地図を見ながらわが町発見

(平成19年11月21日 菊名地区センター主催事業)


大倉精神文化研究所

平井 誠二

日 時 平成19年11月21日(水)

集 合 10時、東横線菊名駅改札

見学コース

菊名駅 → 杉山神社跡 → 停留所跡 → 菊名分譲地(田園都市) → 安山酒造の醸造所跡 → 椎橋家 → 本乗寺 → アマノ株式会社・タイムレコーダー資料館 → 神橋 → 八杉神社 → 菊名地区センター(昼食、座談会)

◆◇ 見学地解説 ◇◆

横浜線

・明治39年6月横浜鉄道株式会社により起工、明治41年(1908)9月23日東神奈川-八王子間開通。当初、港北区内に小机駅しかなかった。

・八王子から横浜へ生糸を運ぶのに丸2日かかっていたのが、1時間半ほどになった。

・大正6年(1917)11月1日国有化。

東横線

・大正15年(1926)2月14日に神奈川部分(丸子多摩川-横浜)が開通、昭和7年(1932)3月31日全線開通。

・古い計画では、新横浜-東林寺-篠原池のルートが計画されていたらしい。

・本乗寺と椎橋家の間を通る計画もあったが、酒造業に影響するという椎橋家の反対で現在のルートとなったという(加藤梅松氏談)。

菊名駅

1日約20万人の乗降客で、新横浜とほぼ同じ。大半が東横線と横浜線の乗り換え客。

(東横線駅)

・大正15年(1926)2月14日、まず東横線の駅が開業。

・横浜線の蒸気機関車では、小机から貨物列車を牽いて、菊名の坂を登ることが出来ず、線路を上に上げられなかった。

・東横線は、横浜線の下を通すために、約1メートル掘り下げたため、出水により電車のモーターが水をかぶり、不通となることが多かった。そこで、昭和35年に上り線渋谷依りに冠水時の仮設ホームを設置した(~渡り線として1991年まで)。

・昭和47年(1972)、横浜線は1.8メートル、東横線は1メートル程地上げして、現在の高さとなった。このとき高架の駅舎となった。

・昭和49年、東急ストア菊名店開業。

・昭和63年、地下鉄日比谷線が菊名駅に乗り入れ開始。

・平成3年(1991)まで、二重に開かずの踏切(大倉山3号踏切、通称「安山踏切」)。……ピーク時は1時間に50分位閉まっていた。電車がホームから踏切に1両はみ出していたため、ドアが開かなかった。

・菊名問題……2005年7月25日の女性専用車両設置、2006年7月18日から車両を変更(8→6)。

(横浜線駅)

・大正15年9月1日開業。

・かつては、寺尾トンネルの手前、法隆寺谷戸に駅を作る計画があったという(加藤梅松氏談)。

・駅業務は東急に委託していた。東急改札から入り、東横線の線路を越えて階段を土手の上まで登り、横浜線のホームに着いた。

・駅員はいなかったが、横浜線のホーム脇に詰め所があり、単線のポイント切り替えをする国鉄職員がいた。

・東急菊名駅の北東側に国鉄の貨物線のホームがあった。多摩川産の砂利運搬が目的で昭和2年竣工。横浜線からスイッチバックして入線した。昭和41年(1966)、連絡線を撤去。

