『楽・遊・学』平成21年6月号原稿

港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第126回 ツトッコで大切に-開港150周年は麦酒(ビール)で乾杯-

 

6月2日は横浜開港記念日です。150年前の開港により、横浜村は国際的な港湾都市へと大きく変貌していきました。では、港北区域はどのような影響を受けたのでしょうか。直ぐには思いつかないかも知れませんね。実は、第43回で紹介した天然氷の生産、大消費地へと発展していく横浜市街地への野菜の供給(第7回参照)など都市近郊農村として緩やかな変化が訪れます。今回紹介するツトッコ作りも開港の影響といえるでしょう。
ツトッコとは、「苞(つと)」の方言で、一般的には食品を包む藁苞(わらづと)を指します。『港北百話』でも神社への供物(くもつ)を載せる藁苞(わらづと)をツトッコといっていますが、港北周辺では、麦わら製の麦酒瓶緩衝材(ビールびんかんしょうざい)のことを特にツトッコと呼ぶ事が多いようです。

嘉永(かえい)6年(1853年)のペリー来航に端(たん)を発し、日米修好通商条約の締結をへて、安政(あんせい)6年(1859年)に横浜が開港され、西欧文化の急激な流入が始まります。麦酒(ビール)もその一つで、明治の初めには横浜でビール造りが始まっています。明治18年(1885年)、横浜山手にジャパン・ブルワリーがビール工場を設立します。
当時は、横長の木箱の中にビール瓶を寝かせて入れていました。運搬時などに、瓶と瓶が直接ぶつかると割れるので、麦わらで編んだ藁苞(わらづと)に巻いて箱に入れていました。これがツトッコです。『大綱村郷土史』(おおつなむらきょうどし・第98回参照)によると、大綱村では明治20年頃より生産を始めたとしていますから、ツトッコは山手まで運ばれていたようです。
山手工場は、明治40年(1907年)に麒麟麦酒(キリンビール)株式会社へ引き継がれました。これがキリンビールの前身です。山手工場は大正12年(1923年)の関東大震災で全壊し、昭和元年(1926年)に生麦(なまむぎ)へ移転し、現在に至っています。
さて、明治から昭和前期の港北区域は、9割以上の家が農業を営んでいました。『大綱時報』によると、大正12年の大綱村は、全765戸の内、専業農家が545戸、兼業農家が144戸でした。現金収入の少ない農家にとって、副業のツトッコ作りは貴重な現金収入源となっていました。ツトッコ作りをしていたのは、主に年寄りと子どもでした。子どもの時のツトッコ作りを覚えておられた新羽町の小山(こやま)清作さん(第96回参照)の指導により、前回紹介した鶴見川舟運復活プロジェクトが復元を目指しています。
一方、新横浜公園の畑を利用して、管理者である日産スタジアムが、昨年から大麦や小麦の栽培を始めています(第123回参照)。鶴見川舟運復活プロジェクトはこれに協力し、昨年は6月15日に麦刈りをしました。収穫した麦は、かつての特産品であったそうめん作り(第31回参照)の材料にすることを考えていますし、麦わらはツトッコに加工しています。

 

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

 

付記  ビール瓶を四角い木枠のケースに立てて入れるのが普及するのは昭和になってからのようです。それに伴い、ツトッコ作りは衰退し、ワラ束を瓶の隙間に詰めるだけになっていきます。そのワラ束も、輪ゴムから段ボールへと替わり、中に仕切り板が付いたプラスチックケース(P箱、昭和41年~)の登場により姿を消します。
ツトッコ作りは、相澤雅雄さんの研究によると、昭和13年(1938年)に新田村の副業品であったことが確認されています。『都筑の民俗』では太平洋戦争の直前まで生産していたとしています。

 

 

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