港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第34回 関東大震災の記録

前回紹介した押尾寅松(おしおとらまつ)氏から、関東大震災の貴重な記録を見せていただきました。いずれ著書にまとめられるとのことですが、その一部をご紹介させていただきます。
大正12年(1923)9月1日、関東大震災がおきた時、押尾さんは生後10ヶ月にもなっていなかったということです。まだ幼かった押尾さんを抱きかかえて逃げたお母さんが後年語って下さった貴重な体験談です。
「母親は畠仕事より帰ってきて昼食の仕度をしていた頃であろう。地震の発生と同時に私を抱いて表へ出ようと思ったが、足が地につかず何度か転びそうになりながらもなんとか表に出た。そして庭続きの竹藪に家族の者と向かったらしいが、何としても地面が波のようにゆれて立って歩こうなど思いもよらなかったという。ましてや私を抱きながら必死になってがんばってくれたらしい。おじいさんも声を限り呼んでくれたとのこと。そして私を抱き這うようにして皆のもとにたどりついたということである。」
この時の揺れのすごさを、押尾さんは次のように記しています。
「一番最初の大きな揺れでは頭が割れたかと思われるようなショックと、鼓膜が破れたかと思われるような衝撃波に加えて、地鳴りと、ただウオンウオンという耳鳴りが、それに大気の振動までが加わって、自分が自分でないような、声も出せない状態ですっかり取り乱していたのであろう。」
地震の被害は、第21回に書いたように、横浜市街地に集中しており、それも昼食時だったことから市内各所から火災が発生し、62,000戸余を全焼しました。押尾さんの家は篠原地区にありましたが、市街地の方を見ると、「黒い煙が空一面を覆ってきて」「お天道様が赤黒くただれて」見えたのだそうです。
当時の篠原地区はまだ横浜市に編入されておらず、橘樹郡(たちばなぐん)に属していました。地震の被害は市街地に比べると比較的少なく、あまり語られることがありませんが、実は地震による液状化現象が起きていたのだそうです。液状化現象とは、「一般的には、海浜地区か埋め立てられた場所で、砂の間に含まれている水分が地震によって、砂の方が重いから流下し地表に泥水が分離して液状化するということ」と説明されており、内陸の港北区域では考えにくいと思っていましたが、篠原地区では、地盤の固い丘と低湿地の場所との境で発生したのです。
「(電柱)の所は山を削った場所で堅いが、この丘の裾は低湿地で田圃であった。その接する地盤の所が液状化現象を起こしたのであった。それはその境目の所が地震発生と同時に地割れを生じ、地下水が泥水となってピュッコ、ピュッコと地面が開いて閉じるたびに吹き出していたという。」
液状化現象のことは関東大震災当時は知られていませんでしたから、被害記録を調べてもほとんど出てきません。貴重な証言です。また、港北区域はその大半が丘陵部と低湿地とから成っていますから、今後の防災を考える上でも重要です(9月1日成稿)。

(2001年10月号)