港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第91回 神様になった名馬「いけずき」


平家追討を進める源氏方の中で、木曽義仲(きそよしなか)が最初に京都へ入ります。しかし、治安維持に失敗し、義仲は頼朝(よりとも)方と対立するようになり、元暦元年(げんりゃくがんねん、1184年)正月20日、宇治川(うじがわ)を挟んで木曽義仲軍と源義経(みなもとのよしつね)軍が戦うことになりました。この時、義経の配下にいた佐々木高綱(ささきたかつな)は、同僚の梶原景時(かじわらかげとき)と共に宇治川を渡り敵陣へ攻め込む先陣争いをします。先を行くのは梶原景時、後れをとった佐々木高綱は、一計を案じ「梶原殿、この川は西国一の大河でこざるぞ、馬の腹帯が伸びて見える、締(し)めたまえ」と声を掛けます。梶原が腹帯を締め直している間に高綱が先行します。だまされたと気づいた梶原は急いで追いかけますが、間に合いません。宇治川を渡った高綱は、一番乗りの名のりをあげて勝利に貢献しました。ちょっとずるいですよね。
この時、高綱が乗っていた馬が「いけずき」で、景時の馬は「磨墨(するすみ)」といいました。共に源頼朝から拝領した馬で、歴史上屈指の名馬です。『平家物語』によると、いけずきは、黒栗毛(くろくりげ、茶褐色)で肥え太った逞(たくま)しい馬で、馬でも人でも噛みついてそばに寄せ付けない荒い気性をしていたので、「生食(いけずき)」と名付けられたと書かれています。生き物を食べる(古くは「食く(すく)」といいました)という意味です。
これを読むと、筋骨たくましい巨大な馬を連想してしまいますが、実は体高(たいこう)が4尺8寸(よんしゃくはっすん、約145センチ)だったといわれていますから、今のポニーくらいの大きさです。「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」で畠山重忠(はたけやましげただ、第89回参照)が愛馬「三日月(みかづき)」を背負って駆け下りたという話がありますが、あながち荒唐無稽(こうとうむけい)と片付けることは出来ないようです。
いけずきは、「池食」「池月」「生喰」「池★(口偏に妾)」「池付」「生吻」などとも書かれます。各地に残る伝承では、母馬が早くに亡くなり、池に映った自分の姿を母馬と間違えて飛び込んでいたことから「池月」の名が付いたともいわれています。いじらしいお話です。
さて、宇治川の合戦で活躍したいけずきは、佐々木高綱の所領である鳥山町で余生を送り、年老いてこの地で死んだと伝えられており、その場所を「御馬死(おんまし)」といいます。高綱は遺骸を大切に葬り、その霊をなぐさめるために小さな社(やしろ)を建て、駒形明神(こまがたみょうじん)として祀(まつ)りました。駒形明神には、戦国時代に出陣する武士がいけずきの活躍にあやかれるようにと馬を牽(ひ)いて戦勝祈願に来たとか、すぐ近くにいけずきが使っていた井戸があり、その水を飲ませると馬が元気になるとか、いけずきの命日には真夜中に馬のいななきが聞こえるとか、様々な話が伝えられています。駒形明神は長い間に朽(く)ち果て、かわりに馬頭観音堂(ばとうかんのんどう)が建てられました。お堂は、城郷小学校の脇の道を南に下った三叉路(さんさろ)の角(鳥山町462番地)に今でもあります。
このいけずきの墓ですが、実は福岡県小郡市(おごおりし)、鹿児島県霧島市にもあります。ちょっと気になったので、いけずきが生まれた場所も調べてみました。私が調べただけでも、青森県から鹿児島県までなんと全国各地に39か所見つかりました。ちなみに、磨墨は石川牧(いしかわのまき、青葉区の辺り)で生まれたという説がありますが、やはり全国各地に伝承が残っています。いけずきと磨墨は、同郷で一緒に育ったという伝承も各地にあります。なぜこのようなことになったのでしょうか。武士の世の中になり、軍馬の需要が高まると、全国各地の牧場(まきば)は名馬の産地として名を上げたくてこのような伝説を生んだものと思われます。

(2006年7月号)


「いけずき」誕生地の伝承
青森県六ヶ所村
青森県七戸町・
宮城県鹿島台町・
宮城県松山町
栃木県田沼町・
群馬県桐生市・
千葉県柏市・
千葉県丸山町・
千葉県鴨川市
千葉県大原町・
千葉県鋸南町・
東京都大田区洗足・
東京都青梅市
神奈川県横須賀市・
神奈川県津久井郡藤野町・
山梨県上野原市・
静岡県函南町・
三重県鈴鹿市
三重県伊賀市・
兵庫県淡路市
鳥取県福部村(鳥取市)・
鳥取県岩見町・
島根県雲南市・
島根県仁摩町・
島根県西郷町・
島根県五箇村・
島根県掛合町・
島根県隠岐の島町・
広島県豊平町・
山口県下関市・
徳島県美馬市・
福岡県北九州市戸畑区牧山・
福岡県小郡市味坂町・
大分県別府市・
宮崎県都農町
長崎県生月町
長崎県対馬・
鹿児島県池田湖(山川町か)・
鹿児島県横川町