三空忌 ー創立者大倉邦彦先生を偲んでー

『大倉山講演集』六、平成十年(一九九八)


根本 教久

目 次
    はじめに
    一、邦彦の思想
    二、邦彦の生涯
        (1)常思猛進
        (2)略歴
        (3)研究所の変遷
        (4)幼少期
        (5)大倉洋紙店
        (6)教育事業
        (7)研究所設立
        (8)研究活動
        (9)東洋大学学長
        (10)戦後の邦彦
    おわりに

はじめに

ただ今、ご紹介いただきました根本でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
今から三十年ほど前でございますが、昭和四十三年(一九六八)に川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した際に、「美しい日本の私」という題で記念講演をされております。その時の冒頭に、
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて冷しかりけり
という、道元禅師の和歌を引用したのは有名なお話でございます。
つまり、日本人は昔から自然を愛し、移り行く四季にとけ込んでいる、これが「日本の心」であるという説明に使われたものだろうと思うのであります。この道元禅師は鎌倉時代を代表する偉大な宗教家でありまして、なおかつ、日本人としては稀有な思想家でもあります。その道元禅師が七百年ほど前に、「ただ今の禅師のご心境はいかがですか」と問われて詠ったのがこの和歌でございます。完全に移り行く四季にとけ込んでいる、言い換えれば、無私無心の極に達しておられる禅師ご自身の心境を詠われたものであります。
大倉精神文化研究所の創立者大倉邦彦は、この道元禅師を最も尊崇されておりまして、邦彦の思想あるいは人生観・世界観に少なからぬ影響があったと思われるのです。邦彦につきましては、現在、調査・研究を継続中でございますので、本日は、邦彦の思想のほんのアウトラインについてお話をするに留まるのではないかと思います。

