港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第11回 むかし、むかし、港北区は… -港北区の歴史-

今年(平成11年)でわがまち港北区(こうほくく)は60歳の還暦(かんれき)を迎えました。これを機会に、区域の歴史を振り返ってみたいと思います。
神奈川県といえば相模国(さがみのくに)のイメージがありますが、横浜市域の大半は武蔵国(むさしのくに)であり、港北区域は高田(たかた)・新吉田(しんよしだ)・新羽(にっぱ)地域が武蔵国都筑郡(つづきぐん)で、その他の地域は武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)に属していました。第4回でも記したように、戦国時代には小机城(こづくえじょう)を中心として小田原北条氏の支配下におかれていました。江戸時代になると、上駒林村(かみこまばやしむら、現日吉本町)と師岡村(もろおかむら、現師岡町)が増上寺領(ぞえじょうじりょう)だった以外は大半は旗本領で、残りは幕府領した。
明治4年(1871)になり神奈川県が置かれ、区域もこれに属しました。当時の神奈川県は武蔵国都筑郡(つづきぐん)・久良岐郡(くらきぐん)の全域と武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の一部と相模国高座(こうざ)・三浦(みうら)・鎌倉郡(かまくらぐん)からなっていました。明治9年(1876)に足柄県(あしがらけん)の内相模国(さがみのくに)分が神奈川県に編入され、同26年(1893)に三多摩地区(さんたまちく)が東京府()とうきょうふに移管(いかん)され現在の県域が確定しました。
明治22年(1889)に市町村制が施行(しこう)され、横浜市が誕生しますが、当時の市域は現在の中区(なかく)のうち本牧(ほんもく)、根岸(ねぎし)を除いた狭い区域でした。その後、周辺の郡部を編入して新区を設置する形で順次市域が拡張されていきます。そして、60年前の昭和14年(1939)4月1日、港北区(こうほくく)が誕生しました。この時の区域は現在の都筑区(つづきく)、緑区(みどりく)、青葉区(あおばく)を含み、面積129.48平方キロメートルで市域の約3分の1を占めていましたが、人口はわずかに5万人余でした。区名は、菊名区(きくなく)との案もありましたが、横浜港の北側に位置するという意味で港北区と名付けられました。
その後、昭和41年(1966)の東急田園都市線の開通による沿線の人口急増から生じた行政の不均衡解消のため、44年(1969)10月1日に区域の西部が緑区として分区し、面積は43.67平方キロメートルとなりました。面積は約3分の1に狭(せば)まりましたが、それでも人口は21万人余に及んでいました。
人口の増加はその後も進み、平成6年(1994)11月6日に行政区の再編が行われ、第三京浜(だいさんけいひん)の西側に位置する牛久保(うしくぼ)、荏田(えだ)、大棚(おおだな)、勝田(かちだ)、北山田(きたやまだ)、新栄(しんえい)、すみれが丘、茅ヶ崎(ちがさき)、中川(なかがわ)、東方(ひがしかた)、東山田(ひがしやまだ)、南山田(みなみやまだ)などの町々(旧中川村域)が、新設された都筑区(つづきく)に編入されました。ちなみに、この時緑区から青葉区が独立しました。こうして、現在は区域面積31.37平方キロメートル(市域の7.2パーセント)、面積では現在18区中5位となりました。しかし、人口は増加の一途をたどり、平成11年(1999)10月1日現在で18区中最多の291,363人で、総人口の8.6%を占めています。
このように、区域は様々に変遷して今日に及んでいます。最近では、平成5年(1993)の市営地下鉄三号線の全線開通により、その沿線は急速な都市化が進んでいますし、市営地下鉄四号線(日吉~中山)や神奈川東部方面線も計画されています。こうした交通網の整備は今後も区域を大きく変貌させることでしょう。港北区が誕生した昭和14年(1939)に横浜市は7区制でしたが現在は18区制になっています。将来、わがまち港北区も再び分区されることがあるかも知れません。見守っていきたいものです。

(1999年11月号)

付記1 港北区の人口は、平成15年(2003)1月1日現在で301,616人です。

付記2 市営地下鉄四号線は、「横浜環状鉄道」といい、中山~日吉間(3.1キロメートル)は2001年1月に着工し、2007年の開業をめざして各地で工事が進められています。