(注)この報告は『大倉山論集』第56輯に掲載されたものです。一部省略等がありますので、引用等については『大倉山論集』第56輯をご覧下さい。

(第十六回研究所資料展) 

武者小路実篤が描いた大倉邦彦

 ―研究所所蔵絵画展―

伊香賀 隆 

 

平成二十一年十一月三日から同八日までの六日間、横浜市大倉山記念館において、「第二十五回 大倉山秋の芸術祭」が開催された。大倉精神文化研究所はこれに参加し、①「描かれた開港地・横浜―大倉孫兵衛の錦絵展―」、②「武者小路実篤が描いた大倉邦彦―研究所所蔵絵画展―」③研究所所長茂住實男による講演会「幕末の漂流民が体験したアメリカ」を開催した。以下は、②「武者小路実篤が描いた大倉邦彦―研究所所蔵絵画展―」の展示報告である。
この展示会は、平成二十一年十一月四日から五日にかけての二日間、大倉山記念館第七集会室を会場として開催した。期間中の入場者数は延べ二二〇名であった。展示品は、解説パネル三枚、絵画六点、揮毫八点である。以下に、一、第二十五回「大倉山芸術祭」記念式(平成二十一年十一月四日)における平井誠二専任研究員のあいさつ、二、展示品リスト、三、解説パネルの記載内容を掲載する。

 

一、第二十五回「大倉山秋の芸術祭」記念式あいさつ(平井誠二専任研究員) 


はじめに

秋の芸術祭、二十五周年、おめでとうございます。研究所と記念館の建物は、七十七周年になります。今年も研究所は秋芸に参加しており、今回は二つの展示会を開催しています。一つは、図書館の閲覧室と公開書庫を会場として、「描かれた開港地・横浜」と題して、横浜錦絵の展示をしています。これは、開港一五〇周年の記念であることと、記念館を作った大倉邦彦のおじいさんが、その錦絵の出版を家業としていたことから企画しました。もう一つの展示会は、一階第七集会室において、研究所所蔵の絵画展をしています。絵画展の目玉は、武者小路実篤が描いた大倉邦彦の肖像画です。本日は、少しお時間をいただいて、大倉邦彦の肖像画が描かれた経緯をお話いたします。

 

一 武者小路実篤とは誰か

 

武者小路実篤とは、明治一八年(一八八五)生まれで、昭和五十一年(一九七六)に亡くなった方で、肩書きは、小説家・画家・思想家です。小説家としては、『友情』『人間万歳』『愛と死』など数多くの作品を残されており、皆さんも若い頃に一度は読まれたことがおありでしょう。文化の日にあわせて、今年も文化勲章の発表がありましたが、武者小路実篤は、昭和二十六年 (一九五一)に文化勲章を受章しています。画家としても有名ですが、すぐに思い浮かぶのは、「仲良き事は美しき哉」の色紙でしょうか。私なんかは、山藤章二のパロディーの方を思い出してしまいます。山藤は、昭和五十一年(一九七六)に武者小路実篤が死去した際に、武者小路がよく書いていた色紙「仲良き事は美しき哉」をパロディーにした作品を『週刊朝日』に掲載しました。野菜の絵を、ロッキード事件の主役の田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治の顔に置き換えたものです。

この武者小路実篤が、大倉山に来て、大倉邦彦に会い、肖像画をプレゼントしているのです。それは、大倉邦彦が、この建物を建設した目的と密接に結びついています。

 

二 武者小路実篤と大倉邦彦の関係

 

武者小路実篤は、昭和六(一九三一)年五月十五日に大倉山に来ています。記念館(研究所本館)はまだ建設中でした。その工事現場を大倉邦彦が案内しました。研究所の日誌にその記録があります。

実篤は、帰宅した一か月後に、大倉邦彦の肖像画を完成させ、邦彦にプレゼントしています。第七集会室で現物を御覧下さい。

では、なぜ実篤は大倉山に来たのでしょうか。その鍵となるのが、インドの詩人ラビンドラナート・タゴールです。タゴールは、東洋人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞した人で、インドがイギリスの植民地から独立するときに大きな影響を与えた人物でもあります。インドではガンジーと共に、建国の父「国父」と呼ばれて尊敬されています。昭和四年(一九二九)に、そのタゴールが日本に来たとき、大倉邦彦の屋敷に一か月間滞在しました。ちょうど、研究所の建設を始めた頃です。