一、邦彦の思想

ただ今、受付でお配りいたしました『感想』(昭和四十二年、大倉山坐禅会)という本の中に、最もよく邦彦の思想が表れていると思います。邦彦は、大正十四年(一九二五)七月から約十年余りにわたりまして、実業界で活躍中に体験した折々の所感を『感想』という本にまとめ、教育・哲学・宗教・社会あるいは修養といった項目別に分類し、毎年一冊小冊子として発行しておりました。十年間に約三百万部を刊行しております。そして邦彦が八十四歳の時に、坐禅会のメンバーが、それらの本から内容を厳選して一冊の本にまとめようと計画し、出版されたものがこの本でございます。
邦彦の思想は、邦彦自身が「私の精神生活のレコード」と述べていますこの『感想』に最もよく表現されていると思います。この『感想』はやや断片的な論述になっていますので、全体がこうだということはなかなか言えないのですが、中核をなすものは「宇宙心」であります。宇宙心とは一体どういうことかといいますと、宇宙に存在する一切の事象は宇宙の理法に逆らうことなく千変万化しており、この現象、この力、この法則を宇宙心と呼ぶのだと邦彦は言っています。宇宙の法則には始めも終わりもなく、永遠の生命が働いていることになるわけです。人間はこの法則に逆らってはならず、これが「人道」であり「道徳」であると言っているのです。また、天体が自然の法則によって運行しているのも、植物が種子から成長して花を咲かせ、やがて実を結び、それが再び種子となり、これを繰り返すことも、永遠に無限の力によるものでありまして、宇宙法のなせる業であると邦彦は説明しています。自然界の生物がそうであれば、人間と世界の一切の現象、個人の働きもことごとく宇宙法の支配を受けているのであります。
人間というのは、天地宇宙の中に生まれ出て、万物によって生かされ、地球における自然とともに生きている。つまり、人間は宇宙の生命力によって生かされており、人間は人間の力のみで生きているのではない、ということを邦彦は言っているのであります。現在、環境問題につきましては、各方面において多大な関心をもって色々と努力していることは、ご承知の通りであります。砂漠化の問題、温暖化の問題、排気ガス・ダイオキシンの問題などなど、環境問題に対する関心は非常に強くなっております。邦彦は七十年以上前から、宇宙の法則に従って地球における自然環境とともに人間が生きているのだということを述べているのであります。地球は全てのつながりの中で生きているということであります。邦彦はこのように夏が過ぎると秋、そして冬が過ぎると春が来るといった具合に、ごく自然の流れに決して逆らうことなく、宇宙全体のことを考え、人間にとって自然環境の重要性を認識して、平素の生活を営むことが肝要だということを言っています。
そして、それらを会得するためには、まず日本精神文化を代表する神道・儒教・仏教の三教について十分な知識を身につけることが必要であるとし、この三教について特に力を入れて勉強したのであります。それに加えて体験的な修練、さらにまた信仰、という三つのからみを重視する必要性を説いているのであります。さて、今日は仏教を例にとりながら、邦彦の思想の一端に迫ってみたいと思います。
邦彦が仏教にも深い関心をもったことは言うまでもありません。会社へ出勤する前の早朝の時間を利用して、仏教全般についてさまざまな知識を身につけたのであります。そして邦彦は、仏教を学ぶことにより、世界と人生に関する深い哲理、つまり、人生や世界の本質にかかわる深い道理を学びとったのであります。しかも、ただ観念の世界にのみ終始して実際の生活に役に立っていないのでは意味がない、ということで、禅の修行へと移っていったのであります。例えば、東京都東久留米市にあります浄牧院、千葉県安房郡鋸南町の日本寺、静岡県沼津市の東方寺、福井県小浜市の発心寺、こういう禅寺を訪ねまして、雲水と同じように朝早く起きて色々な修行を積み重ねていったのであります。
