港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第88回 ありし日の栗原勇


愛国寺が昭和11年(1936)の二・二六事件以前に建立されていたことは、前回記したように、栗原勇(くりはらいさむ)の著書から確認されました。それでは、愛国寺は二・二六事件と関係がなかったのでしょうか。
事件後の昭和11年5月2日付け『報知新聞』は、栗原勇が出家したことを取り上げて、「余生を専(もっぱ)ら寺院の建立(こんりゅう)に捧げることゝなり、既に横浜市神奈川区樽町に尊皇山愛国寺の建立に着手した」との記事を掲載しています。当時から、愛国寺は事件後に建立されたとの誤解が生じていたことが分かります。
栗原勇の長男安秀少尉(やすひでしょうい)は、事件の中心人物の一人として逮捕されました。栗原勇は、獄中の息子に宛てた昭和11年5月11日付けの手紙で、「尊皇山愛国寺は、事件後益々(ますます)隆盛の徴(しるし)あり、名実共に国防宗(こくぼうしゅう)大本山たるの秋(とき)遠からず来るか。呵々(ああ)」と書いています。父親の強がりのように思えますが、愛国寺が注目を浴びたことは事実でしょう。樽町の吉川英男さんが古老から聞いた話によると、二・二六事件の後、愛国寺周辺に憲兵が来て、静かだった農村は騒然となったそうです。
さて、栗原安秀はこの年の7月12日に処刑されますが、その前日7月11日の遺書で、墓は不要だが遺骨は当分愛国寺と鶴ヶ峰の畠山重忠霊堂(はたけやましげただれいどう)に分置(ぶんち)してもらいたいと願っています。書籍や身の回り品も同様に両所へ寄附したいと記しています。栗原勇も、事件で処刑された関係者の遺族が菩提(ぼだい)を弔(とむら)う施設として愛国寺を活用したかったようですが、刑死者の墓標(ぼひょう)や祭祀(さいし)などに関する法律の厳しい規定により、父子の願いはいずれも実現できませんでした。
では、栗原勇とは、どのような人物だったのでしょうか。栗原勇は、佐賀県神埼郡境野村(かんざきぐんさかいのむら、後に千代田町)の生まれです。大倉精神文化研究所の創設者大倉邦彦は、神埼郡西郷村(後に神埼町)の出身です。両町は今年3月20日に合併して、神埼市となりました。隣村生まれの栗原勇と大倉邦彦は少し面識があったようです。
栗原勇は、職業軍人として30年近く勤務し大佐にまで昇進しますが、第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議の余波により、大正12年(1923)8月に40代半ばの若さで退役(たいえき)し、目黒区駒場に移り住みます。退役させられた栗原勇は、それでも熱烈な愛国者として、国民精神の作興(さっこう、奮い起こすこと)を目的に、「日本古戦史」の編纂、陸軍士官学校文庫図書の整理、畠山霊堂の建立、日蓮上人(にちれんしょうにん)の石像の建立など様々な活動を続けていました。やがて昭和6年(1931)、満州事変が勃発すると、国防完備の必要性を自覚し、一銭献金運動を始めます。目黒の自宅を「大日本国防費一銭献金会」の本部として、一銭献金(いっせんけんきん)により集めた資金で軍に飛行機(愛国号)を寄附する運動を展開します。昭和7年2月、栗原勇が大倉邦彦に宛てた援助依頼の手紙が研究所に残っています。
しかし、国民の国防意識の高まりや、軍事予算の増額などが進んだことから、栗原勇は活動の方針を物質軍備の充実から精神軍備の充実へと転換させます。その最初の活動が、昭和8年(1933)の愛国寺の建設でした。
では、なぜ愛国寺を樽町に建設したのでしょうか。大倉邦彦との関係から大倉山駅の近くに決めたのではないようです。栗原勇は、太尾町の旧家と親しく付き合いがあり、愛国寺の土地はその関係で選定したものと思われます。吉川英男さんは、栗原勇が現役将校だった頃に、部下に旧家の者がいたのではないかと推測されています。栗原勇が、旧家の知人(故人)の子供の就職を大倉邦彦に依頼した時の手紙も研究所に残されています。寺のある樽町や隣接する師岡・大曽根ではなく、太尾少年団が軍事教練を受けた(前回参照)のも、こうした関係があったためと推測されます。
今年は、二・二六事件から70年目に当たりますが、栗原勇と港北区は、実は700年以上もの時を隔てて、もう一つ奇妙な因縁でつながっていました。その話は次回に。

(2006年4月号)