横浜市大倉山記念館見学用資料(未定稿)

平成14年3月1日改訂

大倉精神文化研究所

平井 誠二

 

・大倉精神文化研究所ではない

・大倉邦彦は大倉喜八郎や大倉財閥とは関係ない

 

追加

・戦中記事

・武者小路実篤

昭和6年5月15日に来館。

・岩波茂雄

昭和5年1月24日、岩波書店より発行図書524部の寄贈を受ける。

昭和6年12月5日、来館。

・松下幸之助

・下中弥三郎

・船舶振興会

・皇學館大學

・タゴール

日誌によると、昭和6年4月15日、タゴールの秘書より、生誕70年記念として、日本の代表的哲学者、詩人、小説家の作品を寄贈してもらいたく、推薦を依頼される。哲学者は井上哲次郎、詩人は野口米次郎、小説家は武者小路実篤を推薦し承諾を得る。

・研究所石膏模型は昭和四年4年12月14日完成。経費400円でした。工事中の変更があるため、完成後の建物とは若干異なっています。

・礎碑と正面玄関の彫刻は、東京美術学校教授で彫刻家の水谷銕也氏が制作したものらしい。

・食器皿は、日本陶器から納入されました。皿120個、コーヒー碗119個。この日本陶器は大倉孫兵衛と和親が創設した会社です。

・石材は、石川県小松付近に産する軟石(千歳石)を使用したものらしい。

・建築当初の外装は、当初タイル張りの予定であったが、予算の関係で、コンクリート打放しに白セメントの吹き付け仕上げとなった。

 

大倉山駅

開業 大倉山駅は、かつては地名の太尾を取って太尾駅と呼ばれていました。

大正15年(1926))2月14日、東京横浜電鉄(現、東急)の神奈川線(丸子多摩川~神奈川)が開通し、太尾駅もその時開業しました。地元の古老黒川太郎氏(86歳)の話によると、大曽根と太尾で駅の誘致合戦をして太尾に決まったそうです。当初はホームだけの無人駅で、駅舎はありませんでした。改札口は大倉山に登る坂道の途中、線路の脇ににありました。

第1号定期券 黒川太郎さんは、当時、三ツ沢の県立横浜第二中学校(現、横浜翠嵐高等学校)在学中で、自宅から自転車又は徒歩で通っていました。徒歩だと1時間半もかかっていたのが、開業後は反町駅まで電車通学となり、大変楽になったそうです。この黒川さんが太尾駅乗車の定期券第1号使用者になりました。当時の太尾村は純農村地帯、人口は700人程で、駅の利用者はほとんどおらず、1両だけの車内には朝の通学時間帯でも乗客は10名程度でした。

駅名の変更 その後、昭和2年に渋谷線(渋谷~丸子多摩川)が開業し、昭和4年からは、太尾町の山の上に大倉精神文化研究所の建設が始まり、利用者もしだいに増加しました。この山にはそれまで名前がありませんでしたが、研究所建設に伴い、通称で大倉山と呼ばれるようになり、昭和7年(1932)3月31日、渋谷~桜木町間の東横線全線開通に合わせて、駅名が太尾駅から、現在の大倉山駅へと改称されました。

やがて、小さな駅舎が作られ、駅員が1名勤めるようになりました。小森嘉一氏(元研究所員、91歳)の話によると、夕方、渋谷から東横線に乗り多摩川を越えると降りる人ばかりで、綱島あたりまでくると車内には数人の乗客しか乗っていなかったそうです。数年後には現在のようにホームの下、駅前通りに面して改札口が作られました。

東横線は、近年まで鶴見川の氾濫により止まることがよくありましたが、特に昭和13年の大洪水では、大倉山の駅前で大人の胸あたりまで水没したそうです。この時、記念館の塔屋の上から四方を撮影した写真が沿革資料に残されています。ちなみに、この時、付近一帯の家屋は床上あるいは天井まで水浸しとなり、町内23家族90余名が大倉精神文化研究所神風館(武道場)に、6月30日から7月10日までの11日間避難しました。

現在 現在の駅舎は、昭和59年に造られたものですが、高架下を消防車が通りにくいので、この時に線路を少し上にあげました。現在の乗降客は、1日平均50,682名(平成10年度)になっています。

太尾町

古くは「橘樹郡(たちばなぐん)太尾村」といい、村内を三分して東から上太尾(駅前辺り)、中太尾、下太尾(鶴見川沿い)といいました。明治22年の市町村制施行の際に「大綱村大字太尾となり、昭和2年に横浜市に編入され「神奈川区太尾町」、昭和14年に「港北区太尾町」となりました。

平成17年に「大倉山二丁目」となりました。

 

地名の由来 「太尾」の地名の由来は、かつて海岸線がこの辺りまで来ていて、大倉山が岬のように海へ突き出しており、その形が動物の太い尾のように見えたことから付けられたといわれています。