邦彦は、人には誰でも仏性が備わっているが、この尊い貴重な宝物を持っていることを忘れて、物や金銭を自分のものにしたいという欲望、つまり物や財産への執着心・利欲、また世間での評判や名声にこだわる名聞欲、そして戦ったり競い合ったりした結果相手より優位な立場を占めたいとする勝欲などにとらわれると、その結果は一体どういうことになるかというと、悪に走り、ある者は病気になり、ある者は生命まで犠牲にしてしまうことになるのだ、と言います。利欲と名聞欲と勝欲、この三欲の綱を切って、「空」、言い換えれば何にもとらわれない境地、すなわち「ありのままに生きる」ことの大切さを深く理解して、自分のものとすることが大切であると言っているのであります。
また、学識があり造詣が深くても、それを実践化しなければ意味がない、つまり、知識や認識は必ず実行を予想しているものであり、知って行わないのは本当に知っているものではないとし、知と行とは表裏一体であるとしているのであります。人間は修行・修養の方法によって絶えず自己を掘り下げていく努力を積み重ね、自己の力によって精神力を作り直すことが極めて大切なことであると言っております。つまり、人間は感情の動物でありますので、先程申しました欲が時々出てくるかもしれないのですが、そういう時には修行・修養を積み重ね、自己の精神力を作り直すことをしてほしい、またそれは、十分それぞれの人間に可能なのだと言っているのであります。そして、つねに良心を清浄にすることを怠ってはならないとし、日常の生活の中でも言いたいことを言うだけでは駄目で、ともかく行動に移すこと、実践することを重視することだと言っているのです。
以上、簡単に邦彦の基本的な考え方の一部を述べたに過ぎないのですが、これから、スライドをお見せいたしますので、その折々に邦彦の思想や人生観などをお感じとっていただけるならば、大変幸いでございます。

二、邦彦の生涯

(一)常思猛進

このスライドのタイトルを「常思猛進」といたしました。これは、邦彦が大変好きな言葉の一つであります。常思猛進、つまり、「つねに思っていることは、わき目もふらず実行することである」、と訳すのではないかと思います。これは邦彦が作りました、いわば誓いのことばのタイトルであります。あとで説明しますけれども、農村工芸学院の生徒は、坐禅が終わると六項目からなる常思猛進を全員で朗読いたしました。それをご紹介しますと、
常思猛進
一、死際の一日も、今日の一日も変りはない。短い生命を意義深く、力強く、愉快に生きる為めには、明日の日を待たず、今日より取りかゝります。
二、現実刻々の生活の場所が、その儘信仰の場所であつてこそ、信仰は力となり喜悦となり、命となる事を信じます。
三、日々三省して心鏡を磨き、宇宙正法の如実に顕現せん事を祈り、正しき人生観を確立して真と善とを踏占めつゝ、信ずる所に邁進致します。
四、我民族は天孫を中心として、史的発展をなし、国家生活に於て、天才的国民たりしを自覚自重し、赤誠報国の大衆国民たらん事を心掛けます。
五、礼節を知るものは衣食足るに至る事を信じます。
六、事物の整頓、時間の正確は、心の修養と大なる関係を持つ事を知つて居ります。
(農村工芸学院「学院趣意並一覧」より)

