『楽・遊・学』平成22年3月号原稿

シリーズ わがまち港北

第135回 12年に一度の霊場巡り  -その4-

 

以前に子年観音霊場(ねどしかんのんれいじょう)を紹介しましたが(第112回~第114回参照)、今年(寅年(とらどし))は薬師霊場(やくしれいじょう)のご開帳があります。薬師如来(やくしにょらい)は、人々から病の苦しみを取り除く、病気平癒(へいゆ)の仏(ほとけ)として古くから信仰されています。12年に一度、寅年に開帳されるようになった理由はよく分かりませんが、国宝弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)で有名な京都の広隆寺(こうりゅうじ)が薬師如来像を安置したのが長和(ちょうわ)3年(1014年)寅年の寅の日であったことから、「寅年薬師(どらどしやくし)」として開帳されるようになったといわれています。
港北区域には、「稲毛(いなげ)七薬師」「都筑橘樹(つづきたちばな)十二薬師」「武南(ぶなん)十二薬師」の3グルーブの霊場があり、いずれも寅年4月に開帳があります。それぞれ港北区内にある札所を紹介していきましょう。
稲毛七薬師霊場
今回の開帳は、4月4日(日)~11日(日)の9時~17時です。稲毛七薬師は、昭和25年(1950年)寅年にはすでに成立していましたが、戦前のことはよく分かりません。川崎市から港北区北部にかけては、昔は武蔵国稲毛荘(むさしのくにいなげのしょう)(第89回参照)と呼ばれていた地域でした。そこの7ヵ寺が集まったのは、東の方にあるという浄瑠璃世界(じょうるりせかい)にいる薬師如来をはじめとする七尊を七仏薬師(しちぶつやくし)と呼ぶことに由来すると思われます。
1番札所 塩谷寺(えんこくじ) (天台宗) 
御詠歌(ごえいか)  薬水(やくすい)の 塩谷光る(しおたにひかる) 高田村(たかたむら) 一時(いちじ)の病(やま)ひ いゆる御手洗し(みたらし)
高田西の薬王山光明院(やくおうさんこうみょういん)塩谷寺は、寺の縁起によると、文武天皇(もんむてんのう・文徳天皇(もんとくてんのう)?)の頃、皇后の病気平癒を祈願したところ、都筑の山中に病気を治す塩水がわき出ているとのお告げがあり、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)(794~864年)を派遣し塩水を求めたのだそうです。御詠歌の「薬水の塩谷」とは、このことです。慈覚大師はこの地を薬王山と名付け寺を建立したと伝えます。慶安(けいあん)2年(1649年)には江戸幕府から寺領(じりょう)5石4斗余(ごこくよんとあまり)を賜っています。薬師堂は本堂の西側奥の階段を上った丘の上にあります。薬師坐像は長さ1尺余(30センチ余り)です。
4番札所 西光院(さいこういん) (天台宗)
御詠歌  利益(りやく)にて 駒(こま)も林(はやし)に 居並(いなら)びて 四(し)きりに向(むか)う 西(にし)の光(ひかり)に
稲毛七薬師の御詠歌を7ヵ寺分並べて、各歌の1文字目を横に読むと「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」となります。さらに、歌の中に各札所の数字が詠み込まれています。「頻(しき)りに」を「四(し)きりに」と書いているのはそのためです。
日吉本町(古くは駒林村)の天文山薬王寺(てんもんざんやくおうじ)西光院は、『新編武蔵風土記稿』では、本尊の薬師坐像は高さ1尺余(30センチ余り)、村内にある金蔵寺(こんぞうじ)の末寺だが、火災により開山開基等は分からなくなっていると記されています。『港北の遺跡をたずねて』では、天文元年(てんぶんがんねん)(1532年)の開山といわれ、開山第1世は什尊法印(じゅうそんほういん)であると記しています。
6番札所 興禅寺(こうぜんじ) (天台宗) 
御詠歌  如意(にょい)として 高田(たかた)に聳(そび)ゆ 興禅寺(こうぜんじ) 六(む)つの時(とき)しる 鐘(かね)の音(おと)かな
高田町の円瀧山光明院(えんりゅうざんこうみょういん)興禅寺は、横浜七福神の福禄寿を祀(まつ)る寺として紹介しました(第47回参照)。寺伝によると、文徳天皇の仁寿(にんじゅ)3年(853年)に慈覚大師円仁が東国に下った時、この地に錫(しゃく)を留め、自ら十一面観音と勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)の像を刻んで安置したのが開山の始まりと伝えています。薬師如来を祀る薬王殿は、山門を入って左側にあります。


記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

 

 

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