港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第104回 大倉山の照空灯 -終戦秘話その10-


第75回で、戦時中、港北区域では高田(たかた)や富士塚、岸根などに高射砲陣地(こうしゃほうじんち)があったことを指摘しましたが、高射砲陣地が「大倉山にあったという話も聞いたことがあります」と書きました。大倉山に高射砲陣地があったという話は、数名の方から直接に伺いましたし、私が読んだだけでも、数冊の本に同様のことが書かれていました。しかし、『太尾の歴史』(横浜市立太尾小学校、1985年)には「龍松院(りゅうしょういん)の山の上にはサーチライトの陣地がつくられました」と記されています。どうやら『太尾の歴史』の方が正しいようです。大倉山から敵機を照らすと、菊名の安山(やすやま)の上にあった高射砲陣地から砲撃をしたのだそうです。
サーチライトは、一般に「探照灯(たんしょうとう)」と訳されますが、陸軍では「照空灯(しょうくうとう)」と呼んでいたようです。夜間の空襲では、敵機を目視(もくし)することが出来ませんから、敵機の爆音を聴音機(ちょうおんき)で調べて、方角・距離・高度を判定し、照空灯を照射して、そこを高射砲で撃ちました。聴音機や照空灯を操作する部隊を「照空隊(しょうくうたい)」と呼びました。
大倉山の照空灯陣地は、殿谷(とのやと、大曽根台)の冨川家(ふかわけ)の土地に作られました。冨川百合子(ふかわゆりこ)さんのお話によると、裏山は松林と竹林だったのですが、知らない内に松の木に印が付けられていました。百合子さんのお父さんは、兵士に「これ切れ、あれ切れ」と命じられるままに、印の付いた大きな松の木を何本も切らされて、とうとう神経痛になって寝込んでしまったのだそうです。このようして冨川家の土地は接収され、照空灯の陣地にされてしまいました。
冨川百合子さんからは、山の上に駐屯(ちゅうとん)していた兵士の中に、夜陰に乗じて逃げ出した者がいたことや、米軍艦載機(べいぐんかんさいき)の機銃掃射(きじゅうそうしゃ)の玉が、竹藪(たけやぶ)に当たって、「カチッ、カチッ」と音を立てた話、女学校から田奈弾薬庫(たなだんやくこ、正式には東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所、現こどもの国)へ勤労奉仕(きんろうほうし)に行かされた話なども伺いました。
では、高射砲陣地はなぜ作られたのでしょうか。その原因は、第一次世界大戦後の航空機の急速な発達にありました。四方を海で囲まれた日本にとっては、敵航空機による空からの攻撃に対処することが国防の重要な課題となってきたのです。その防空手段は、①主として軍部が行う積極的防空手段、②主として民間が行う消極的防空手段、③軍民共同の補助手段の3種類に分けて考えられていました。積極的防空手段とは、防空飛行隊、高射砲隊、高射機関銃隊、照空隊、防空気球隊による攻撃でした。消極的防空手段とは、灯火管制や消防など、補助手段とは、防空監視などを指します。このように沢山ある防空手段の内の1つが高射砲だったのです。
日本で始めて常設の高射砲連隊が編成されたのは、大正14年(1925年)のことですが、緊迫する国際情勢の中で、昭和12年(1937年)になりやっと防空法が施行(しこう)されます。昭和15年には、全国を東部・西部・中部・北部の四軍に分ける防衛体制が整えられますが、本格的な防空体制強化が図られるのは、昭和17年(1942年)の米軍機による本土初空襲以降のことになります。横浜は、高射第一師団(元は東部防空旅団)の高射砲第117連隊が警備することになりました。高射第一師団は、帝都(ていと)や京浜工業地帯の防衛を目的としていました。
高射砲陣地や照空灯陣地は、大倉精神文化研究所本館に海軍気象部が入っていたのでそれを守るために作られたという話もありますが、正しくは、こうした全国的な防空対策の中で作られたものです。
米軍機の空襲も、大倉精神文化研究所を狙って行われたという話を聞きますが、不思議なことに、大倉山駅の周辺は大きな被害を受けましたが、研究所はほとんど無傷でした。空襲の目的については、米軍の作戦資料から再検証する必要があります。同様に、日吉周辺の防空体制や、日吉への空襲についても、日米両軍の資料から検証する必要がありそうです。

(2007年8月号)