港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第70回 観音山を関東高野山に


「大倉山」の名前の由来については第42回で書きましたが、今回は、それ以前についての話です。昭和7年(1932)に名前が付けられる前については、「太尾村(ふとおむら)の名もない丘でした」(第16回)と書きました。これは地元の複数の古老から聞いた話でした。しかし、大倉精神文化研究所附属図書館の書庫を漁(あさ)っていましたら、興味深い資料を発見しました。名もないはずの丘に名前があったのです。かつて研究所で発行していた月刊修養雑誌『躬行(きゅうこう)』の第3号(1934年5月1日発行)に次の一文がありました。

当時(1928年)未(いま)だこの山は草茫々(ぼうぼう)として登るにも僅(わず)かに一本の分け難い小径(こみち)が通ずるのみであった。山の頂(いただき)に古びた大神宮の祠(ほこら)が祀(まつ)られてあり、名を観音山(かんのんやま)と呼ばれてゐた

大倉山駅から大倉山記念館、歓成院(かんじょういん)、大綱(おおつな)中学校、大綱小学校に囲まれた辺りを、字(あざ)で「観音前(かんのんまえ)」とか「観音耕地」と呼んでいました。どうやら、その内の山の部分が「観音山」と呼ばれていたらしいのです。その後、大倉山と呼ばれるようになりすでに70年を経ており、昔の名前はもはや地元の古老の記憶からも失われてしまったようです。この観音とは、現在、歓成院の本尊として祀(まつ)られている十一面観音のことで、かつては歓成院とは別に大倉山の麓(ふもと)に観音堂があったことからこの字名(あざな)がつけられたようです。
ちなみに、山頂の「古びた大神宮の祠」とは、太尾村の村社で天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)っていた神明社(しんめいしゃ)のことです。神明社は、昭和33年(1958)に村内5社と合祀(ごうし)され、場所を移転し、太尾神社となっています。
さて、この観音山を信仰の聖地にしようとする話がありました。昭和7年(1932)11月9日、大倉山で行われた臨時神道講習会の懇親会で挨拶した小谷文海(こたにぶんかい)さんが語っています。小谷さんは、東京横浜電鉄専務五島慶太(ごとうけいた、第16回参照)の知り合いで、大正15年(1926)頃に、五島慶太から、「沿線の太尾の山は、高い土地で家を新築しても自動車が通れないから普通の住宅地には適さない。そこで、自分の信仰している真言宗の寺を建てたい。ついては、何万坪かある土地を安く提供するので高野山(こうやさん)の方で寺を建ててくれるように交渉してくれ」と頼まれたそうです。沿線開発(第55回参照)による会社の繁栄と、国民思想のためにもなる一石二鳥の策でした。小谷さんは早速高野山へ行って交渉を始めたそうです。観音山が五島慶太から大倉邦彦に売られる以前の話です。
ところが、昭和元年(1926)12月26日、高野山の金堂(こんどう)が炎上し、本尊秘仏を始めとする国宝多数を焼失するという大事件が起こりました。この火事の影響で五島慶太の計画も灰燼(かいじん)に帰してしまったのです。この計画が実現していれば、観音山は「大倉山」と呼ばれるのではなく、「関東高野山」と呼ばれるはずでした。
その頃、観音山に通っていた小谷文海さんは地元の人からある興味深い話を聞いています。その話は次回に…。

(2004年10月号)