エルム通り

太尾通をはさんで、駅前から西北にのびる商店街をエルム通りといいます。アテネ市のエルム通りと姉妹提携を結んでいます。「エルム」とはギリシャ語で商業の神のことです。昭和63年に、大倉山記念館にちなんでギリシャ風の町並みに統一しました。「まちなみ景観賞」を受賞しています。

ちなみに、東口商店街はレモンロードといいます。

エルム通りから大倉山に登る坂道の登り口(ケンタッキーフライドチキンの前)に案内の彫刻が設置されています。これは、有名なニケの像の翼と神殿の柱を象(かたど)ったものです。

創設者 大倉(おおくら) 邦彦(くにひこ)  明治15年(1882)~昭和46年(1971)

大倉邦彦は、佐賀県神埼郡の素封家江原(えはら)家に生まれ、上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社しました。社長の大倉文二に見込まれて養子となり、文二の死後に社長に就任しました。邦彦は、社長として事業を大きく発展させましたが、真の経済活動とは単なる利益追求ではなく、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると考えていました。そして、教育の重要性を説き、私財を投入して、富士見幼稚園や農村工芸学院などを開設しました。この考え方をより深め、さらに広く普及するために大倉精神文化研究所を設立しました。また、昭和12年から18年まで東洋大学の学長も務めました。

研究所は、戦中戦後の混乱期に何度も存亡の危機を迎えましたが、邦彦は全私財をなげうって信念を貫き通し、研究所の維持発展に尽力し、昭和46年7月25日(三空忌)に89歳の生涯を閉じました。号を三空(さんくう)居士(こじ)と称しました。

大倉邦彦、大倉山を購入する

大倉山駅の駅名の由来にもなった大倉山は、かつては太尾村(ふとおむら)の名もない丘でした。昭和3年(1928)6月のある日、その丘の上に二人の男が立っていました。一人は東京横浜電鉄常務取締役五島(ごとう)慶太(けいた)、もう一人は大倉洋紙店社長大倉(おおくら)邦彦(くにひこ)でした。大倉邦彦は、持っていたステッキをグルッと回して、「大体このくらいの土地がほしい」と言って、五島慶太から一山(7500坪、後に一万坪となる)の土地を買いました。二人は共に明治15年生まれの弱冠46歳でした。なんとも浮世離れした話です。

当時の丘の上は、畑が広がっていて、端に村社があるだけでした。

大倉邦彦がなぜ大倉山の地を選定したのかは、記録が無くて分かりません。しかし、丘の上に立つと、西南に富士山が望まれ、東南には横浜港から東京湾が見下ろせます。かつては北方に国会議事堂も見えました。日本の象徴である富士山と、近代西洋文明の窓口である横浜港、首都東京が望める太尾の丘は、東西文明の融合を目指した大倉邦彦の理想とする場所であったと思われます。

塔屋からのかつての眺望

西南……大山、富士山、少し南寄りに大島

東南……横浜、東京湾、房総半島

東………鶴見の総持寺の伽藍

東北……川崎、蒲田、大森

北………日吉の慶応大学校舎、大岡山の工業大学、国会議事堂、筑波山

西北……日本アルプス

大倉精神文化研究所の建設

この地に翌昭和4年(1929)10月30日に地鎮祭を挙行し、大倉精神文化研究所本館(現横浜市大倉山記念館)の建設が始まりました。建設は竹中工務店が担当しました。昭和5年4月9日に鎮礎式(留魂碑の項を参照)、昭和6年4月9日に上棟式、そして昭和7年(1932)4月9日に竣工しました。この日は、邦彦の50歳の誕生日でした。

総工費

約70万円といわれています。本館の建築費が約45万円との記録がありますから、土地購入費が25万円ということになるのでしょう。

「日誌」によると、当初の建築費は建物35万円、書架3.5万円の計40.5万円の見積もりで、長野氏への設計費はその3パーセントの12,150円が支払われています。実際の工費は、建設途中に大倉邦彦が様々な変更要求を出したために、値上がりし、工期も長くかかったといわれています。

最終的な工事費は、45万9356円18銭でした。(精算書)

大倉山は地球だ

現存するのは大倉山記念館だけですが、大倉邦彦は、大倉山全体に所員の住宅や利用者の宿所、茶寮、弓道場など様々な付属施設を建設して、一つの完結した世界を作ろうとしていました。

昭和十年頃に作られた『所内しるべ』という研究所の案内パンフレットがありますが、そこには、次のように説明してあります。

庭は日本並(ならび)に東洋の地図を象(かたど)って居(お)ります。敷地全体九千坪の土地は世界を意味し、建物は個人を表はして居(お)ります。かくして日本と個人と世界とは三位一体である意味を表はすものであります。

邦彦は、大倉山全体を一つの世界、つまり地球に見立てて、研究所本館の前庭に日本列島の形に芝を張り、周りに砂利を敷き詰め、中には小さな松の木を植えて、それを「地理曼荼羅(まんだら)」と名付けました。そして、建物を人間に見立てました。つまり、世界全体と日本と一人の人間ということで、大倉山と前庭と本館とで三位一体を表わしたのです。

