港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第16回 大倉山は地球だった?

大倉山駅の駅名の由来(第3回、第42回参照)にもなった大倉山は、かつては太尾村(ふとおむら)の名もない丘でした。昭和3年(1928)6月のある日、その丘の上に二人の男が立っていました。一人は東京横浜電鉄常務取締役五島慶太(ごとうけいた)、もう一人は大倉洋紙店社長大倉邦彦(おおくらくにひこ)でした。大倉邦彦は、持っていたステッキをグルッと回して、「大体このくらいの土地がほしい」と言って、五島慶太から一山(7500坪、後に1万坪となる)の土地を買いました。二人は共に明治15年(1882)生まれの弱冠46歳でした。なんとも浮世離れした話です。そして、この地に翌年から大倉精神文化研究所本館(横浜市大倉山記念館)の建設を始めとする大土木工事が始まりました。
現存するのは大倉山記念館だけですが、大倉邦彦は、大倉山全体に所員の住宅や利用者の宿所、茶寮、弓道場など様々な付属施設を建設して、一つの完結した世界を作ろうとしていました。
昭和10年(1935)頃に作られた『所内しるべ』という研究所の案内パンフレットがありますが、そこには、次のように説明してあります。

庭は日本並(ならび)に東洋の地図を象(かたど)って居(お)ります。敷地全体九千坪の土地は世界を意味し、建物は個人を表(あら)はして居(お)ります。かくして日本と個人と世界とは三位一体である意味を表はすものであります。

邦彦は、大倉山全体を一つの世界、つまり地球に見立てて、研究所本館の前庭に日本列島の形に植え込みを作り、それを「地理曼荼羅(ちりまんだら)」と名付けました。そして、建物を人間に見立てました。つまり、世界全体と日本の国と一人の人間ということで、大倉山と前庭と本館とで三位一体を表わしたのです。
そして、ちょうど70年前の昭和5年(1930)4月9日、大倉邦彦は研究所の発展と根本理念を永遠に留めるために、鎮礎式(ちんそしき)を行い、「留魂碑(りゅうこんひ)」を本館中央の地下30尺(約9メートル、つまり地球の中心)、に埋めました。大倉山の土地は、昭和56年(1981)に横浜市へ売却され、付属施設も地理曼荼羅も無くなってしまいました。しかし、留魂碑は、現在でも「留魂礎碑(りゅうこんそひ)」として大倉山記念館の一階中央階段裏に存続しています。来館されたときには一度ご覧下さい。
さて、建物を人間に見立てるとは、どういうことなのでしょうか。次回は、大倉山記念館の秘密に迫ってみます。

(2000年4月号)

付記1 鎮礎式の日、大倉邦彦は記念絵ハガキセットを作り、参列者への引き出物としました。2002年、大倉精神文化研究所では、創立70周年の記念として、この絵ハガキの一部を復刻し、新しい絵ハガキと共に記念セットを作りました。

付記2 太尾村の「名もない丘」の名前が見つかりました。第70回を御覧ください。