タゴールは、ポエム(詩)だけではなく、音楽・絵画・演劇・舞踊、などにも造詣が深く、自然と調和した生き方、学問と芸術の統合などを人々に説き、またそれを自分でも実践していました。大倉邦彦は、このタゴールから大きな影響を受けました。タゴールはインドに帰った後で、御礼として、自分の著作一六〇冊を大倉邦彦にプレゼントしています。

それから二年後、タゴールの生誕七十年のお祝いとして、関係者が本を作ってプレゼントすることになります。完成した本は『GOLDEN BOOK OF TAGORE』という本です。その本には、世界中の著名人が作品を寄せています。ガンジーをはじめとして、アインシュタイン、ヘレンケラー、トマスマン、イェーツ、ヘルマンヘッセ、ロマンロランといったノーベル賞級の人がたくさん集まっています。

この本に、日本からも作品を提供することになり、それを集めたのが大倉邦彦で、邦彦からの依頼で作品を寄せたのが武者小路実篤です。大倉邦彦は、ほかにも哲学者の井上哲次郎や、詩人の野口米次郎らに作品を依頼していますが、その縁で、わざわざ大倉山にまで出向いてきたのは、武者小路実篤ただ一人でした。

武者小路実篤は、小説や絵を描くだけでなく、「新しき村」と名付けた共同生活の村を作り、自らもそこで生活し、人間としての理想的な生き方を実践しようとしました。

大倉邦彦が研究所を作ったのは、社会の役に立つ立派な人間を育てる研究と実践の場とするのが目的で、そのために東洋と西洋の文化の良いところを研究してその成果を人格教育に役立てました。実篤は、その考え方や生き方に共感して、大倉山に来て、邦彦の肖像画を描いたものと思われます。自然と調和した生き方、学問と芸術の統合、理想主義、理論だけでなく実践することの重視、こうした考えが大倉山にはありました。

大倉精神文化研究所の本館は、二十五年前から、横浜市大倉山記念館になりました。

今では、港北区の文化のシンボルとして、多くの方々に親しまれていますし、そうした利用者の皆さんが集まる最大のイベントが、この秋の芸術祭です。芸術を通して豊かな人格を形成することは、七十七年前にこの建物が建設された目的にも合致していると思います。

武者小路実篤が描いた大倉邦彦の肖像画や、大倉邦彦自身が筆を染めた作品、大倉邦彦が愛した富士山の絵などを御覧いただいて、大倉山の成り立ちに想いを馳せていただければ幸いです。

秋の芸術祭の成功を祈念して、ご挨拶とさせていただきます。有り難うございました。

 

展示品リスト 

 

1 解説パネル(三枚) 

パネル①―あいさつ文(内容は後述)

パネル②―解説文及び資料写真

(解説文)

・武者小路実篤のプロフィール(内容は後述)

・武者小路実篤と大倉邦彦(内容は後述)

・武者小路実篤 年譜(内容は後述)

(資料写真)

・武者小路実篤が描いた大倉邦彦の肖像画(表)(写真1)

・武者小路実篤が描いた大倉邦彦の肖像画(裏)(写真2)

・「大倉精神文化研究所日誌」昭和六年から抜粋(内容は後述)

パネル③―大倉邦彦プロフィール(内容は後述)

大倉経営事業(図1・図2)

 

2 絵画(六枚)

武者小路実篤が描いた大倉邦彦No.11002
解説は展示パネル②「武者小路実篤と大倉邦彦」へ。
大倉邦彦の肖像画(No.11021)  昭和十二年(一九三七)十二月 
(解説)作者の「SoshiRo.Y」についてはよくわかっていません。この肖像画は写真 から描かれたものと思われます。

大倉邦彦の肖像画No.11019 昭和十二年(一九三七)十二月 
(解説)作者の「せんば」についてはよくわかっていません。この肖像画は写真から描かれたものと思われます。

富士山(No.11018)  昭和十三年(一九三八)
(解説)春の富士山の姿を描いたもの。作品左下に「Shunsuke Ryu」という署名があり、描いたのは龍駿介氏と思われる。龍氏は明治二十二年(一八八 九)福岡県出身の風景画家で、富士個展を六十六回開催し、富士山の油絵集が出版されるなど、富士を描いた画家として知られている。

