の歌を集めた『青表紙歌集稿本』に収載されています。木喰は、40代半ばに至って、全国を巡り修行する誓いを立て、93歳で示寂するまでに北海道から九州まで全国各地を巡り歩きます。その足跡は、全国各地に彼が彫った木喰仏が数多く残されていることからもたどれます。今回は、彼の詠んだ人間味あふれる歌の数々を紹介しながら、彼の生涯と思想をたどりたいと思います。

1月15日   生を憎まば生を愛すべし-吉田兼好-      三澤 勝己(研究員)

テーマに掲げた言葉は、『徒然草』第93段に出てまいります。皆さんも、同書から、様々な言葉を思い出されることでしょう。『徒然草』は、鎌倉時代末期に作られましたが、多くの読者に迎えられるようになるのは江戸時代のことです。その内容は、江戸時代の人々の人生観に示唆を与え、あるいは文学や思想などにも影響を与えました。そこで、今回は、先ず兼好法師の経歴や『徒然草』の特徴を述べ、次に江戸時代における読まれ方を説明いたします。併せて、同書から、第93段の言葉をはじめとする、死生観を語った言葉を取り上げ、ご一緒に味わってみたいと思います。

2月21日   秘すれば花-世阿弥-               松尾 恒一(研究員)

「秘すれば花」は、世阿弥の能楽観を端的に表した言葉としてよく知られておりますが、本講話会では世阿弥が生きた“中世”という時代において、芸能にとって“花”とは何であったのか考えてみたいと思います。世阿弥は、父観阿弥とともに能を現在のカタチに大成した人物としてよく知られておりますが、しかしながら大成に至るには、奈良時代以来、数世紀を越える長い歳月を要しています。能は歌舞伎や文楽とともに、現在、日本を代表する伝統芸能のひとつでありますが、観阿弥・世阿弥によって完成されるまでの能の歴史をたどりながら考えて参りたいと思います。なお、芸能や伝統行事等の関連の映像をも御覧いただく予定でおります。

3月18日   己れを修め人を治む-朱子-           土田健次郎(研究員)

「己れを修め人を治む」とは、中国最大の思想家である朱子(1130年~1200年)の語で、「修養や学問で自分をたかめ、それによって他人を感化する」という意味です。ここに見られるのは、厳しい内省への意志と、強い社会的使命感です。この語を出発点にして、朱子がいかに自己の心や社会、さらには宇宙について思いをめぐらし、壮大な哲学を形成していったのかを、見ていきたいと思います。


平成10年度 月例講話会

-心 の ま ん だ ら-


大倉精神文化研究所附属図書館の閲覧室には、創立の精神を表した「日本精神文化曼荼羅」が掲げられています。今年度は、この「日本精神文化曼荼羅」に焦点を当て、そこに描かれている聖徳太子以下10人の先哲と、創立者大倉邦彦の合計11名を取り上げます。各人が日本の精神文化形成に寄与した点を、わかりやすくお話しいたします。

4月18日   和を以て貴とす -聖徳太子-         藤 井 教 公 (客員研究員、北海道大学教授)

親鸞は、「皇太子聖徳奉賛」という和讃の中で、聖徳太子を「和国の教主聖徳王」と呼んでいます。日本の仏教の教主という意味です。太子は、大陸から仏教を積極的に導入することによって日本国統一の理念としたばかりでなく、文化的にも当時の東アジア諸国に伍した独立国家の建設を目指したのでした。
私たちは、今日誰でも太子の名を知っています。しかし、知ってはいても遠い過去の歴史上の人物という意識ではないでしょうか。本講では歴史を遡り、できるだけ太子の実像に迫って、人間聖徳太子に近づきたいと思います。

5月16日   願いに生きる -最澄-            淺 田 正 博 (研究員、龍谷大学教授)

「悪事を己に向へ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」伝教大師最澄は仏道の精神をこのように端的に示されました。五十六年間の生涯を貫いた最澄の「願い」は、煩瑣な天台教学から導かれながらも、実は日常茶飯事に実行できる「悪事を己に向へ、好事を他に与へる」という生活実践ではなかったでしょうか。しかし、この簡単なことが容易に実行できない。そこに仏教修道があると最澄は教えているようです。今回は、最澄の言葉の中から今日に通じる生き方を学びたいと思います。