(二)略歴

写真1(省略)が大倉邦彦でございます。
邦彦の生まれ故郷は、佐賀県神崎町姉川であります。明治十五年(一八八二)四月九日、江原家の次男として誕生しました。江原家は、代々佐賀藩主鍋島公に仕え、いわゆる葉隠武士の血を引く士族の家柄であります。父の貞晴は江原家の八代目で、長崎県会議員や、邦彦が子供の頃は西郷村の村長を長年務めました。邦彦は明治三十五年(一九〇二)三月に佐賀中学校を卒業しまして、翌年上海の東亜同文書院に入学いたしました。この学校は、将来、日本・中国両国の親善・友好・発展に寄与する人材養成を目的として作られたものであります。明治三十九年(一九〇六)に卒業後、現地の大倉洋紙店に入社しました。その後、社長の大倉文二に見込まれて養子となり、文二の亡くなった後に社長に就任したのであります。邦彦は実業活動のかたわら、教育の重要性を説き、私財を投入して、幼稚園、農村女子の教育施設、留学生等に対する学寮など、場づくり・人づくりに努力したのであります。
そして、この考え方をより深めるために、精神文化の研究と実践活動のため、大倉精神文化研究所を設立したのであります。邦彦は私財をなげうって信念を貫き通し、研究所の維持・発展に尽力したのでありますが、昭和四十六年(一九七一)七月二十五日、八十九歳の生涯を閉じました。号を三空と称したのであります。
なお、研究所の最寄り駅は東急東横線の大倉山駅ですが、この駅は、もと太尾駅といっておりました。ところが、邦彦が地域に対して非常な貢献をしたということから、昭和七年三月三十一日に駅名を変更して現在の大倉山駅となったのであります。

(三)研究所の変遷

写真2(省略)が大倉精神文化研究所の建物であります。大倉精神文化研究所は、大倉邦彦が実業活動のかたわら、物事の本質をなす最も重要な部分である、「日本精神文化を研究し、日本文化の精髄を発揮し、進んで世界文化に貢献する」ことを目的として、昭和七年(一九三二)四月九日に開所いたしました。邦彦の五十歳の誕生日のことです。その日に電話を引きましたので、電話番号は五十番であります。その後、昭和十一年(一九三六)に文部省の認可によりまして財団法人となりました。戦後、大倉山文化科学研究所と一時改称したり、国会図書館と十年ほど契約いたしまして支部図書館として運営をしたりと、色々と変遷をしてきました。昭和五十六年(一九八一)三月に、財政上の理由から横浜市に敷地を売却し、建物を市へ寄贈いたしました。その後、横浜市の手によりまして改修工事が行われ、昭和五十九年十月、横浜市大倉山記念館としてオープンをしたのであります。そして、平成三年(一九九一)十一月には横浜市教育委員会より文化財の指定を受けております。研究所は建物の右半分で、横浜市から永久に借用しております。研究所の運営にあたりましては、土地売却による収入 を基本財産とし、その果実によって運営をしているところでございます。

(四)幼少期

さて、邦彦の生涯をこれから映像を通して振り返ってみたいと思います。
佐賀県神埼町の国道三十四号線から少し入った生家の入口に、神埼町教育委員会によって建てられました「大倉邦彦先生の生誕地」という標柱が立っております。写真3(省略)は大倉邦彦の生家でございまして、明治十二年(一八七九)に父の江原貞晴が建てたもので、その後、一部が改築されてはいるものの、現在も第十代当主江原英興氏・第十一代当主江原邦興氏の御家族が住んでおります。私もここへ三回ほど行って調査をしてきたところでございます。
幼少の頃のエピソードの一つといたしまして、邦彦がよく話していたことを一つご紹介いたします。小学校の頃、ある日、邦彦が友達と一緒に学校の帰りに、蓮田に石を投げて遊んでいました。そうしたら、運悪く番人に捕まってしまいました。皆は蜘蛛の子を散らしたように逃げていってしまったのですが、なぜか邦彦だけが捕まってしまい、散々お説教を受けたということだそうです。その時に邦彦はどう思ったか、ということをよく話したわけです。「みんながやっていたのに自分だけが捕まってしまった。これからは悪いことは人がやっていてもやらないようにしよう」と思ったそうです。これに関連して、最近のある信頼できる調査の中で、「どんなに悪いことをしても見つからなければいい」というのが、青少年の中に三十五パーセントあったというデータがありました。規範意識の欠如といいますか、大変恐るべきことではないかと思います。
学校から邦彦が帰ってまいりますと、板の間に座りまして、厳格な父のもとで四書五経、つまり儒教の本の素読をやらされ、まず漢字の勉強をしたようであります。その次は、習字の稽古であります。邦彦が生涯、書を非常に愛好したのは幼時の影響が大きかったと思われます。
また、小学校を卒業し、佐賀中学校へ進学したのですが、この学校は質実剛健、文武両道を兼備することを旨とした学校で、成長期・思春期にあります邦彦にとりまして、非常に大きな影響があったのではないかと思います。

