港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第55回 日吉の宅地化と慶應義塾キャンパス


大正15年(1926)2月14日、東京横浜電鉄の神奈川線(丸子多摩川~神奈川)が開通し、農村地帯だった日吉(ひよし)の宅地化が始まります。同年、東京横浜電鉄は田園都市会社(のちに目黒蒲田電鉄と合併)と共同で、日吉台の土地79,600㎡(東京ドーム46,755㎡の1.7倍)の分譲を始めます。しかし、マスコミの発達していなかった当時は、鉄道開業も分譲地も知らない人が多く、思うような営業成績は上げられませんでした。
この頃、慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)は、関東大震災の復旧工事を進める中で、手狭(てぜま)になった諸施設の移転を計画していました。候補地を神奈川県下で探しはじめると、これに着目した東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄は、日吉台の土地237,600㎡を無償(むしょう)で寄付し、さらに105,600㎡の土地の買収を斡旋(あっせん)するという破格の条件を提示しました。小田原急行電鉄や箱根土地株式会社などからも名乗りがありますが、昭和4年(1929)7月3日、慶應義塾大学の予科、普通部、商工学校、寄宿舎などの日吉移転が決まります。借用地も含めると、実測で約43万㎡の大キャンパスです。
『東京急行電鉄50年史』によると、この頃の地価は1坪(3.3㎡)=10円でしたから、72万円の寄付ということになり、当時の年間運賃収入51万円をはるかに超えています(別の資料には坪7円とか5円との記述もありますが、筆者は未確認です)。いずれにしても、この効果は絶大でした。大学の移転前後で、分譲地の地価は2.5倍に高騰(こうとう)しますし、年間の契約面積は8.4倍に急増しています。
やがて新校舎も落成し、昭和9年(1934)、いよいよ慶應義塾大学がやってきました。この年は奇しくも創設者福沢諭吉(ふくざわゆきち、1834~1901)の生誕100年にあたり、11月3日・4日に「福澤先生誕生百年並日吉開校記念祝賀会」が行われ、延べ25,000人が来校しました。
この日吉キャンパスに、昭和14年(1939)藤原工業大学が設立されます。創設者の藤原銀次郎(ふじわらぎんじろう)は、義塾(ぎじゅく)の出身で、旧王子製紙(おうじせいし)の経営者となった人物で、後に政治家にもなります。藤原は諸外国の視察から、工業教育の必要性を痛感し、私費を投じて自ら大学設立に乗り出しますが、不慣れな学校経営を母校にまかせることとし、昭和19年(1944)に大学を義塾へ寄付し、慶應義塾大学工学部(1981年より理工学部に改組)となりました。
こうして順調な発展を続けていた日吉キャンパスですが、昭和19年9月より、海軍の連合艦隊司令部が地下壕(第20回参照)を建設したことから、昭和20年(1945)9月、進駐軍(アメリカ軍)は日吉キャンパス(構内の施設)を接収し、苦難の道を歩むことになります。その話は次回に。

(2003年7月号)