庭の案内

地理曼荼羅 地理曼荼羅は現存しませんが、記念館正面の右斜め前の庭に点在する松の木が、かすかにその名残を留めています。

大神宮 太尾村の村社でした。昭和5年12月11日村社遷宮式を挙行。

風呂場、禊殿、茶寮、三空荘、富嶽荘 三空荘は所長大倉邦彦の宿舎でした。

神風館 昭和11年4月29日完成。弓道場

本館設計者長野宇平治

この建物は、長野宇平治(うへいじ)(1867~1937)が設計しました。長野は、辰野金吾の高弟で、日本建築士会初代会長にもなった有名な建築家です。早稲田大学教授でもあり、彼の蔵書は早稲田大学に所蔵されています。

奈良県庁舎、北海道銀行本店、横浜正金銀行東京支店などは彼の設計になります。この大倉山記念館は、彼が設計した最後の建物です。

長野はヨーロッパ古典建築が得意でした。この建物はプレヘレニック様式の鉄筋コンクリート3階建となっていますが、詳細に見ていくと、古典主義を基底として設計されていることが分かります。しかし、これだけが様式を異にしているのは、大倉邦彦の意向によるものと考えられます。

アテネより伊勢に

大倉邦彦は、研究所本館をなぜプレヘレニック様式の建物にしたのでしょうか。本人が直接書き残したものがありませんので、推測になりますが、大倉邦彦は東西文明の融合を意図し、研究所を世界の精神文化の中心としたいと考えていました。日本は海外から多くの文化を受け入れて独自の文化を形成しました。日本文化の根底を成す飛鳥文化はシルクロードの産物です。大正15年(1926)にヨーロッパ旅行で大きな刺激を受けた大倉邦彦は新たなシルクロードを意図したのではないでしょうか。詳細は不明ですが、旅行の帰路にイタリアを訪れています。この時、クレタやミケーネ文明の遺跡も見学したのではないでしょうか。

シルクロードの西の端、ギリシアは「西欧文明発祥の地」といわれます。そのギリシアの最古の建築様式であるプレヘレニックの建物を日本に移しました。正面玄関の破風には、八咫鏡をはさんで二羽の鳳凰が彫刻されています。これは正倉院御物の鏡を模写したものです。ここに、東西文化の融合を見て取れます。

ちなみに、当初の設計図では二人の天使が描かれていました。大倉邦彦が設計変更させたものと思われます。また、次の歌が残されています。

アテネより 伊勢にと至る 道にして 神々に出会い 我名なのりぬ

この歌の作者は、長野宇平治とも大倉邦彦ともいわれていますが、私は大倉邦彦の作だと考えています。

プレヘレニック様式

ヘレニズムとはギリシア風の文化ということで、プレはその前身ということになります。ですから、プレヘレニック様式とは、ギリシア以前の建築様式ということです。長野宇平治の命名になりますが、具体的には、クレタやミケーネの様式を指します。かつて、これらは神話世界の話しで、実在しないと考えられていました。ところが、シュリーマンがクノッソス宮殿などを発掘したことにより、初めて実在が明らかになりました。大倉邦彦がヨーロッパへ行く少し前のことです。

大倉邦彦は、欧州旅行でその情報を仕入れて、長野宇平治に設計させたのでしょう。図書館蔵書として大倉邦彦がヨーロッパから購入させた洋書の中に、建築様式を記した遺跡の発掘報告書があり、現在も図書館に保存されています。

近代日本の西洋建築は、ヨーロッパの古典主義建築の模倣でしたが、大倉精神文化研究所本館は、クレタやミケーネの遺跡発掘から明らかになったプレヘレニック様式を、直接再現した唯一の貴重な建造物なのです。

様式の特色は、下が細くて上に行くほど太くなる柱に象徴されています。正面玄関でご覧下さい。その他に、ドアの蓮の花模様や、壁の螺旋や三角の模様なども特徴的です。

プレヘレニックの研究は、その後大きく進展し、地域や時代区分も詳細になっています。そのため、現代では、「クレタ・ミケーネ様式」と呼ぶのが相応しいそうです。

基礎工事の出土品

基礎工事で山頂を掘ったところ、住居址や石器、土器などが出土しました。住居址は、ホール西側の地下、ギャラリーの中央奥などから発見されました。調査図面も残されています。

当寺は縄文式と弥生式の土器が混ざっていると報告されていましたが、その後の研究の進展により、総て弥生式のものと分かりました。完全な形で出土したものもあり、形や文様など研究史上重要なものもあります。出土品は、現在も大倉精神文化研究所で所蔵していますが、横浜市立博物館で再調査をしてもらっています。