・平成7年(1995)、JR菊名駅舎完成、改札口が東急と分離。駅業務の委託も終了した。乗り換え通路に自動改札機設置。

・平成18年(2006)3月18日より快速が止まるようになった。横浜まで10分で行くために止めなかったともいわれる。

・横浜市都市整備局は、2010年までに駅舎の改良を検討しているらしい。JR駅を地下化する案もあるらしい。

停留所跡

・鉄道駅が出来る以前は、鶴見川と綱島街道が主要な交通網だった。

・旧綱島街道には、古くは馬車が、東横線開通の頃は乗合バスが走っていた。

・親父が「サンコウのがた馬車」とよく言っていた(斉藤博氏談)。さんちゃん

・昭和10年頃までバスが通っていた。横浜から綱島までか。

・椎橋さんの酒屋(菊名3-22)があった。「しんみせ」といっていた。最近まで営業していた。昭和9年に信一郎さんのお父さんが店を始めた。

・椎橋酒店の向かいに「えどや」という店があり、そこが停留所だった。

・「えどや」は小料理屋、岸さんといった。武蔵山の弟子(青年相撲の大関)がいた。

・菊名3丁目21 古い自転車屋さんだった。

・その先、杉山巡査の住んでいた家(交番)があった。

・床屋の手前(清水医院の近くか)、籠屋があった。

・この辺りと菊名神社の近くとが停留所であり、小さな繁華街だった。

・旧綱島街道のあちこちに、馬や牛の水飲み場があった。

・この辺りを籠久保といって田んぼだった。

神奈川菊名郵便局

・駅前の郵便局は、昭和8年(1933)開業で、当時は神奈川区だった。

東横線菊名1号踏切

・この辺りに菊名駅を作る計画だった。

・ピーク時(午前7時~8時)には約38分間閉まっている。

菊名分譲地  (錦ヶ丘)

・大正15年、東急は菊名駅南東の高台約4町歩を椎橋家・伊藤家等から買収(坪4円50銭か)し、240戸分の宅地を造成。昭和2年より菊名分譲地として売り出した。

・坪単価9(15カ)~25円、広さ57~209坪。 *売り物件、錦ヶ丘1丁目で39坪、単価190万円。

・土地購入者には菊名-横浜間の1年間の定期代(25円92銭)を無料サービス。

・昭和9年(1934)、皇太子(今上天皇)生誕記念として、住宅組合が桜335本、楓100本を植樹し、組合決議で錦ヶ丘と呼ぶようになった。

・昭和46年7月5日、住居表示実施に伴い、篠原町から分離し正式に「錦ヶ丘」となった。

安山酒造の醸造所跡

・椎橋家の分家で、明治以降に造り酒屋を始めた。セブンイレブンから自転車屋辺りに酒蔵、その南側に酒造所があった。

・安山から湧く井戸水を使っていたため、東横線で井戸が枯れることを心配して、安山の東側(下側)に路線を変更させたという。

・戦前は清酒や焼酎を製造していたが、戦争中に一時休止、戦後はどぶろくを造っていた。

・地主は小作米が集まるが、夏場に痛むから、醸造業をする家が多かった(椎橋信一郎氏談)。

椎橋家

・本家は、忠兵衛 - 宗輔 - 仁助 - 淳一 - 忠男 - 俊介と続いている。

・宗輔(1838~1904)は、幕末の大豆戸村長、戸長、大綱村長、県会議員などを歴任。

・仁助(1868~1953)は、大綱村長、県会議員(M44~T13)、橘樹郡養蚕組合連合会長などを歴任。

・淳一(1889~1973) - 忠男(1926~) - 俊介と3代続いて医者をしている。菊名小学校開校(1951年)以来の校医でもある。

・淳一氏は、県立第一中学校創立以来の秀才といわれた。千葉医専を卒業し、大正半ばに菊名で開業した。初代港北区医師会長。

・昔は人力車で往診をしていた。

・明治後半から昭和初期まで養蚕をしていた。母屋二階と2階建てカイコ部屋2棟。

・椎橋家の庭に、石で組んだ池があった。安山からの絞り水が入っていた。亀を飼っていて、背中に安山と書いてあった。大雨で亀が逃げ出したとき、捕まえて持って行くとお菓子をもらえた(斉藤博氏談)。

・屋敷入り口の黒門は、菩提寺の東林寺へ移築した。山の上の観音様も東林寺へ持って行った。

安山

・昔、大倉邦彦は安山に大倉精神文化研究所を建設使用と考え、椎橋家から用地を買おうとしたが、うまく行かず、大倉山に建てることとした(加藤梅松さん談)。

・戦時中、安山に高射砲陣地が設置され、本乗寺に第117連隊第2大隊本部が置かれた。

本乗寺 (日蓮宗、大宝山本乗寺、大豆戸242)

・開基 天文23年(1554)、小幡泰久。

・開山 日逞上人。

・現在の本堂は、天保10年(1839)に第36世日忍上人が建立。格子天井になっており、内陣45枚に花鳥図、外陣63枚に風俗図が描かれている。

・山門はケヤキの1枚板で、明治9年(1876)に檀家の寄付100両で作られた。

・戦争中大綱国民学校に陸軍が駐屯したため、本乗寺も分散授業場となる。

・その後本校校舎焼失により、墓地上の陸軍兵舎が昭和22年3月まで一時大綱小学校大豆戸分教場となった。

・現住職がタイに留学したことから、タイ国から仏像や涅槃像を寄贈され、裏山へ平成9年に釈迦堂を建設した。

小幡泰久屋敷跡  (安山城跡)