6月20日   歴史観の確立 -北畠親房-        土田 健次郎 (研究員、早稲田大学教授)

北畠親房は、我が子顕家の戦死を、その著『神皇正統記』でこのように記述しています。「忠孝の道はここにきわまったのです。それにしても苔の下にうづもれてしまい、ただいたずらに名だけをとどめていくのは、心うき世ではございますまいか。」父親としての悲しみが抑制した筆致からにじみでています。『神皇正統記』は、神代から始まる悠久の歴史を書いた書であるとともに、親房が生きた時代の慟哭の記録でもあるのです。親房の歴史観を多方面から見ながら、歴史とは何かを考えてみたいと思います。

9月19日   学問の人 学問の神 -菅原道真-     茂 住 實 男 (研究部長、拓殖大学教授)

受験シーズンになると、沢山の人が天神様へ合格祈願に行きます。しかし、近年、その天神様が菅原道真であることを知る人は必ずしも多くはありません。道真は今から1100年ほど前の平安時代前期の人で、たぐい稀な学者でした。また、政治家でもあり、まごころの人、忠義の人としてそれに当たりました。しかし、道真は身に覚えのない罪で左遷され、非業の最期を遂げます。そのことがきっかけで道真は神格化され、まず怨霊神となります。今回は、その怨霊神となった道真が時の推移とともに次第に学問の神様として広く信仰されるようになってくるところを取り上げてみようと思います。

10月17日  十住心の哲学 -空海-            蓑 輪 顕 量 (研究員、愛知学院大学助教授)

人間の心には、10種類の段階があるといいます。本能に支配された動物のような心から、慈悲に富んだ仏のような心へと、様々な段階があるといいます。そして、究極の心を「秘密荘厳心」と名付けました。これは、平安時代初期に登場した天才的な思想家、空海の独創的な考え方です。空海は、彼に至るまでの約1200年間の仏教の教えを独自に位置づけ、総合的に理解しようとしました。こうして登場したものが、空海の「十住心」の哲学なのです。空海が捉えた人間の心模様を捉えなおしてみるとともに、彼がなぜこのような考え方を提示したのか、その理由を考えてみたいと思います。

11月7日   新風の禅文化 -栄西と道元-        竹 村 牧 男 (客員研究員、筑波大学教授)

禅は中国に発し、宋代には官僚層がこぞってこれに傾倒するほどでした。当時、周辺諸国は、つきあい上、禅を重用せざるをえなかったのです。日本でも、鎌倉時代以降、武家幕府は禅宗を重んじていきます。栄西や道元はそのはしりといえ、二人とも大陸に渡って、順に日本臨済宗・曹洞宗の祖となったのでした。この禅は、単に宗教的安心をもたらしたのみならず、文芸や茶・能などの芸道にも深い影響を与えていきます。禅の美学と、その背景にある世界観を、栄西・道元にたずねつつ、日本文化の形成に果たした禅の役割について考えてみたいと思います。

12月19日  如来の使 -日蓮-               菅 野 博 史 (研究主任、創価大学教授)

日蓮に対する人物評価は、大好きと大嫌いに二極分解する傾向が強く、そのため、難しい課題といわざるをえません。私は、従来の評価を踏まえながら、知・情・意の三方面から、日蓮の人物像に光をあてたいと思います。なお、テーマの「如来の使」は、『法華経』法師品に基づく言葉で、日蓮の自己認識を表す最もふさわしいものです。これについても考察を加えたいと予定しております。

1月16日   「真実」に生きる -親鸞-           西 本 照 真 (研究員、武蔵野女子大学講師)

いったい「真実」に生きるとは、どういうことなのでしょうか。親鸞が90年の激動の生涯をかけて問い続けたのは、まさにこの問題でした。それは、「真実」とは何かを客観的に問うことではなく、自らの生き方として「真実」に生きることを問題としているのです。今回の講話会では、親鸞の詠んだ和讃(仏の功徳をたたえる日本語の歌)を味わいながら、その人間像と思想に迫ってみたいと思います。

2月20日   専修念仏の人 -法然-            大 隅 和 雄 (所長、東京女子大学教授)