(五)大倉洋紙店

邦彦は佐賀中学から東亜同文書院へ進学し、卒業後、大倉洋紙商行天津出張所に就職しました。この会社は、日本橋に本社があり、洋紙を主として、雑貨・海産物等を輸出入する会社で、社長は大倉文二でありました。邦彦は誠実に中国・日本両国のことを考えて働き、その才能・実力が認められ、二年後に出張所の所長に昇進しております。その後、本社に戻り、大倉文二の養子となり姓を江原から大倉へと改め、社長の長女と結婚しました。 その後、父大倉文二の死去にともない、社長に就任いたしました。
邦彦は社長になりまして、『商売往来』や『小店員の心得』という冊子を刊行しました(写真4)(省略)。昭和三年に書いた、洋紙店員に対するバイブルのようなものであります『商売往来』の一部を紹介します(原文は漢字方カナ文)。
利益問題を中心としたる交際は永続せざる様に、商売も金儲けの為とのみ考うれば繁栄せず。天の命人の道と考え、真の親切心より出たる営業は、自他共に喜びに満ち、店内を浄化し、得意先は親友の間柄となる。されば人格と労力に対する正当の報酬として利益を生ず。
というような言葉が『商売往来』の中に書いてありました。
それから、『小店員の心得』とは、その題が示す通り、少年の店員を対象としたものでありまして、少年たちにわかりやすい言葉で、来客に対する心得や仕事の注意、日常生活の言葉遣い、挨拶、礼儀作法などまで事細かに書かれています。この中で特に注目したいと思うのは、仕事が終わった後は夜学へ通って勉学することを奨励し、学問の大切さを説いているということです。

(六)教育事業

邦彦が健全な思想教育・実践活動を行うために設けた諸施設や経済的支援はかなりあり
ます。
たとえば、幼稚園時代の教育は、人間成長の基礎を形成する重要な時期であるとして、邦彦は大正十三年(一九二四)の暮に富士見幼稚園を開設しました。大変モダンな園舎であります。邦彦園長は、自身も幼児の中に飛び込んでいって、話をしたり、歌を歌ったり、運動会には一緒に走り遊戯もしたようです。かなりの記録が残っています。写真5(省略)は第六回の卒園式の写真です。邦彦は月に一回ずつ保護者会を設け、その都度講演を行いました。次第に近所の人や遠くの人も参加するようになり、保護者会から母親学級、母親成人学校へと成長したわけです。
あるいは、明世寮といいまして、昭和三年(一九二八)の秋に、朝鮮半島からの留学生のために創設した寮であります。異国で勉学に励む留学生のために、家庭的な雰囲気の中で学習の効果を上げるようにとの配慮から作られたものであります。家賃は免除し、寮母を置いて生活の面倒までみてあげました。さらに、卒業したら就職の斡旋までしたということであります。写真6(省略)は明世寮の中庭でございます。
また、大正十五年(一九二六)より二年かけてヨーロッパ諸国へ行きました。大学へ行ったり、市民生活の実際の様子を見たり、家庭の中へ入って調査をしました。そして、たくさん洋書を購入し、これが現在の研究所の図書の基をなしております。当時で約三万円ほど買ってまいりました。
昭和二年(一九二七)十二月、邦彦がヨーロッパ視察旅行から帰ってきて最初に着手した事業は、佐賀県の生家の隣に農村工芸学院(昭和八年に国民家政学園と改称))を開設したことです。学校は昭和十三年(一九三八)まで開校していましたが、現在、跡地は空き地になっています。農村の振興を図るために、農村の女子に技芸を修得させ、万一の場合があっても経済的に困ることのないように、職業訓練を受けさせる教育機関を設けることを考え、この学院を作ったのです。この学院はデンマークの高等国民学校とか、イギリスのカレッジなどを参考にし、さらに、わが国の寺子屋の長所も取り入れた学院です。写真7(省略)は、第二回卒業生の記念写真です。院主の邦彦は後列二人目、三人目は邦彦のお兄さん貞一(西郷村長兼院長)です。当時としては、大変画期的で、生徒はスカートをはいています。
その他にも、邦彦は郷土発展のために、非常に多くの活躍をしました。たとえば、自分の出身の西郷小学校には近代的な講堂と敷地を寄贈いたしました(大正十四年)。当時、他の学校には独立した講堂はなく、子供たちの自慢の一つで、全村をあげて講堂の落成を祝ったということです。この小学校にも、私、実際に行ってまいりました。校庭の隅には邦彦の顕彰碑が立っておりました。また、神社社殿の建設や道場など、次々に寄附し、郷土発展に尽くしました。このような教育事業に関する数々の功績から、昭和二年(一九二七)には紺綬褒章を受賞しています。
写真8(省略)は春日山道場です。佐賀県下の精神作興の根本道場として昭和十一年(一九三六)に寄附したのであります。現在、大和町の跡地は佐賀県青年の家になっています。道場の建物は素晴らしい建築であることから、昭和四十一年(一九六六)に小城町へ移築して、社会教育会館として活用していましたが、平成七年(一九九五)五月十六日に焼失してしまいました。大変残念なことです。
写真9(省略)は、邦彦の自宅でタゴール(一八六一~一九四一)と一緒に撮ったものです。タゴールはインドの詩人で、思想家であり、教育者でもあります。大正二年(一九一三)にノーベル文学賞を受賞し、一躍有名になった人であります。昭和四年(一九二九)六月に、タゴールが六十三歳の時、三たび日本を訪れました。その時、邦彦の自邸を宿舎にして、約一ヶ月間タゴールと共に生活をしたのです。その間、タゴールの求道者としての態度に邦彦は大きな影響を受けました。タゴールとの関係は戦後も続きます。
昭和三十三年(一九五八)に、ネールインド首相の呼びかけを受けて「タゴール生誕百年記念会」が組織されました。この会は、昭和三十六年のタゴール生誕百年を記念して、詩聖の偉大なる精神を現代に顕彰するために結成されたものであります。
邦彦は、タゴールと深い関係にあったことから記念会の理事長に推され、月刊誌『さちや』の刊行・研究会・講演会等の開催など記念会の目的遂行のためいろいろな事業を実施したのであります。

