港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第85回 氷場からスケートリンクへ


今回は、第43回で紹介した天然氷生産の後日談です。天然氷生産はまさしく水物で、リスクが大きかったのですが収入も莫大でした。そのため、機械氷の登場は地域の生産者にとって大変な痛手でした。『菊名あのころ』によると、菊名の池田屋は、昭和8年(1933)から販路を綱島温泉に変えて、アイスキャンデーやアイスクリーム製造なども手がけるようになります。『港北区史』によると、大曽根町(現大曽根台)の冨川善三(ふかわぜんぞう)さんは、昭和3年(1938)から氷場の池をスケートリンクに変えました。その善三さんの長男の成一(せいいち)さんから話を伺うことが出来ました。
東急は綱島の桃など沿線の名物を使って集客をしていましたが(第76回参照)、冬場の宣伝用としてこのスケートに注目し、昭和10年(1935)に冨川さんへ千円の融資をしました。善三さんは、その資金で水深150センチ程の大少5つの池を300坪の大リンクに改装しました。さらに、水深が深いと氷が割れやすくなるので、まず浅く水を貯めて氷を張り、次にリンクの端に付けた栓から氷の下の水を抜き、氷をコンクリートの床の上に落とす工夫をしました。なかなかのアイデアマンです。こうして出来たリンクは丈夫で、一度に200人程が滑走しても平気でした。商売は大繁盛で、沿線各地から集まった人達で行列が出来ました。日吉の慶應義塾大学の学生が一番のお客でした。
営業は12月の末から翌年3月の節句の頃まででした。天然リンクでしたから、晴れて冷え込めば良い氷が張りましたが、曇りだと溶け始めるのだそうです。氷の状態は、成一さんが毎日駅へ連絡して、「良好」「不良」の看板が出されました。一冬10日滑れれば生活できたそうです。借りた千円は10年で返せました。シーズンオフには、釣り堀やローラースケートをしようとしましたが、それは上手くいかなかったそうです。
当初の滑走料金は1時間15銭でした。改装後は25銭、後に35銭になります。営業時間は朝8時頃からでした。夜は百目蝋燭を点(つ)けて夜9時まで営業しましたが、改装後は電球に変わりました。
氷は、最初は山の清水で作っていましたが、リンクが大きくなるとそれでは足らなくなり、天秤棒(てんびんぼう)で担(かつ)いで運んで撒(ま)きました。まだ十代の成一さんは、真夜中に冷水を浴びながら水撒きをしていて、鶴見川対岸の綱島温泉の灯りが恨めしかったそうです。2、3年後、モーターで水撒きをすることが出来るようになりましたが、朝までに綺麗(きれい)に凍るように水を撒くのは難しかったそうです。しかし、一番難しかったのはお客の相手でした。1日50銭で手伝いの人を雇っていましたが、慣れない接客の仕事でトラブルも多く大変だったそうです。
川崎市の酒井君代(さかいきみよ)さんからは、そのリンクで30人以上もの人が滑っている写真を見せてもらいました。酒井さんの友人岩永正矣(いわながまさし)さんの所蔵で、昭和10年代半ばの撮影だそうです。
東京渋谷の山王(さんのう)・虎ノ門・芝浦、鶴見などには屋内スケート場がありましたが、製氷に多くのエネルギーを使うため、戦争が始まり物資が不足してくると閉鎖されました。しかし、大曽根の天然スケート場は気候が寒ければ氷が張るので、ずっと営業を続けていました。大倉山の海軍気象部分室(第69回参照)に勤めていた人達に話を聞いたことがありますが、昭和20年(1945)冬、このスケート場に通ったことが今でも忘れられない思い出になっています。
天然氷は気候の影響を直接に受けます。そのため、昭和22、3年頃に暖冬により廃業したのでした。

(2006年1月号)