邦彦の信念を記録した留魂碑

ちょうど70年前の昭和5年(1930)4月9日、大倉邦彦は研究所の発展と根本理念を永遠に留めるために、鎮礎式(ちんそしき)を行い、1.2メートル四方の箱に入れた「留魂碑(りゅうこんひ)」を本館中央の地下30尺(約9m、つまり地球の中心)、に埋めました。

碑面には、次のような大倉邦彦の念願が刻まれていました。

一、人が人として宇宙人生の正法に安住せん事を念願す

一、人が国民として天孫中心の君国を永遠ならしめん事を念願す

一、人が業人として自他の存続発展を基調とせん事を念願す

一、一国思想の源泉は宗教と教育とにありと信じ是を建立す

皇紀二千五百九十年     大倉邦彦

一番最初に掲げた「宇宙人生の正法」とは何でしょうか。後に記す「殿堂」の説明をお読み下さい。

大倉山の土地は、昭和56年に横浜市に売却され、付属施設も地理曼荼羅も無くなってしまいました。しかし、留魂碑は、現在でも「留魂礎碑」として大倉山記念館の一階中央階段裏に存続しています。

大倉山記念館の秘密

大倉邦彦は、大倉精神文化研究所本館(大倉山記念館)を人間に見立てて作りました。これは、どういうことなのでしょうか。

大倉山記念館は全体で1つの大きな建物ですが、その構造は、①高さ約25.5メートルの塔がある中央館と、②殿堂(現在のホール)、③回廊(現在のギャラリー)、④東館、⑤西館の五棟から出来ています。以下、大倉邦彦がこの五棟に隠した秘密を明らかにしていきましょう。

①中央館は「心」

まず、中央館から見ていきましょう。正面玄関を入ったところが「エントランスホール」です。かつては、ここを「心の間」と呼んでいました。中央には、音楽会などが開かれるホール(殿堂)へ続く大きな階段があります。約21メートルの吹き抜けの天井を見上げると、四方の窓がステンドグラスになっていて、黄金色の光が射し込んでいます。曇りや雨といった天気の悪い日でも、一日中、上から明るい光が射し込むようになっていて、まるで照明をつけているかのようです。

『所内しるべ』の説明では、そこで明治天皇の御製を引いています。

さしのぼる朝日の如くさわやかに もたまほしきは心なりけり

さし登ってくる朝日のごとくさわやかに照り輝く光、これが塔の上から降り注ぐ光であり、これは雨の日でも晴れの日でも必ず差し込んできます。その清浄な光が「誠(まこと)の心」、つまり雑念や穢(けがれ)をうち払った後の清明心(せいめいしん)を表しているのです。

そして、窓の下には周囲に鷲(わし)と獅子(しし)の彫刻が8体ずつ、計16体がぐるっと囲んでいて、上から見下ろしています。この鷲と獅子は、よく見ると、全て別々の彫刻で、形も向きも違っています。そして、下から見上げると必ずどれかと目が合うようになっています。鷲は鳥の王者、獅子は百獣の王者であり、共に神の化身や神の使いと考えられてきた生き物です。

この彫刻は、神や仏はどこにいても必ず人間を見守っているということを表しています。人間に対して嘘はつけても神仏の目から逃れることはできない、常に誠の清い心を持たなければいけないのだよということをそこで表しています。

このように「心の間」で、人間の心を表しているのです。留魂(●)碑が中央館中心部の地下にあるのはそのためです。

②殿堂は「信仰心」

心を表す中央館の奥が、殿堂(でんどう)(現在のホール)になります。殿堂は、信仰を養う場として作られました。人は信仰心を持たなければならない、というのが大倉邦彦(おおくらくにひこ)の考え方でした。つまり、「心の間」で誠の心に帰り、神仏に近づく準備が出来て殿堂に入るのです。

ここでいう信仰心とは、宇宙全体の中で、使命を持って生まれそして生かされている自分を自覚するという意味です。大倉邦彦自身は、信仰心を得るために坐禅に傾倒するのですが、生涯言っていたことは、宗教的信念を持たなければならないが、たとえば仏教とかキリスト教とか、宗教や宗派にとらわれてはいけない、修行の手段は違っていても大元(おおもと)は一つなのだということを力説しています。

ですから、殿堂も、宗教的な立場や考え方・信仰を持つことの大切さを説きながら、特定の宗派に偏(かたよ)らないということで作られたと聞いています。見方によっては神社・神道風の建物にも見えますし、キリスト教の教会風にも仏教風にも見えるといったような形に設計をしたとも言われています。

現在は、ホールの入り口は防音のために二重ドアになっています。しかし、これは、昭和59年に横浜市の手により、楽器演奏等が出来るように改築されたもので、建設当初は、外側のドアが一枚あるだけでした。大倉精神文化研究所に現存する設計図を見ると、当初はドアを入ると鳥居のような柱が左右にあり、その上にはパイプオルガンが据え付けられるような計画があったことが分かります。しかし、パイプオルガンは実現しませんでした。その理由は明らかでありません。