(七)研究所設立

さて、大正十三年(一九二四)、邦彦が四十二歳の時、精神文化研究所設立の構想を練り始めたのであります。創立の趣旨・精神を表している絵が、「日本精神文化曼陀羅」と名付けられた日本画(写真10)(省略)です。これも邦彦の創案によるもので、大小の円座を日輪・月輪にかたどって、わが国の伝統的な固有文化の基礎を示すものです。中心に大きく聖徳太子、そのまわりに神道・儒教・仏教それぞれの道の奥義を極めた先哲、つまり、昔のすぐれた求道家を配置し、精神文化の繁栄を表しているのであります。また四隅には、仏教の守護神である四天王をおいて、わが国のみならず、世界に守護あらんことを念願している様を描いています。この絵は、縦・横とも二メートル四十二センチの大きな正方形で、現在は研究所の図書閲覧室に掲出しています。作者は井村方外といい、高幡不動のすぐそばに、お子さんやお孫さんが住んでいます。先日、そのお子さん、といいましても八十歳を過ぎていますが、その方に会って絵を描かれた当時の様子を聞いてきたところでございます。
次は、研究所の態度・使命ですが、図1(省略)は邦彦が書いたものであります(「感想」〔『大倉山論集』第八輯〕)であります。学問の学究的な一面とともに、その学問が現実社会の宗教・教育・政治・経済の実地にふれて、より良き社会をつくるために役立たせる一面を兼ね備えることが大切であるということを表しております。つまり、学問の研究が現実社会から遊離してはならないというのです。医学を例にとれば、当研究所は患者に接して診察・治療を行うことを使命としており、勿論、その目的のためには基礎医学に当たる純学究的研究の必要性は言うまでもありません。ともかく、基礎医学の研究に耽っている間に重症の病人が死んでしまっては何もならない。これが邦彦が考えている研究所の使命であります。現在もこの考え方を踏襲して、研究活動を進めているところでございます。
さて、写真11(省略)は昭和四年(一九二九)の建設予定地であります。海抜百五十尺といいますから、約四十五・五メートルです。ここは草が繁り、小径を分けて登るより方法がないような自然のままの景観でありました。ここには森があり、鳥がなき、近くには鶴見川の清流があり、四季折々の自然の変化があったのです。
研究所建設の敷地が決定されてまもなく、建物の設計を早稲田大学教授の長野宇平治工学博士に依頼しました。昭和四年夏に完成した設計図は、坪数約八百坪のプレヘレニック様式の本館と約百五十坪の別館とからなる壮大なものでありました。写真12(省略)は建設中の研究所であり、邦彦は左から四人目です。建築工事は竹中工務店が請け負い、昭和四年十月三十日に地鎮祭を斎行し、工期二ケ年間の予定で着工したのであります。敷地は約七千五百坪(後に一万坪)で、工費は諸設備をいれて約七十万円でした。さてみなさん、当時の七十万円というのは現在どのくらいだとお考えでしょうか。昭和四年当時、上級職の公務員の初任給は七十五円でした。ところが、平成八年の同じ公務員の初任給は十八万千四百円です。現在の金額での比較は難しいのですが、十七億円位だろうと思います。当時、経済界は大不況の時代で、これほどの私財を投じたことは、邦彦の単なる思いつきやお金が余ったから何か事業でも始めるかというような動機ではなかったと考えられます。 さて、研究所内部の一部をご紹介します。まず、建物に入ったところが心の間で、上を見上げると(写真13)(省略)、晴れた日 でも曇った日でも常に朝日のごとき色彩を感じられるようにステンドグラスで工夫されています。このステンドグラスの周囲には、それぞれ四頭の獅子と鷲の彫刻が並んでいます。全部で十六頭。それらの眼はみんな別々の方向を見下ろしております。これを下から仰ぎ見る人の位置によって、どこから見ても必ずどれかが自分を見つめているようにとの考えです。これは神や仏が何時でも何処でも自分を見守っているという意味なのであります。この猛獣や猛禽たちは神仏の象徴であり、人間の象徴である、善いことも悪いことも、人間の行いは必ず何処かで誰かが見ている、ということを示しているのであります。今度大倉山記念館にいらした時にご覧になっていただきたいと思います。
研究所がスタートしてまもなく、昭和七年秋、各省の官吏や大学・高校の指導者などを対象とする第一回日本精神講習会や移動講習会が実施され、大勢の人が集まりました。
写真14(省略)は崖崩れ防止の作業風景ですが、勤労奉仕を通して修養を行いました。邦彦は勤労・勤勉・倹約の柱が人の生活態度でなければならないとしていました。従って、講習が終わると、このように邦彦自らが鍬や鎌を持って、先頭になって勤労に励んだのであります。
写真15(省略)は、大倉山駅から研究所に向かう登り坂です。今はきれいに舗装されていますが、当時はこのような状況でした。草が生え、砂利が転がっており、それらの作業をし、労働を通して実践活動をしていったわけです。
写真16(省略)は坐禅の様子です。禅は理屈も文句も言わない、言う必要はない、ただ黙って坐っていればよい、禅は行であり実践であり、それだけ生活的で体験によって悟りが開ける、精神を統一し、無念無想の境地に入って悟りを求めることだと邦彦は説いているのであります。

(八)研究活動

それから、研究的な面について少し申し上げておきます。研究部門は宗教・哲学・倫理・教育・歴史の各部門に分かれ、それぞれ優秀な専門研究員を擁しまして、日本精神史の総合研究を行っていました。この間の業績の代表的なものとして一、二申し上げますと、まず『神典』(写真17)(省略)でありますが、これは、「本研究所は日本精神の本質を普及せしめる目的を以て、先づ日本の上代文化の最も本質的であって最も権威ある古典を書下しにして之を刊行しよう」(『私の使命事業』昭和八年)との邦彦の考え方で編纂されたものであります。この『神典』は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の古典十部が収録されています。全文にかなが振ってあります。邦彦の考えは、国民みんながこの本を読んでほしいということで、誰でもわかるようにしようということで刊行したのです。昭和八年一月に編纂事業開始、同年十一月には原稿完成、十一年(一九三六)二月に初版を刊行しました。その後版を重ねて、平成八年には十六版を刊行しました。薄い紙を使用しており、『バイブル』に似ています。
もう一つが「日本古文書古記録副本作製」であります。これは、東京帝国大学史料編纂所が借り入れしていた古文書・古記録・図書中、極めて貴重で本研究所の研究に必要と認められるものの副本作製を行うことでありました。昭和四年より同十三年までの十年間に、二七八部八一五冊を書写いたしました。原本は、その後、戦災等で焼失したものもあり、本研究所の副本のみしか現存しない貴重な副本もあります。

