『楽・遊・学』平成21年7月号原稿

港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第127回 ツトッコ農家と仲買人

 

前回の続きです。太尾町(ふとおちょう)の西山富太郎家はご近所から「ツトッコ屋」と呼ばれています。「ツトッコ屋」というのは「屋号(やごう)」です。「屋号」とは、家に付けられた通称で、家のある場所や、生業(なりわい)(職業)、先祖名、親族関係などから付けられました。西山家はお祖父さんがツトッコの仲買人(なかがいにん)をしていたことから「ツトッコ屋」と呼ばれるようになったもので、職業から付けられた屋号です。ちなみに港北区域にある屋号を持つ家は、『わたしたちの町日吉』『わたしたちのまち高田』『箕輪のあゆみ』『私たちの郷土(日吉南小学校)』『わたしたちの町新吉田』『新田のあゆみ』『新羽史』『大曽根の歴史』『太尾の歴史』『大綱今昔』『菊名新聞』『しのはら西』などの本に記されています。
ツトッコの仲買人というのは、ツトッコを集荷してビール工場へ納品するのが仕事でした。鶴見区の昼間松之助さんは、『郷土つるみ』第14号の「「方言」こぼれ話(その三)」で、最後の仲買人だった樽町の横溝泰二さん等から聞いた話を詳しく記しています。
『郷土つるみ』によると、ツトッコを作っていた地域は、都筑郡(つづきぐん)全域と橘樹郡(たちばなぐん)の旭村(あさひむら)、大綱村(おおつなむら)、城郷村(しろさとむら)など、つまり鶴見川中流域を中心とした一帯だったようです。西山さんや横溝さん、獅子ヶ谷や北寺尾にもいた仲買人たちは、元締めとしてこれらの地域を廻りツトッコを集めました。各村には、仲買人と生産農家とを仲介する家がありました。たとえば、『おやじとおれたちの都筑・新田・村小学校』(第82回参照)には、「「ツトッコ婆さん」とよばれていた、東の小林さんのお婆さんが買い集め(中略)、太尾の元締めの西山さんへ持って行った」と記しています。新羽(にっぱ)では小山七蔵さんが地域のツトッコを集めて、西山さんへ渡していたそうですし、篠原町(しのはらちょう)の臼井義常(うすいよしつね)さん宅のとなりにもツトッコ屋と呼ばれた家があったそうです。
さて、ビール瓶(びん)用のツトッコは、大麦ワラと白い木綿糸(凧糸(たこいと))で作ります。小麦ワラや稲ワラは別の用途がありました。巻き寿司などを作るときに使う「巻きす」の様な形に編み上げて、編み始めと編み終わりをつないで円筒形にします。その上部を縛り、円錐形にすると完成です。農家では、円筒にしたところで仲買人へ渡し、仲買人が完成品にして工場へ納入したようです。
ツトッコ作りは農家の内職・夜なべ仕事でしたが、子供たちも重要な生産者として、決められたノルマを作り終えなければ遊びに行くことも出来ませんでした。最近の子供は、塾や習い事に行くかゲームをするくらいで、家事の手伝いもろくにしないようですが、昔の子供たちは家業を支える労働力でした。ツトッコの代金は、子どもの小遣いにもなりましたが、『大綱今昔』(おおつなこんじゃく)によると、小遣いは、「店がなかったのでもらっても使うことがなかった」のだそうです。隔世の感があります。
ツトッコ作りは、太平洋戦争の直前まで行われていたようです。しかし、 昭和になってからは、ビール瓶を四角い木枠のケースに立てて入れることが普及し始めます。それに伴い、ツトッコ作りは衰退し、単にワラ束を瓶の隙間に詰めるだけになっていきます。そのワラ束が使われていたのも昭和30年代までで、やがて緩衝材(かんしょうざい)は輪ゴムから段ボールへと替わり、中に仕切り板が付いたプラスチックケース(P箱(ピーばこ)、昭和41年~)の登場により姿を消します。
最近、ビールは高級品扱いです。家庭では、財布を握った主婦に第二のビール(発泡酒)や第三のビール(その他の醸造酒やリキュール類)が人気です。お父さんはちょっと悲しいです。実は、昔のビールはもっと高級品で、ビールの大瓶(633ml)1本が日本酒の一升瓶(1800ml)に近い価格でした。これでは庶民には高嶺の花です。アルコール量に換算すれば日本酒より10倍も高価でした。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

 

付記 作り方はわりと簡単で、ミカン箱(段ボール箱ではなく昔は木の箱でした)の縁に両端に錘(おもり)を付けた凧糸をたらし、掛けるフックを4ヵ所作り、でワラを編みます。

 

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