港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第107回 横浜文化賞-鈍根運の天野修一-


毎年11月は、恒例の横浜文化賞授賞式が挙行されます。今年で56回目になります。今回、港北区関係者(在住者など)はおられないようですが、歴代受賞者の中から港北区関係者を探してみると、これまでに20名以上の個人や団体が受賞されています。その詳細は、いずれ機会があれば順次紹介していきたいと思います。
さて、横浜文化賞とは、芸術・教育・学術・社会福祉・医療・産業・スポーツ振興など様々な分野で、横浜の文化の振興(しんこう)に尽力(じんりょく)された方々を顕彰(けんしょう)するために、昭和27年度に制定された賞です。
第1回は昭和28年(1953年)3月29日に、横浜宝塚劇場で贈呈式が行われました。受賞者4名の中には、学術部門で綱島出身の俳画家(はいがか)飯田九一(いいだくいち、第36~38回参照)の名があります。
港北区内在住者では、第9回(昭和36年1月)に日吉在住の天野修一(あまのしゅういち)が産業部門で受賞しています。天野修一は、タイムレコーダーの世界的ブランドであるアマノ株式会社の創業者です。多くの会社や商店で、毎日の出退勤の時にお世話になっているはずです。お使いの方は、一度メーカー名を確かめてみてください。
天野修一(1890~1976年)は、三重県鈴鹿(すずか)の生まれで、昭和6年(1931年)東京蒲田(かまた)に天野製作所を設立し、国産としては最初の電気式時刻記録機(タイムレコーダー)の製造を始めます。その後、海軍から魚雷(ぎょらい)に使う雷道計(らいどうけい)の開発・製造を請け負ったことから、昭和13年(1938年)に菊名駅近くの現在地に土地を購入し、新工場を建設しました。未曾有(みぞう)の大水害といわれた昭和13年の水害(第66回参照)の直後であり、そのことが地主からの土地購入を容易にしたといわれています。翌年、敷地の北側に天野青年学校を設立します。大豆戸町(まめどちょう)の武田信治(たけだのぶはる)さん(第100回参照)は戦争中に菊名工場で働きながら、一時青年学校にかよっていました。天野社長はやさしい温厚(おんこう)そうな方だったそうです。
昭和17年からは海軍管理工場に指定され、菊名工場が本社になりますが、敗戦により工場は一旦閉鎖されます。
天野修一は、「鈍根運(どんこんうん)」を人生訓、社訓としました。通常は「運根鈍」とか「運鈍根」といい、成功するためには幸運(運)と根気(根)と粘り強さ(鈍)が必要であるというたとえに使われます。天野は、それを自らの造語で「鈍根運」に変え、最も大切なのは正しい行為(鈍)であり、それを揺るぎない努力(根)で実行することにより運が開けるのだと説いています。
社歌では「花の菊名の空高く、かざして進む旗じるし、鈍根運に貫(つらぬ)く我ら…」と歌っています。この精神により、天野は戦後の動乱期を乗り切り、独自技術に立脚した開発型企業として会社を再建発展させました。
この原稿を書いている最中に、偶然にも菊名の大崎春哉(おおさきはるや)さんから川上三宝(かわかみさんぼう)著『あしあと』を御寄贈いただきました。川上さんは菊名にお住まいの大工で、平成17年(2005年)に「技能文化」で横浜文化賞を受賞されています。この本は川上さんの二冊目の著書で、匠(たくみ)の技と心意気が伝わってきます。

(2007年11月号)