夏季公開講座(完結)

これまでの講演の内容は、『大倉山講演集』(『夏季公開講座』を改称)として刊行しています。


第15回(平成14年度)

テーマ 開港と横浜の教育 -学校創設者のこころざし-

江戸時代末期の開港以来、横浜には欧米社会の文物が次々と流入してきました。新しい教育機関の設立も続き、横浜の学校は我が国の教育史の中にあって特色ある地位を占めてきました。
今日、教育の荒廃が叫ばれて久しいですが、教育の持つ重要性を改めて問い直してみるために、新興の気風みなぎる創立当時の横浜の学校について、その創設者の教育理念を中心に考えてみます。
どれでもお望みの話をお聞きください。関連の展示をロビーでします。

●主催 財団法人大倉精神文化研究所   ●後援 横浜市芸術文化振興財団

●日程

7月24日(水) 10時30分~16時30分

開港当時の横浜の学校            田村茂(元国士舘大学教授)

横浜は、安政5年(1858)の五か国条約に基づいて、翌6年、幕府の政策上、その政治力をもって造成された町であり、開港場であった訳ですが、同時に、開国を決断し実施した幕府にとって、横浜は外交政策・外交事務の最尖端基地でもありましたし、また、文明開化の先達的な存在でもありました。
このような事情から、幕末最末期に当たる当時の横浜の教育は「洋学」が中心であり、それが横浜の特徴と特異性とを物語っております。具体的には、幕府によって英学所・仏蘭西語学伝習所・三兵伝習所、さらには、横浜製鉄所が設置され、西欧の先進科学・技術・軍事等に関する教育が展開されました。
他方、安政6年6月の横浜開港にともない、同年中にヘボン(J.C.Hepburn)夫妻やブラウン(S.R.Brown)等の来浜があり、その後も多くの外国人宣教師の来浜をみるようになりますが、キリスト教は猶、禁令下にあり、多くの宣教師が教育に従事していきます。その代表的な存在がヘボン塾でしょう。
幕末最末期、横浜の学校は次のように類型化できます。一つは「外交・外事への対応、富国強兵など国益に資することを目的とする幕府設立の諸学校」。一つは「キリスト教主義の精神を根底に置く外国人宣教師設立の学校(家塾)」です。維新後は開明的な思想のもと文明開化を志向する高島学校等の設立をみますが、ともかく、この期の横浜の諸学校が、わが国の近代学校教育の先駆的な存在であったことは間違いがないと考えられます。

消えた学校 -高島学校と福沢諭吉-   米山光儀(慶應義塾大学教授)

横浜には、明治初年に設立された私立学校が、現在でも多く存在しています。しかし、その頃に設立された学校の多くは、数年存続しただけで、消滅してしまっています。本講演は、そのような学校の一つである高島学校をとりあげ、何故その学校が消えてしまったのかを探り、私立学校について考えようとするものです。
易断で有名な高島嘉右衛門は、明治初期の横浜を代表する豪商でした。彼は埋立などの事業を展開し、高島町という地名にその名を残していますが、その高島が学校を設立したことはあまり知られていません。高島は、明治4年(1971)に洋風木造2階建の学校を伊勢山下に創り、その経営を行いましたが、明治6年には高島の手を離れ、明治7年1月にはその校舎も焼失してしまいました。その間、常時200~300人ほどの生徒がいたと推測され、当時としては大きな学校でした。
高島学校は主に洋学を教える学校でしたが、高島はそこに福澤諭吉の招聘を考えました。それは実現しませんでしたが、小幡篤次郎などの福澤の高弟たちが高島学校に赴任しており、慶應義塾とも関わりのある学校でした。福澤が設立した慶應義塾は現在でも存続していますが、高島の学校は僅か2年でその幕を閉じています。その違いはどこにあったのでしょうか。本講演では、名称変更・移転・合併・廃止などの複雑な高島学校の歩みを明らかにするとともに、福澤と高島の違いなどにも注目して、その問いに答えたいと思います。