晩秋の富士(No.11017)  昭和五年(一九三〇)
(解説)作品左下に「M Ishikawa」の署名、また額の裏に「晩秋の富士 石川誠作」とあり、作者は石川誠という画家であったと思われますが、その詳 細についてはわかっていません。

富士山(No.11022) 年代・作者とも不明

 

3 揮毫
①(No.11434)「いくたびか たほれつ おきつ つとめなむ かためしこころよし  ゆるるとも 邦彦」

②(No.11423)「ああ富士が 見える見えると 人をよび 邦彦」

③(No.11450)「としとしに 人にまたるる  時のもの 邦彦」

④(No.11400)「腹たたず こころ静に お茶はたつ 邦彦」
⑤(No.11342)「魂を うちだすかぢの こころもて  はげみつわれよ 日の本のわざ 邦彦」

⑥(No.11337)「無我でこそ たえざるつとめ な し と げ る 邦彦」
⑦(No.11338)「おほかたは 水のそとにて まはりつつ 水とはならず 流されもせず 邦彦」

 (No.11392) 「一峯高処 白雲低 人到雲中 道已迷 邦」

 

 

三、解説パネル

【パネル①―あいさつ文】

大倉山記念館は、今から七十七年前、昭和七年(一九三二)に大倉精神文化研究所本館として竣工しました。研究所が開設したのもこの時です。七十七年の歴史の中で、大倉精神文化研究所は、額装の絵画や揮毫類を三八点所蔵してきました。この度、その調査と目録化が完了しました。また、創設者大倉邦彦が描いた書画類を中心として、表装前の本紙四一〇点も所蔵しています。今回、この絵画・揮毫類の一部を初めて一般公開することとしました。

展示の中心となるのは、武者小路実篤が描いた大倉邦彦の肖像画です。小説家であり画家でもあった武者小路実篤は、研究所を創建しようとしていた大倉邦彦に会い、その理念と実践に共感して肖像画を画いたものと考えられます。今回紹介する大倉邦彦の肖像画は、他にもう二点あります。大倉邦彦が好きだった富士山を描いた風景画は三点あります。大倉邦彦が研究所をこの大倉山の地に建設したのも、富士山がよく見える場所として選んだといわれています。大倉山秋の芸術祭の一環として、これらの作品をご鑑賞いただき、大倉山の地に記念館を建設した大倉邦彦のこころざしに想いを馳せていただければ、これに勝る喜びはございません。

平成二十一年十一月四日大倉精神文化研究所

 

【パネル②―解説文及び資料写真】

武者小路実篤プロフィール

一八八五~一九七六年

小説家、詩人、画家。明治十八年(一八八五)、東京麹町で、公卿の家系である武者小路家の第八子として生まれた。学習院初・中・高等科に学び、ここで志賀直哉と出会う。明治三十九年(一九〇六)、東京帝国大学哲学科に入学するが、一年余りで退学。明治四十三年(一九一〇)、志賀直哉、有島武郎らと文学雑誌『白樺』を創刊。これに因んで白樺派と呼ばれ、その後、『友情』『愛と死』などの多くの小説、人生論を著し、人生の賛美、人間愛を語り続けた。

大正七年(一九一八)に、理想的な調和社会・階級闘争のない世界(ユートピア)の実現を目指して、宮崎県児湯郡に「新しき村」を建設する。

また美術への関心も深く、三十八歳(一九二三)頃から自ら絵筆を取り、独特の画法で多くの作品を残すと共に、美術関係の著書も多く出版した。昭和二十一年(一九四六)、貴族院議員に就任。昭和二十六年(一九五一)、文化勲章受章。

武者小路実篤と大倉邦彦

二人の交流はタゴール(一八六一~一九四一)を抜きにしては語れません。タゴールは、「詩聖」と呼ばれたインドの有名な文学者・思想家・芸術家であり、東洋人として初めてノーベル賞(文学賞、一九一三)を受賞した人です。タゴールは昭和四年(一九二九)に来日した際に、大倉邦彦邸へ一ヶ月にわたって滞在しています。

昭和六年(一九三一)、タゴール生誕七十年記念として、全世界の著名人に原稿が依頼されます。日本では大倉邦彦が責任者となり、日本の代表的な哲学者、小説家、詩人を推薦しますが、この時の小説家代表が武者小路実篤でした。二人の交流は、これを契機として始まったようです。同年五月十五日、武者小路実篤は、まだ建設中であった大倉精神文化研究所を訪れ、大倉邦彦が案内しています。