・小幡伊賀守泰久は小田原北条氏の家臣で、本乗寺を創建、永禄9年(1566)に伊豆で戦死(天正19年小田原で戦死とも)、享年67。本乗寺に墓地があるというが不詳。

・「八王子神社の西へ続きたる所なり、今は皆陸田となる1段5畝余の地なり」(『新編武蔵風土記稿』)に屋敷があったという。

・泰久の子、勘解由左衛門政勝もこの地に住み、子孫は幕府旗本になった。

・屋敷跡から本乗寺一帯を安山城、あるいは大豆戸城ともいう。

アマノ株式会社  (大曽根台8-35の辺り)

・天野修一(1890~1976)が昭和6年東京蒲田に創業したタイムレコーダーの製造会社。

・海軍の魚雷部品を製造するようになり、昭和13年に菊名へ工場を新設。昭和17年に本社も菊名へ移転してきた。

・昭和41年、社名を天野特殊機械株式会社からアマノ株式会社へと変更。

・昭和21年、高木学園が神奈川区から移転し、当初は天野の青年学校の校舎を借りていた。

桜田

・アマノ株式会社がある辺りの字を「桜田」という。丘と丘の間の狭い土地という意味らしい。安山と対甲台(綱島街道東側の丘、鶴見台地)に挟まれている。

タイムレコーダー資料館

・天野記念館(1977年竣工)2階、日本唯一のタイムレコーダー資料館として平成7年(1995)に開設された。

・総合企画室広報部部長澤井建二氏による説明を予定。

大豆戸根川  (大豆戸菊名用水)

・元禄2年(1689)に大豆戸町の田の面積は35町7反5畝、その内大豆戸根川の用水を使用していたのが33町6反(約94%)であった。

・通常は菊名池からのこの用水のみを使用、日照りの時は鳥山川の水(太尾村の権利)を一部使用、更にひどければ、鶴見川の水(樽・大曽根・太尾の権利)を使用する約束があった。

・フナ、コイ、ウナギ、ドジョウ、ナマズ、カニなどが捕れた。タニシはゆでて、身を油で炒め砂糖・味噌で味付けした。

・八杉神社の神橋のあたりの川の中に、杭があり、そこにカワセミが留まっていた。カワセミのことを、このあたりでは「ショウビン」という。昔、横井戸(防空壕のように、山の斜面に横向きに掘った井戸)に小さな穴が開いていて、おばあさんからショウビンの巣だから触ってはいけないといわれた(斉藤博さん談)。

・山には野生のウサギやキジもいた。

・菊名池の水利権は、大部分を大豆戸、残りを菊名が持っていた。戦後、横浜市に水利権を300万円で売却し、井戸を掘ったがすぐ駄目になった(加藤梅松氏談)。

・昭和40年代、合成洗剤の普及により水質汚染が拡がった。

八杉神社 (大豆戸町239)

・元は八王子神社があった場所。江戸時代には古松が茂っていた。

・東大豆戸が八王子社、西大豆戸が杉山神社。戦後、杉山神社が荒れ果てたので、昭和26年頃から合併したらしい。

・八王子社は、金子一族の氏神であり、「金」の字を「八」と「王」に分解して、金子を八王子としたという

・昭和34年4月、八王子社と杉山神社(大豆戸町1131)が正式に合併、両社の名前から1字ずつ取って八杉神社とした。

・祭神 国狭槌命(くにさづちのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)

菊名地区センター(昼食)

港北区役所

・昭和14年(1939)4月1日、港北区の誕生。最初の区役所は、篠原の大綱小学校分教場跡を仮庁舎とした。

二代目庁舎は、昭和17年(1942)1月15日に菊名町780番地に木造二階建てとして落成。昭和19年2月18日昼火事で2階81坪・階下34坪を焼失。

三代目庁舎は、大綱小学校を仮区役所とした。

四代目庁舎は、昭和22年2月に二代目庁舎を復旧。

五代目庁舎は、昭和35年4月に鉄筋三階建てとして竣工し、昭和53年まで使われた。昭和55年8月27日からは港北図書館・菊名地区センターとなっている。

六代目庁舎は、昭和53年(1978)11月に現在の地に新築・移転した。