(九)東洋大学学長

さて、昭和十二年(一九三七)七月に東洋大学の懇請により、学長の任を引き受けました(写真18)(省略)。昭和十八年(一九四三)まで二期六年間つとめました。当時の東洋大学は、大変な経営難に陥っており、邦彦は借入金の金利引下げや学生数の増加などにより、その建て直しを行いました。そして、学長としての給料を受け取らないだけでなく、逆に多額の寄附をしております。また、自らが講師となり、福利教養講座の「精神訓練」、満州講座の「修養実践」、武道体操講座の「武道精神講話」、書道講座の「修養訓話」などの講義を行いました。
邦彦は、ここでも実践の大切さを身をもって示しました。たとえば夏休みのある日、作業着を着て現れ、学生の机を洗い、大講堂のガラスの大掃除をしました。学長自らが先頭になって雑巾がけをしたのです。邦彦は、みんな学園発展のためだからという考えで、夏休みに学校は見違えるほどきれいになったということでございます。

(十)戦後の邦彦

邦彦は戦前・戦後を問わず、全国を駆け回り、精神文化についての講演を精力的に行いました。写真19(省略)は戦後のもので七十四歳頃の写真かと思います。
昭和二十年(一九四五)十二月十一日、邦彦は突然、GHQ(連合国軍総司令部)によって巣鴨プリズンに拘留されることになりました。主要戦争犯罪人、つまりA級戦犯容疑者として、東条英機・岸信介ら六十余名とともに逮捕されたのであります。邦彦は、これまで自らの思想や信念に従って文化活動を実践し、精神文化の発揚につとめてきたわけですけれども、推されて大政翼賛会をはじめ、産業報国会・大日本興亜同盟など、十数団体の要職に就いていました。
明日は巣鴨に出頭するという朝、邦彦はこのようなことを言っております。「その時代時代に果たすべき役割、果たす義務がある。だからして、当然なすべきことをなしていたに過ぎない。そういうことが悪いというのであれば、喜んで罪に服そう」(『大倉邦彦伝』)と。約二年にわたる歳月を拘置所で過ごし、その間、厳しい取り調べもあったのであります。記録調査資料も十分検討され、その結果、なんら戦争犯罪にあたる罪はないということが明らかになり、昭和二十二年(一九四七)八月三十日、容疑がはれて釈放されております。
この間、巣鴨からみゑ子夫人に宛てた書簡は、全部で八十九信に及びました。
それでは次に、邦彦の日常生活等の様子について若干ふれてみたいと思います。性格は大変几帳面であり、またせっかちな性分でありました。食事は日本そばが大好きで、しかも食べるのがとにかく早い。食後は休憩もせず、すぐに次のことにとりかかるというせっかちな面もありました。
健康法というようなものは特になかったようですが、定期的に鍼と指圧を続けていました。また、漢方医の処方により、胃腸薬を欠かさず飲み、保養先も胃腸病に効き目のある温泉と決めてよく行っています。胃腸が悪いのは、早くものを食べ過ぎたからでしょうか。病気に対しては神経質で、極く軽い風邪でも、やれ氷枕だ、すぐ医者だと、大騒ぎをしたようです。体格は小柄でありましたが、柔道をやっていましたので運動神経は抜群でした。何でも器用にこなし、年老いてからも階段はピョンピョンと跳ねて昇り降りし、若い人を驚かせ、「先生は本当にお若いですね」と言われるのを何より喜んでいましたが、人のいないところでは、ポケットの中にしのばせたクルミを転がせて指の運動をやっていたということであります。
趣味でありますが、書と墨絵は日本美術院展覧会(院展)に出品するほどの腕前でした。いずれも独習です。陶器についても、家に窯をつくり焼いていたようです。
邦彦は晩年になりましても、修養を積み重ねていました。写真20(省略)は坐禅中の邦彦で、八十八歳の時であります。
今までの功労に対しまして、生存者叙勲の栄に浴し、昭和四十六年(一九七一)四月二十九日、教育功労者として勲三等旭日中綬章を賜っております。邦彦はこの頃、病床にありまして当日は出席できず、夫人が代わって参内し、病床で素直に受賞を喜んでいたということであります。
昭和四十六年(一九七一)七月二十五日、老衰のため死去いたしました。享年八十九歳であります。八月二日、青山葬儀所において本葬儀・告別式を斎行しました。九月十八日には、八王子市にあります富士見台霊園に納骨、埋葬いたしました。
邦彦が笑っている写真21(省略)は、見つけるのが大変でした。この笑い顔でスライドは終わりにいたします。
以上、時間の関係で急いで説明をさせていただきましたので、お分かりにくかったところもあるかと思いますが、いずれにしましても、この偉大な求道家であり、教育家であった邦彦の、大倉精神文化研究所を創建された理想を所員一同、子々孫々に至るまで継承していきたいと考えています。ご理解とご協力を切望する次第であります。
以上でスライドによる説明は終わらせていただきますが、簡単にまとめをさせていただきたいと思います。
(なお、講演会の当日は六十八枚のスライドを上映し、説明しながら邦彦の生涯をみてきましたが、紙面の都合でその一部を割愛させていただきました。)