殿堂の内部は総て木造になっており、正面左右に太い木の柱が2本ずつ建っています。室内には、長椅子が多数並べられていました。現在、館内の各所に置かれている、背もたれが高く左右の端に丸い飾りの付いた長椅子がそれです。壇上は、建設当初は半円形の演壇が置かれただけのシンプルなものでした(後に、舞台には天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られ、神殿に改装されました)。この演壇は、現在はギャラリーの入り口正面に置かれています。

③回廊で心の修業

信仰の場である殿堂を取り囲む形で、回廊(かいろう)が作られています。信仰心を持つための修業の場です。回廊は、外壁に面した半分がぐるりと板間で、ここに壁に向かって座り、坐禅が行われていました。内側半分はコンクリートの通路になっていました。回廊の中央で殿堂の後ろに仏間があり、仏像が安置されていました。現在は取り壊されて、中庭の一部になっています。

回廊は、昭和59年以降は、改装されてギャラリーとして使われています。

④東館は図書館

創設者大倉(おおくら)邦彦(くにひこ)は、心の修行や教育のために必要な図書を集めて、多くの人々に利用してもらいたいと考え、大正14年(1925)頃より図書館の建設を思い立ちました。そして東京目黒に敷地を購入しますが、昭和3年になり太尾(ふとお)の丘の上に場所を移しました。その頃より、単に本を並べておくだけではいけないことに気づき、自身の考えをより深めるために、また本の内容を皆に理解してもらうためにも研究が必要であると考え、図書館建設の構想は研究所建設へと変わり、図書館はその付属施設となりました。しかし、図書館経営はその後も大倉にとって重要な事業であり続けました。そのためでしょうか、建設当初から大倉精神文化研究所は、地元の人から俗に「図書館」と呼ばれていました。つい一昨年のことですが、私自身も地元の方が研究所のことをいまだに「図書館」と言われるのを聞いたことがあります。

図書館は、開館当初から外部利用者へ無料で公開されていて、学生でも学校の紹介があれば利用できました。戦後一時閉館しましたが、昭和21年10月から再開しました。当時、県下でも横浜市立図書館に次ぐ規模を持っていた研究所図書館は、学生や受験生で賑わいました。昭和22年度の1日平均閲覧者はなんと439名でした。多くの人が向学心に燃えて山の上に登ったのでした。また、神奈川県図書館協会は昭和23年3月に大倉山で発会式を行い、初代会長には、研究所所長兼図書館長だった上田辰之助(たつのすけ)(日本学士院会員)が就任しています。

このように、研究所図書館は戦後順調なすべり出しをしましたが、研究所本体の財政難の影響で、昭和23年度からは閲覧料の徴収をせざるを得なくなり、自主運営はしだいに困難となり、昭和25年から35年までは国立国会図書館の支部図書館となりました。昭和35年からは再び研究所付属図書館となり、以後は自主公開を続けましたが、再び財政難となり、昭和42年9月からは週に2日間、研究者のみへの開館となりました。

図書館の入っている研究所本館(横浜市大倉山記念館)が昭和56年に横浜市へ寄贈された後、大倉精神文化研究所付属図書館はその運営体制を整えて、昭和63年5月より再び無料で一般公開されて現在に至っています。

図書館は、アメリカから輸入した最新式の書架が5層になっています。

納入者 米国、レミントンランド

製造者 米国、ライブラリービューロ

1層が5万冊で25万冊の収蔵能力があるといわれましたが、実際は10~12万冊程度です。地下から5階まで、書籍運搬用のリフトが設けられていましたし(現在は消防法の関係で使用禁止)、地下の送風機室からは、ボイラーで乾燥空気を書庫内に送り、夏場の湿気を防ぎました。

蔵書は、昭和初年にヨーロッパで直接買い付けた9千冊の洋書に始まり、現在では約8万6千冊となっています。江戸時代の古文書(こもんじょ)や木版本(もくはんぼん)などもあります。おもしろいところでは、桜吹雪(さくらふぶき)で有名な遠山の金さんこと、北町奉行遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)景元(かげもと)の役宅で部下の者が記録していた日記などもあります

⑤西館は研究の場

西館の1階には、読書室(記念館事務室)・談話室・食堂(第10集会室)などがありました。2階南側第6集会室は所長室でした。その上の3階南側の第5集会室は貴賓室、北側の第4集会室は講義室でした。研究室は、中央館と東館・西館の連結部の2階部分や、1階の回廊入り口に計10室ありました。貴賓室の壁には暖炉風の飾りやシャンデリアがありますし、使用目的に合わせて所長室と共に室内は豪華な装飾が施されていましたが、研究室は虚飾を廃して、研究に専念できるように簡素な造りになっていました。