鎌倉時代は、仏教が日本人の心を深くとらえるようになる時代でしたが、その仏教革新運動の分水嶺ともいうべきところに立っていたのが、法然という人物でした。法然の教えを受け継ぐ人はいうまでもなく、別の道を行く人も、法然という人を念頭に置くことなしに、自分のめざすところを見定めることはできなかったように思います。日本の思想史、文化史の大きな転換期の中で、法然が立っていたところがどんな嶺であったのかを考えてみたいと思います。

3月20日   精神文化まんだらの世界 -大倉邦彦-  平 井 誠 二 (専任研究員、國學院大學講師)

平成10年4月から「日本精神文化曼荼羅」に描かれた10名の偉人についてお話ししてきました。この絵は、昭和7年に竣工した大倉精神文化研究所本館(現、横浜市大倉山記念館)3階の応接室に掲げられていました。研究所を創立した大倉邦彦は、この絵に創立の精神を体現させたと伝えられています。では、邦彦が意図した創立の精神とは何だったのでしょうか。この絵に描かれた10名の先哲は何を表しているのでしょうか。「心のまんだら」シリーズの最終回として、この問題を考えてみたいと思います。
なお、研究所建設の経緯や当時の大倉山周辺の様子を記録した映像をビデオで上映します。


平成9年度 月例講話会

 

-東 洋 の こ こ ろ-

4月19日    “人となる道”とは何か-慈雲尊者のことばより-   三宅守 常(研究主任)

5月17日   仏教と科学 -アビダルマの世界-            森 章司 (研究員)

6月21日   初代清国公使の見た明治日本               木野主 計(研究主任)

9月20日   日本人の名前と地名の関わり               藤森 馨 (専任研究員)

10月18日  文字表記の歴史 -ワープロは漢字文化を滅ぼすか-  平 井誠二(専任研究員)

11月1日   遁世者とその思想                       大隅和 雄(研究員)

12月20日  仏法は無我にて候 -乱世に生きた蓮如-        早島鏡 正(所長) よろしくお願い申し上げます。

室町時代中期の社会は、農商階級の人々が一揆(いっき)を起こして大衆勢力の中核となり、またさまざまな政治・経済・宗教・文化の活動が衝突し合って、下克上のみにくい姿を示していました。
蓮如(れんにょ)は、親鸞(しんらん)の「仏教は念仏である」の教えを示すのに、「仏教は無我である」という釈尊(しゃくそん)の根本教義をもってしました。「無我」とは無主体・無霊魂のことではなく、「我執の自己を離れよ」というのが本義であります。蓮如は仏教の根本教説に立ち戻り、時代の人々に念仏を解き明かしたのであります。

1月17日   明治のこころ -聖喩記を中心として-          鎌田純 一(前所長)

明治のはじめ、明治天皇は新時代に対するために、多くの詔勅を下し、国民の向かうところを示されました。明治2年4月の修史局総裁任命の御沙汰、同4年10月の華族への勅諭、同15年2月の学制に関する勅諭などにその大御心を知るのですが、さらに元田永孚の謹記する「聖喩記」に深く大御心を拝することが出来ます。この「聖喩記」にみられるところを生かして、その後の日本は進んで来たのでしょうか。
今日の日本、今後の日本を考える一つの基礎としてこの「聖喩記」を中心に明治のこころを考えてみたいと思います。

2月21日   始皇帝を魅了した男、韓非                 吉田篤 志 (研究員)

戦国時代末期の中国では、強国の秦とその他の諸侯国とが熾烈な戦いを繰り返していました。このような戦乱の時代に<士>あるいは<客>と呼ばれる遊説家や思想家たちが、己の主張を諸国に説き回っており、韓の公子であった韓非も、このような思想家の一人でした。
韓非は始皇帝(秦王)の宰相になった李斯と共に、やはり思想家であった荀子に学びましたが、李斯は韓非の才能には及ばないと思っていました。始皇帝は韓非を任用したかったのですが、李斯に阻まれ、韓非は幽閉されて自殺に追い込まれてしまいます。
韓非は中国古代の法思想の集大成者で、彼の思想は『韓非子』という著作にまとめられています。始皇帝に「この著者に会えたら死んでも本望だ」と言わせた韓非の思想を、主に賞罰思想・法術思想・歴史観・人間観などを取り上げながら考えてみたいと思います。