おわりに

現在の社会状況をみると、科学文明や物質文明の急激な進歩のために、人類始まって以来の便益がその生活向上にもたらされています。しかし一方、道義を忘れ、物欲のみに走り、物質面の豊かさとは裏腹に、精神面の空しい憂うべき事態を招いています。そして、精神の堕落頽廃、凶悪犯罪、少年非行の多発化など大きな社会問題が生起しているのであります。このような世情を見ますと、今更ながら、日本人の精神生活の脆さや弱さを痛感するのでありますけれども、これは一つには生活の利便性に溺れ、心の貧しさや生活の乱れなどが顕著に表れたものといえないでしょうか。私達は何とか豊かな心を取り戻し、潤いのある生活を志向する大切さを、一人一人が今すぐに真剣に考えなければならないのではないでしょうか。それには、一つには感謝と報恩の気持ちを持つことではないでしょうか。私たちは、ともすれば自分一人で育ち大きくなったように思いがちであります。私達が今日あるのは、両親の絶対的な愛情のおかげではないでしょうか。また、毎日毎日の生活が営まれるのは、私達を取り囲む社会全般のおかげであります。
女優の三田佳子さんは、このようなことを言っています。あるインタビュー(『ベストフレンド』創刊号)の中で、「感謝の気持ちと感動を大切に、これからの人生を歩んでいきたい」と。三田佳子さんの第一の人生は、生まれてから芸能界に入るまで、第二の人生は、女優としての道を歩みながら結婚して子供を育てたということです。これからの人生は第三の人生で、大変な病気をして生まれ変わって歩き始めた今を指しているのであります。三田さんは、「身の回りのすべてのものが私にとってベストフレンドです。空気・草花・動物たち何もかもが生命力に満ちていて、私に力を与えてくれます。たとえば花に毎日きれいね、ありがとうって話しかけて、一生懸命に世話をすると、長生きしてくれるんです。天気のいい日は、輝く太陽とそれを反射する青葉に感謝します。雨の日は、空から落ちてくる恵みの雨に感謝します。お友だちと話をしている瞬間、家族と食事をしている瞬間、全ての人・ものがベストフレンドなのです」と。三田佳子さんのこの言葉は、大変印象的であり、示唆に富んだ言葉ではないでしょうか。
現在、この感謝と報恩の気持ちが非常に少なくなっており、親が悪い、教育が悪い、社会が悪い、家庭が悪い等々と、責任を他へ転嫁することをよく耳にいたします。しかし、責任は私たちそのものにあるのではないでしょうか。邦彦は、この感謝と報恩の気持ちを守り抜いた多くの先達のお陰で「誇りある日本」が存在していることを決して忘れてはならないと述懐しています。
感謝と報恩、「お陰様で」という気持ちを身につけ、自分自身のこころを磨くことが大切なことではないでしょうか。そして、それこそ邦彦の理念へつながる「道のこころ」ではないかと思うのであります。
どうか、冒頭お話をした「ありのままに生きる」と「お陰様で」という言葉を是非念頭におきまして、今日参加していただいた方を中心として、このことを広くいろいろな人に聞かせ、そして是非とも実行していただきたいと思うのであります。
最後に、短い詩をご紹介して終わりとしたいと思います。

                道

        長い人生にはなあ
        どんなに避けようとしても
        どうしても通らなければ
        ならぬ道ー
        てものがあるんだな
        そんなときは その道を
        黙って歩くことだな
        愚痴や弱音を吐かないでな
        黙って歩くんだよ
        ただ黙ってー
        涙なんか見せちゃダメだぜ!!
        そしてなあ その時なんだよ
        人間としてのいのちの根が
        ふかくなるのは……      (『一生感動 一生青春』文化出版局より)

これは相田みつをの詩であります。
大勢のご参加をいただいたこと、そしてご清聴を感謝しつつ、私の話を終わらせていただきます。どうも失礼いたしました。