女子教育の源 -横浜のミッションスクール-  小玉敏子(関東学院女子短期大学名誉教授)

安政6年(1859)開港当時の横浜は、根岸線関内駅から海岸までの全地域のみで、今の大桟橋のあたりを中心に東側が外国人居留地で、西側が日本人町でした。その後、外国人居留地は山手にまで広げられました。谷戸橋近くにあったヘボンの施療所で、明治3年(1870)に始められたミス・キダーの英語塾を起源とするフェリス女学院を除いて、アメリカン・ミッション・ホーム(明治4年、横浜共立学園)、ブリテン女学校(明治13年、横浜英和学院)、横浜バプテスト神学校(明治17年、関東学院)、ミセス・ブラウン家塾(明治19年、捜真学院)など、横浜のミッションスクールは山手の外国人居留地で創設されました。
横浜開港の頃、我が国ではキリスト教が禁止されていましたので、ヘボンやS.R.ブラウンなど開港後まもなく来日した宣教師たちは、宣教の機会到来を待つかたわら、日本語の研究をするとともに、日本の青年に英語を教えていました。彼らは、幕府が神奈川奉行所に勤務する役人の子弟のために開設した英学所でも教えました。
明治2年(1869)、新潟英学校で教えるために再度来日したブラウンは、メァリー・キダーを同伴しました。彼は「女子教育は日本がキリスト教国の仲間入りをする前にやりとげなければならない」と考え、キダーをその任にふさわしい人物としてミッション本部に推薦しています。

横浜の実業学校 -Y校を中心として-    田村泰治(横浜学園中学・高等学校教頭)

横浜が開港場として開かれると、居留地を中心に外国との貿易が盛んになり、横浜商人と呼ばれる人々が活躍するようになりました。しかし、商業取引に必要な知識や手続き、さらに語学力の不足等によって外国商館に取引利益を奪われていました。加えて関税自主権がないことも商業取引において非常な不利益が日本側に与えられていました。
居留地での貿易進展には日本の商人自身が知識を吸収し、事務的にも、契約の取り決めにも外国商人と対等に行えるようになることが急務でした。ここに、横浜での実業学校である「横浜商法学校」、後の「横浜商業学校」創設の動きが生まれてきたのです。全国的に見れば、実業学校は東京、神戸、大阪、岡山などに創立されていて、横浜での創設は六番目にあたる明治15年(1882)でした。
横浜商人によって組織されていた「横浜貿易商組合」の総理小野光景を長として、27名の発起人は、人材育成が急務であるとして学校創設の伺書を提出し、横浜商法学校が創設され、校長には慶応義塾の福沢諭吉のもとで洋学を学んだ美澤進を迎えました。彼は34歳で校長に就任し、以後、75歳の大正12年まで41年間を横浜商業学校で指導し、全国に知られている今日のY校の基礎を築きあげました。彼は校訓十ヶ条を作り、「智・徳・体」三育を兼備した人格の形成をめざしたのでした。
今年、Y校は創立120周年を迎えます。美澤校長の努力と優秀な教員たちが、多くの人材を世に送り出しました。横浜財界を始め、全国の財界や金融界等で多数の卒業生が今日も活動しています。

●会場

ひまわりの郷(港南区民文化センター)

京浜急行上大岡駅中央棟4階・ウイング上大岡うえ

●参加費  無料(ご来場の方には昨年度の講演録を差し上げます)

●定員   300名(当日先着順、どなたでも御参加いただけます)

◆問い合わせ  財団法人大倉精神文化研究所
222-0031 神奈川県横浜市港北区太尾町706
電話 045-542-0050(日曜、月曜は休みです)
メール ookuraken@ma2.justnet.ne.jp


第14回(平成13年度)

