港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第36回 悲劇の横綱 武蔵山

神奈川県出身力士で、唯一角界(かくかい)の頂点に登り詰めた人がいます。第33代横綱武蔵山武(むさしやまたけし)です。
武蔵山武、本名横山武(よこやまたけし)は、明治42年(1909)に日吉村字駒林(こまばやし)の農家の長男に生まれました(昭和44年没)。少年時代から怪力の持主で、荷車を引いた子牛が坂道を上れないでいるのを見て、子牛の代わりに自分で荷車を坂の上まで引いたという逸話(いつわ)が残っています。
横山少年は、大正14年(1925)に16歳で出羽ノ海部屋に入門しました。綱島諏訪神社の草相撲(祭相撲)で認められたという説と、明治神宮競技大会(現在の国体のようなもの)の神奈川県代表となったのが目にとまったという説があります。
武蔵山は、右腕の怪力を活かした豪快な相撲で、大正15年(1926)の初土俵からわずか7場所で入幕を果たし「飛行機」の異名を取りました。その後も勝率7割9分をほこる強さでスピード出世し、昭和6年(1931)5月わずか21歳5ヶ月で初優勝を果たします。これは現在でも歴代4位の若さです。ちなみに、準優勝7回は戦前では第2位の記録です。
郷土の誇り武蔵山は大人気で、「武蔵山会」と名付けられた後援会には神奈川県出身者が多数集まり、応援歌が作られ、昭和6年6月には『武蔵山』(大綱村生まれの俳人飯田九一(いいだくいち)と川崎生まれの詩人佐藤惣之助(さとうそうのすけ)が編集)という雑誌も刊行されています。
翌昭和7年(1932)1月には小結から関脇をとばして一気に大関に昇進しました。これは近代相撲の歴史の中でも前田山(第39代横綱)と2人だけしかなく、角界からいかに期待されていたかが分かります。
昭和10年(1935)5月に横綱昇進が決まります。この時、身長6尺1寸5分(186センチ)、体重31貫(116キロ)でした。
武蔵山の親孝行は有名で、昇進時のインタビューに、「日吉村のおっかさんには今日は会えないが、もちろん、電報を打ちますよ、ホッホ、ホッホ」と笑って答えています。
しかし、同じインタビューで、「此(この)場所の前から右の腕を痛めてね、曲らないのを毎日治療して出たので自信は全くなかった(中略)今度旅がすんだら二ヶ月位余閑をもらって養生します。体さえ良ければどんな相手でも愉快にとれるがなあ……」とも話しています。
武蔵山が「右の腕を痛めて」と言ってるのは、昭和6年(1931)10月の大阪本場所9日目、沖ツ海との対戦で骨折した右腕の古傷のことです。これが悲劇の始まりでした。当時の本場所は年2場所でしたが、横綱昇進後は、この古傷が悪化して満足に相撲が取れない状態となり、わずか在位8場所(内皆勤1場所)で、昭和14年(1939)5月に隠退せざるを得なくなり、「悲劇の横綱」と呼ばれました。いまだ29歳5ヶ月の若さでした。この怪我さえなければ、昭和11年(1936)から14年(1939)にかけて69連勝したあの双葉山と数々の名勝負を繰り広げたものと思います。
12月5日は武蔵山の誕生日です。生家の隣が菩提寺の金蔵寺です。本堂右脇に横綱遺愛の松もあります。一度参詣してみませんか。

(2001年12月号)