今回展示している大倉邦彦の肖像画は、研究所訪問の一ヶ月後に画いたものです。肖像画の裏には、

大倉邦彦兄肖像

一九三一・六・一五

武者小路實篤

畫く

と明記されています(写真2)。

その後も二人の交流は続き、昭和二十八年(一九五三)七月四日には、本研究所が主催した自由大学講座の講師を務め、「生活と人生」と題して講演をしました。

さらに、大倉邦彦が主宰するタゴール生誕百年祭に関連して、昭和三十五年(一九六〇)五月二十一日に生誕九十九年記念特別講演で、武者小路実篤が「東洋人の一人として」と題して講演をしています。

二人の交流を確認出来る資料は、決して多くはありません。しかし、共に分野を問わず広く学び、その中から真理を求めようとした点、さらに、一方では「新しき村」、一方では「大倉精神文化研究所」を創設してその思想の実践・具現化に努めた点などから、二人は思想的・人間的に共感し、互いに尊敬し合う間柄にあったのでしょう。今回展示している絵画は、武者小路実篤が大倉邦彦に贈呈したものであり、二人の交流を偲ばせる貴重な遺産とも言えましょう。 

大倉精神文化研究所日誌 昭和六年から抜粋

四月十八日

タゴール翁誕生記念出版寄贈者推薦。

四月十五日、タゴール翁秘書 Chakravarty 氏ヨリ別紙書状ヲ以テ、タ翁誕生七十回ヲ記念スル Birthday volume ニ寄稿スル日本ノ代表的哲学者・詩人及ビ小説家ノ推薦ヲ依頼シ来ル。

詩人トシテ野口米次郎氏、小説家トシテ武者小路実篤氏ヲ推シテ承諾ヲ得タリ。野口氏ヨリハ英文ノ詩稿ヲ得テ、五月十三日之ヲ発送シ、武者小路氏ノ原稿ハ慶応義塾教授西脇潤三郎氏ニ翻訳ヲ依頼セリ

哲学者トシテハ初メ京大ノ波多野博士ヲ推薦セシモ、同氏ノ都合ニヨリ承諾ヲ得ズ、井上哲次郎博士ヲ煩ハス事トナル。井上博士ノ原稿ハ岡倉由三郎氏ニ英訳ヲ依頼シテ承諾ヲ得タリ。

両者ノ原稿ハ〆切切迫シテ、五月廿一日発送セリ。

(中略)

五月十五日

所長、武者小路実篤氏ヲ研究所ニ案内ス

 

 

【パネル③ 大倉邦彦プロフィール】

大倉邦彦 一八八二~一九七一年

明治十五年(一八八二)、佐賀県神埼市の素封家江原家に生まれた。上海の東亜同文書院を明治三十九年(一九〇六)に卒業。同年、大倉洋紙店に入社。明治四十五年(一九一二)には、社長の大倉文二に見込まれて養子となり、文二の死後は社長に就任。

邦彦は、社長として事業を大きく発展させたが、真の経済活動とは単なる利益追求ではなく、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると考えていた。この観点から、教育事業に携わり、東京目黒の富士見幼稚園や佐賀県西郷村の農村工芸学院などを開設。また、この考え方をより深め、さらに世の中に広く普及するため、昭和七年(一九三二)、大倉精神文化研究所を設立した。

研究所は、戦中戦後の混乱期に何度も存亡の危機を迎えるが、邦彦は全私財をなげうって信念を貫き通し、研究所の維持発展に尽力した。昭和四十六年(一九七一)、死去(享年八十九歳)。

大倉経営事業

実業家の大倉邦彦は、自身の行うすべての活動は天から与えられた使命事業であると考え、それを「大倉経営事業」と総称した。具体的には、「生産事業」・「教育事業」・「精神文化事業」である。

大倉精神文化研究所を造りはじめた昭和四年頃と、研究所が完成し活動を開始した昭和九年頃の組織図を見比べると、「教育事業」と「精神文化事業」が大倉精神文化研究所に吸収されていることがわかる。このことからも、邦彦が全ての事業の中で、研究所をとても重要視していたことがうかがえる。