テーマ
ヨコハマ文明開化物語 -その光と影-

仕事を半日で終えることを「半ドン」、食卓のことを「ちゃぶ台」、何かを捨て去ることを「ペケにする」と現在でも言ったりします。そうしたことばは、幕末に開港した横浜で、英語やマレー語や日本語といったいろいろな言語が混在する中、自然発生的に生まれ、商取引きでも盛んに用いられたといいます。そこで活躍した商人は、しだいに全国へと活動の舞台を移し、明治以降の我が国に計り知れない活力をあたえました。また、明治5年、我が国最初の鉄道が横浜と東京の新橋間に開通したことも、横浜の重要な位置を物語るものです。
第14回目をむかえました本年度の夏季公開講座では、幕末維新期から関東大震災ころまでの横浜の生活や文化について、市民生活の身近な視点からお話ししたいと思います。

●主催 財団法人大倉精神文化研究所   ●後援 横浜市文化振興財団

●日程

7月28日(土) 午後1時30分~3時50分

横浜の近代        打越孝明(大倉精神文化研究所)

幕末維新期から関東大震災ころまでの横浜の歴史についてお話しします。
嘉永六年(一八五三)、アメリカのペリーが率いる艦隊が来航し、鎖国を続けていた我が国に対して、武力を誇示しながら開国を要求しました。翌安政元年(一八五四)、再び来航したペリーとの間で日米和親条約が締結されましたが、その歴史的な舞台となったのは横浜でした。
それまでの半農半漁の寒村であった横浜は、一躍、歴史の表舞台へ登場することになります。安政五年(一八五八)に締結された日米修好通商条約に基づき、翌年開港した横浜は、諸外国から多くの人びとが集まり、活発な商業活動が始まりました。海岸通や山下・山手の外国人居留地を中心として、国際都市横浜としての歩みが始まったのです。
明治の時代を迎えると、横浜は文明開化を象徴する街となります。電報や電話が実用化され、ガス灯が馬車道を眩いばかりに照らし、明治五年(一八七二)には横浜・新橋間に鉄道が開通しました。
その後の横浜は港湾都市としての性格を強めていきます。明治二十九年(一八九六)には大桟橋埠頭が完成し、新たに欧州定期航路が開設されました。大正六年(一九一七)には新港埠頭が完成し、横浜は日本ばかりでなく世界各地からの大型客船で賑わいました。
大正十二年(一九二三)の関東大震災により、横浜は一時的に壊滅的な打撃を受けました。しかし、復興の歩みは力強く、昭和五年(一九三○)、震災復興のシンボルとして山下公園が誕生し、横浜は昭和の新たな発展を始めました。大倉精神文化研究所も、昭和七年に誕生しました。

異文化コミュニケーション-横浜ことばの誕生-  小玉敏子(関東学院女子短期大学教授)

一八五九年(安政六)、五か国条約によって横浜が開港され、外国人が横浜に来て住むようになると、異人屋敷に出入りする者、人力車夫、商人たちは、意思疎通のための言葉を学ばなければなりませんでした。最初、外国人との間で使われた片言の外国語は、やがて日本人同士の会話にも使われるようになり、独特の「横浜ことば」が生まれました。すでに中国では外国との貿易が行われていましたので、欧米の商人とともに中国人も来日し、ピジン・イングリッシュ*とわずかばかりの日本語を用いて、外国商人と日本商人との間にたって活躍しました。したがって「横浜ことば」には英語ばかりでなく、ポルトガル語、中国語、マライ語などを語源とする語も含まれています。
幕末から、明治初年にかけて横浜では、耳から入った外国語の独習書が数多く出版されました。これらは書物というよりは一枚刷りや折本などが多く、編纂者や発行年月日も明記されていないものもありますが、明治初期のものが多いといわれます。
一方、外国人も、横浜で日本人と話をするための言葉を学ぶ努力をしています。チェンバレンは、中国人は外国語を覚え込む才能を持っているので、ピジン・イングリッシュが交渉の手段として用いられたが、日本では外国人のほうが、ピジン・ジャパニーズを用いた、と述べています。
この「横浜ことば」は文化の中心が東京に移ってしまう明治中期には次第に聞かれなくなってしまいます。
* pidgin English: pidgin は business(ビジネス) がなまったもので、ピジン・イングリッシュは英語に中国語・ポルトガル語・マライ語などを混合した中国の通商英語。中国人が外国人と取り引きするのに港町で用いた。