建物の中心部分、これが人間の体でいえば一番大切な心とその奥にある信仰であるということですから、邦彦はこの中心の部分を非常に重視して造りました。建物にはこの中心部分があって東西の両棟がありますけれども、中央部分に比べて、建物の東西両翼は総じて簡素な造りになっています。大倉邦彦は当時の金で総額約七十万円の私費を投じて全くの独力で建物を造りました。現在なら数十億円に相当するのでしょうか。お金をかけるところにはしっかりかけて良いものを造っていますが、無駄なところにはお金を使わず、上手に造ってあります。

こうして、心(中央館、殿堂、回廊)の周りを知性(東館・西館・連結部)で覆うことにより、人間に見立てたのです。

70年前の最新設備

大倉邦彦は東洋思想や伝統文化を大切にしましたが、新しもの好きで、大倉山記念館には、建築当初から全館に真空式低圧蒸気暖房装置や水洗トイレ、給湯装置などが完備されていました。図書館書庫への乾燥空気の送風、図書運搬用リフトも最新式でした。

横浜市大倉山記念館

財団法人大倉精神文化研究所は、昭和56年3月31日に、大倉山の敷地を横浜市に売却し、あわせて研究所本館を横浜市に寄贈しました。これを受けて、横浜市は大倉山の土地を公園として整備し、建物の改修を行いました。昭和59年10月27日、改修の終わった建物は、「横浜市大倉山記念館」として開館しました。

その後、平成3年11月1日には、横浜市の文化財に指定されています。

現在は、建物の東半分を大倉精神文化研究所と附属図書館が使用し、中央から西側を市民に一般開放して、音楽会や各種集会など文化的諸活動の場に活用しています。

各部屋の案内(1階)

記念館事務室

読書室でした。

小森氏の話では、研究室に使っていたという。

元館長室

宿直室でした。

小森氏の話によると、脇のドア(西側半地下)が通用口で、現在の下駄箱の後ろに受付窓口がありました。所員で夜学に通っている人がいて、寝るのは第7集会室で、ここで受付をしていた。ちかみに、来客は正面玄関で上履きに履き替えていた。

第十集会室

食堂でした。50人分のイスとテーブルが備えられていました。

第九集会室

談話室でした。各種の新聞などが置いてあり、憩いの場所でした。

小森氏の話では、小会議室で、内々の研究会を開いたこともあるという。

第八集会室

研究所の事務室でした。庶務や会計を処理していて、研究所の出版物もここで扱っていました。来館者の要望があれば、研究所絵はがきをここで販売したこともありました。

小森氏の話では、切手、印紙、ハガキも取り扱っており、毎月1回菊名の郵便局へ精算に出掛けていた。

第七集会室

製本室でした。傷んだ図書の修繕や、雑誌の製本などをしていました。奥に畳が敷いてあり、宿直の時などに寝泊まりにも使用していた。

留魂礎碑(中央階段裏)

前述「留魂碑」の説明をお読み下さい。

研究所更衣室及び休憩室

図書館書庫に乾燥空気を送るボイラーが置いてありました。

研究所事務室及び研究室

物置で、普段は締め切っていました。

現在、廊下に掛けてある法隆寺の絵は、元は所長室に掲げてありました。

各部屋の案内(2階)

正面玄関の破風 八咫鏡をはさんで二羽の鳳凰が雲を踏み蓮の花をくわえた姿が彫刻されています。これは正倉院の御物を模したもので、美術院の水谷氏の作になります。

ちなみに、当初の設計図では二人の天使が描かれていました。大倉邦彦が設計変更させたものと思われます。

ピロティー

柱の形が上に行くほど太くなっているのがプレヘレニック様式の特色です。

入口の左右に石のベンチがあります。駅前から坂道を上ってきた人が、汗を拭き、心を落ち着けてから入館できるように作られたものです。

エントランスホール

前述「中央館」の説明をお読み下さい。

図書館閲覧室

司書室でした。図書館事務、蔵書整理、目録作成、図書の出納などもここで行われました。

小森氏の話では、海軍が入ってからは、ここに目録を置いていた。

「日本精神文化曼荼羅」

ロビー

目録室でした。ここで図書カードや蔵書目録を検索し、図書館閲覧室(司書室)で図書の出納をして、第一集会室(閲覧室)で閲覧しました。

スチール製のカードケースは、アメリカ製(?)のもので、三井物産金物部より納入されました。

現在置いてあるイスは、かつて殿堂で使われていたもので、教会のイスをイメージさせます。

第一集会室

閲覧室でした。図書館の外部利用者はここで図書を閲覧しました。

入り口前の流しや男子トイレは、横浜市へ寄贈後に作られたもので、かつては部屋の一部でした。

小森氏の話によると、昭和15年頃に大日本精神史編纂室になったという。

第六集会室

所長室でした。大倉邦彦の部屋です。大倉邦彦はここのロッカーに作業着を常備しておいて、晩年まで、少しでも時間があると率先して草むしりなどをしていました。

研究所事務室入り口にある法隆寺の絵は、もとはここに掛けてありました。

小森氏の話によると、国会図書館の支部時代は、原田三千夫氏が館長室として使用していた。邦彦はお客のようになり、面白くなかった。

ギャラリー

前述「回廊」の説明をお読み下さい。

ギャラリー入り口には、現在は物置として左右に1部屋と突き当たりに小さな物置が2部屋ありますが、かつては左右に研究室が各3部屋ありました。

各部屋の案内(3階)

