港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第7回 旱魃と舟運

前回は、水害と闘う住民の暮らしを書くことを予告しましたが(第9回に執筆しました)、今年(平成11年)は空梅雨(からつゆ)が続いています(6月15日現在)ので、旱魃(かんばつ)の話を先にいたします。
さて、港北区内の平地はその大半が鶴見川(つるみがわ)と、その支流である大熊川(おおくまがわ)、鳥山川(とりやまがわ)、早淵川(はやぶちがわ)、矢上川(やがみがわ)などによって形成されたものです。そのため、水はけの悪い低湿地で水害に悩まされたのですが、それに加えて、なぜか旱魃(かんばつ)の被害も受けていました。
これは、本流である鶴見川の勾配(こうばい)が緩(ゆる)いために、河口(かこう)から海水が昇りやすく、満潮時には新羽橋(にっぱばし)の近くまで潮が来たことによります。そのため、鶴見川からの農業用水確保が困難であり、水はけの悪い低湿地でありながら、少し日照りが続くと旱魃の被害を受けたのです。農業に依存していた昔の人々は、その対策として多くの溜池(ためいけ)を作りました。現在ではほとんどが埋め立てられてしまいましたが、昭和30年代頃までの古い地図を見るとよく分かります。師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)の「いの池」は、片目鯉(かためごい)の伝説で有名ですが、わずかに現存する灌漑用溜池(かんがいようためいけ)の一つです。
水害と旱魃の両方の被害を受けたため、区域の農地は生産性が低く、人々は大変苦労しました。たとえば、下田(しもだ)は、江戸時代に定められた田の生産力の等級で上中下の下田(げでん)からつけられた地名です。
状況が好転するのは、幕末に開港した横浜が都市化して巨大な消費地となって以降のことです。生鮮野菜等の需要が急激に伸び、港北区域も明治の中期からその供給地となりました。中でも菊名(きくな)や篠原(しのはら)の大根、太尾(ふとお)のタマネギ、大曽根(おおそね)のそら豆、樽(たる)の小蕪(こかぶ)、綱島(つなしま)の桃(第15回、30回参照)、小机(こづくえ)のイチゴなどは特産品として有名でした。
さて、鶴見川に河口から海水が昇りやすいことは、一方で住民に利益ももたらしました。満潮時に新羽橋(にっぱばし)の近くまで遡行(そこう)する水流を水運に利用したのです。道路が整備されてトラックなどの陸上輸送が盛んになる大正初期までは、水運は物資輸送の中心を占めており、旧太尾橋(ふとおばし)や大綱橋(おおつなばし)の近くにあった河岸(かし)を中心に商店街が形成されていました。船では、農産物や特産の寒そうめん(第31回参照)、天然氷(てんねんごおり、第43回参照)などを消費地に向けて出荷し、逆に川下(かわしも)からは下肥(しもごえ、人糞)を運び、農地の生産力を上げるための肥料にしました。こうして、良くも悪しくも昔の人々は川と共に生活をしていたのです。

(1999年7月号)