7月29日(日) 午後1時30分~3時40分

貿易商人の心意気    平井誠二(大倉精神文化研究所)

幕末の開港以来、横浜では中居屋重兵衛、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛などの商人が貿易で巨富を築き、横浜商人と呼ばれました。また、高島嘉右衛門、平沼専蔵、伏島近蔵、早矢仕有的等の商人も横浜の発展に尽力しました。その他にも多くの商人が外国貿易のために横浜に集まりました。彼らの中には、単なる利益追求の枠を越えて、商業活動を通しての人間的成長や、国家の繁栄を考えて貿易活動をする者がいました。そうした気概のある商人の中に、大倉洋紙店の創始者大倉孫兵衛やその義兄の森村市左衛門もいました。
『大倉洋紙店綱領』には次の一説があります。「それ一般商工業に従事する実業家にして、誰か利益を念はざるものあらん。然りと雖も汲々として利に走り、打算の為には、手段を撰ばざるが如きに至っては、実業報国の精神を没却するものにして、吾等の断じて採らざるところなり。吾等は平等慈悲の大願に立脚し、古人の言の如く、徳を積めば利之に伴ふべきを信じ、之を実業界に施して決して過つことなきを確信するものなり。」
大倉精神文化研究所は、大倉洋紙店三代目社長大倉邦彦が昭和七(一九三二)年に横浜市港北区に開設しました。大倉邦彦は、初代孫兵衛や森村市左衛門の経営思想の強い影響を受けて、実業家でありながら教育や研究に着手したのです。また、研究所を横浜に建設したのも偶然ではないように思います。

横浜鉄道物語       宇津木三郎(大倉精神文化研究所)

明治五年(一八七二)九月、新橋横浜間の鉄道開業式が挙行されました。これは日本の文明開化を象徴する出来事としてよく取り上げられます。たしかに、馬車や人力を使っても、日帰りの旅行はきつかった東京と横浜の間が、片道五十三分で結ばれたことは画期的でありました。また、初めは何も分からなかった日本人も、この建設過程で技術を習得することができました。さらに、この鉄道により人々の地域間の交流が増し、その相乗り方式は、近代的な人間関係の醸成にも一役買ったと言われています。
しかし、当時の日本人のほとんどはこの計画に反対でありました。その一番手は陸軍であるといいます。さらに馬車や人力の営業関係者も当然反対しました。横浜の漁民も海岸を埋め立て、そこに轟音を立てて鉄の塊が走ると魚が逃げてしまうと、お上に訴えました。反対したのは地元の利害関係者だけではありません。当時政府に全国から寄せられた鉄道関係の建白書は、反対論が三百であるのに対し、賛成論は一件に過ぎなかったといいます。
こうした反対論が喧しいなか、計画の立案者である伊藤博文と大隈重信は、身の危険を感じつつ最後まで日本の文明開化のために自説を押し通し、鉄道を完成させました。その功により六百円が天皇から下賜されました。反対者の中には西郷隆盛もいます。今からみると、反対者は頑迷固陋な保守主義者だったように思えますが、真相はどうでしょうか。今回の横浜鉄道物語は新橋横浜間鉄道建設計画への西郷隆盛の反対論に焦点をあて、文明開化の影の部分を浮き彫りにしてみたいと思います。

●会場

ひまわりの郷(港南区民文化センター)

京浜急行上大岡駅中央棟4階・ウイング上大岡うえ

●参加費  無料(ご来場の方には昨年度の講演録を差し上げます)

●定員   300名(当日先着順、どなたでも御参加いただけます)

◆問い合わせ  財団法人大倉精神文化研究所
222-0031 神奈川県横浜市港北区太尾町706
電話 045-542-0050(日曜、月曜は休みです)