ホール

前述「殿堂」の説明をお読み下さい。

第二、第三集会室

研究員の研究室でした。第二は思想史研究室でした。

第四集会室

講義室でした。研究所の所員が互いに各学科の演習を行ったり、外部から講師を招いて講義を受けたり、各種会合に使われていました。

第五集会室

応接室(貴賓室)でした。暖炉風の飾りや豪華な天井、シャンデリアなど贅沢な造りになっています。皇族を始めとして各界の著名人が多数訪れました。現在、図書館閲覧室にある「日本精神文化曼荼羅」はここに掲げられていました。また、建築時に発掘された弥生式土器や石斧などもケースに入れて陳列してありました。

かつて室内にあった家具は、セレベス興業より納入されたもので、戦後は進駐軍に接収されたようです。

ちなみに、研究室や閲覧室の家具は、誠工舎より納入されました。

仏教研究室

タゴール研究室でした。

神道研究室

*海軍気象部

・記念館の大半を使用していた。

・戦後

各部屋を教室にして、様々な団体に部屋貸しをしていた。そのため、しょっちゅう館内の様子が変わっていた。

大倉精神文化研究所

設立の趣旨 大倉精神文化研究所は、「東西両洋における精神文化の科学的研究を行い、知性並びに道義の高揚を図り、公民生活の向上充実に資し、もって世界文化の進展に貢献する」ことを目的としています。

沿革 大倉精神文化研究所は、昭和7年4月9日に大倉山の地に設立されました。現在の横浜市大倉山記念館は、研究所の本館としてこの時竣工したものです。

大倉邦彦は、所長として研究所の経営・指導にあたり、各分野の一流の研究者を集めて、学術研究を進めるとともに、精神文化に関する内外の図書を収集して附属図書館も開設しました。また、学生・教育者・一般人などを対象とする精神教育にも努め、『神典』その他の多くの図書を編集・刊行しました。

研究所は、その後昭和11年に財団法人となり、活発な活動を展開しましたが、第二次世界大戦により、活動は一時中断を余儀なくされました。

戦後は、名称を「大倉山文化科学研究所」と改称し、活動を再開しましたが、財政難により苦しい経営が続きました。そうした中で、昭和25年から35年まで、附属図書館を国立国会図書館の支部図書館としたこともありました。

昭和34年に名称を元の「大倉精神文化研究所」に復しましたが、昭和46年に創設者の大倉邦彦が死去すると、経営は一層困難になりました。そこで、昭和56年に敷地を横浜市に売却し、財政的基盤を確立しました。建物は同時に横浜市に寄贈しました。こうして、活発な活動を再開し現在に至っています。

大倉精神文化研究所附属図書館

開館日時 火曜日から土曜日の午前9時30分~午後4時30分

(日曜、月曜、祝日、年末年始は休みです)

蔵書の概要 哲学、宗教、歴史、文学などの図書や雑誌を入門書から専門書まで揃えています。特に、神道、儒教、仏教、日本史などの図書は古書から新刊書まで豊富に備えています。また、公開書庫にはベストセラー、今話題の本などもあります。

・開架図書 14,916冊 ・閉架図書 67,407冊(平成11年3月末現在)

利用方法 どなたでも自由に利用できます。

一般図書や参考書は、公開書庫で直接調べたり、探したりできます。専門書は、書庫からお出ししますので、閲覧室で読むことが出来ます。公開書庫の本については、どちらにお住まいの方にも一人1回5冊まで、2週間お貸しします。

また、神道・儒教・仏教・日本史などの参考書に関する質問にお答えします。

図書や雑誌のコピーも、一枚30円でお受けします。

梅林

観梅の歴史は古く、すでに奈良時代から行われており、『万葉集』には118首の歌が載せられています。これは桜の3倍以上で、それほどに人気がありました。

さて、大倉山駅を下車して線路沿いに坂道を登り、大倉山記念館の脇をぬけて少し下ると、龍(りゅう)松(しょう)院(いん)の手前に梅林が見えてきます。この梅林は、東急電鉄が龍松院から土地を購入し、昭和6年に開園したもので、小森嘉一氏(90歳、大倉精神文化研究所元研究員)の話によると、学芸大学の辺りにあった金持ちの方の別荘の梅を移植したのが始まりだそうです。その後、昭和18年頃に大倉邦彦が旧制の高等学校を大倉山に開校しようとしたとき、校地に譲り受ける計画もありましたが、実現しないままに、戦後を迎えました。

戦後も梅林には数百本の梅が咲き誇り、東横線沿線の観光地として賑わい、かつては観梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に止まったこともあったそうです。

梅林は、昭和58年から61年にかけて東急から横浜市に売却され、再整備の上、平成元年に今の形で開園されました。現在は、25種類、約180本の梅が植えられています。一番本数が多いのは大きな実を付ける「白加賀(しらかが)」ですが、中国伝来で花が緑色がかった「緑(りょく)萼(がく)梅(ばい)」、白とピンクの花を思いのままに咲かす「思いのまま」などといった珍しい梅もあります。6月頃には、実を付けますが、港北観光協会から園芸農家に依頼して実を集め、協会推奨の大倉山梅酒「梅の薫」を造り、観梅会の時に販売しています。観梅会から1ヶ月程すると梅林周辺は桜が満開になります。

梅の木の一覧

一重野梅(ひとえやばい) 2本

田子の浦(たごのうら)  1本

古今集(こきんしゅう)  2本

八重野梅(やえやばい)  1本

思いのまま(おもいのまま)1本

見驚(けんきょう)    3本

筑紫紅(つくしこう)   1本

八重寒梅(やえかんばい) 1本

野梅(やばい)     11本

月影(つきかげ)     2本

白玉梅(しらたまばい)  2本

緑萼梅(りょくがくばい) 3本

大盃(おおさかづき)   1本

八重唐梅(やえとうばい) 5本

鹿児島紅(かごしまこう) 1本

唐梅(とうばい)     3本

桜梅(さくらばい)    1本

白加賀(しらかが)   40本

豊後(ぶんご)      1本

花香実(はなかみ)    1本

臥龍梅(がりゅうばい)  1本

茶筅梅(ちゃせんばい)  1本

その他     不明 約80本

東横神社(太尾町1014 神域330㎡)

昭和14年6月22日、東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄両社社長五島慶太が両社の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営し、伊勢の神宮より本体を遷座したものです。翌23日鎮座奉祝祭と物故殉職社員の慰霊祭が行われ、渋沢栄一をはじめとして44柱が合祀されました。その後、毎年慰霊祭が行われており、昭和34年からは五島慶太も祀られています。神社は現在でも東急の所有であり、関係者以外の参拝は出来ません。

龍松院 (曹洞宗虎石山龍松院)

文殊堂由来石碑(文殊堂前の入口左手側)

文殊堂智恵殿には、小机城主笠原能登守康勝公が陣中常に胸に掛け奮戦せる不動尊像(文安三年1446年作)と、君主北条早雲公より拝領の文殊菩薩像を霊感により合祀して、堂宇を建立した。慶安三年(1643年)徳川三代将軍家光公は此の由来を聞し召され、文殊堂領として九石余の御朱印を賜り、代々将軍家より下賜さる。爾来、出世文殊、怪我除け不動と近郷の者より深い信仰を集めた。

是れ、龍松院の起源なり。

昭和五十九年七月吉祥日

龍松院廿五世憲雄代建立

「龍松院由来」石碑(山門入口右手側)

開創 大順宗用和尚永禄三年(1560)示寂

開基 小机城二代目城主(所領拾万石)笠原能登守康勝公

開山 小机雲松院明山宗鑑大和尚

縁起 当院は、笠原能登守龍松院殿外視禅眼庵主(天文年間歿不詳)が、霊夢により文殊堂を建立。其の後六代を経て雲松院九世明山宗鑑大和尚万治四年示寂(1661年)を請じて開山とした。寛政八年(1796)出火炎上。天保二年(1831)十六世元明祖享和尚再建したが、老朽化したので、昭和五十四年廿五世禅鼎憲雄和尚改築、現在に至る。

昭和五十九年七月吉祥日

虎石山龍松院廿五世憲雄代 建立

山門の前には、六地蔵、観音菩薩石像、庚申塔があります。

文殊菩薩像(湛慶作という)は、長さ1寸8分(約5センチ)の、獅子に乗った像です。境内の文殊堂脇には、笠原氏を祀った五輪供養塔が2基あります。

本尊は釈迦牟尼仏。

毎年4月25日に文殊菩薩の御開帳があります。

笠原氏 笠原氏は、小田原北条氏の家臣です。一時廃城となっていた小机城が、北条氏の勢力下に置かれたのに伴い、笠原越前守信為(のぶため)がその城代となりました。この笠原氏の下、近在の武士団は小机衆として組織され、小机城は後北条氏の有力な支城となりました。太尾村周辺もその勢力下におかれ、大倉山の北側の山裾(やますそ)に笠原氏一族の者が砦を築き住んでいました。その跡地を「殿谷(とのやと)」といいます。

天正18年(1590)の北条氏滅亡により、笠原氏は冨川と名前を変えました。旧家の冨川家はその子孫になります。

小机の雲松院は笠原信為が建立した笠原氏の菩提寺です。龍松院はその末寺になります。