小机の今昔を歩く


(木の葉会散策用資料、平成18年3月23日)

平井 誠二

集 合 10:00 小机駅の改札外に集合

解 散 1次解散 金剛寺

2次解散 本法寺

最終解散 雲松院

ルート (天候等により変更有り)

10:00 小机駅集合 → 鶴見川流域センター(トイレ) → 11:20 小机城址(トイレ、昼食) → 金剛寺 → 住吉神社(トイレ) → 泉谷寺門前 → 本法寺(トイレ) → 雲松院 15:00 解散 → 小机駅

距離 最長6.5キロ(コースにより変更有り)

横浜線と小机駅

明治41年(1908)9月23日 横浜鉄道株式会社線開通、小机駅開業、1日5往復の運行。

・八王子や信州で生産されていた生糸を横浜へと運搬する日本のシルクロードといった目的で、東神奈川駅~八王子駅間が開業。

・開業当初、駅の周辺には田畑が広がるのみで人家はわずか二・三戸だった。

・大正末期にようやく駅附近の開発が始まり、やがて駅の周辺に家々が立ち並ぶようになった。それまでの小机の中心部は、小机城のふもと、堀崎にあったが、小机駅の近くが中心地に変わっていく。

大正6年(1917)10月1日  国有化され、横浜線となる。

大正12年(1923)9月1日  関東大震災により、最初の小机駅舎が倒壊。

大正14年(1925)2月19日 2代目の小机駅舎、竣工。

・木造平屋建ての駅舎。一番のりばのある単式ホームの脇、南口にあたる場所に設けられていた。当時単式ホームから島式ホームへは、ホームの東神奈川寄りにある一本の跨線橋でむすばれていた。また駅の北側から駅の構内に行くには、駅から離れた踏切を渡らなければならなかった。

大正14年(1925)4月1日  東神奈川~原町田間が電化(教育線、電車運行は昭和7年11月1日より)

平成9年(2001)7月   ワールドカップに間に合うように、事業費約10億9,000万円の計画で駅の改修工事に着手。仮駅舎を整備後、南北自由通路と橋上駅舎を建設。

平成10年(2002)10月  3代目の橋上駅舎の使用を開始。

平成12年度(2004年度)の1日平均乗車人員は9,198人。

新横浜駅へ1.7キロ、鴨居駅へ3.1キロ。

鶴見川流域センター

平成15年(2003)9月23日オープン

・日産スタジアム(横浜国際総合競技場)、平成10年(1998)3月完成、総工費603億円、7万人収容。

・日産フィールド小机(小机競技場)は、日産スタジアムの補助競技場として整備された「日本陸上競技連盟第3種公認全天候型トラック」の陸上競技場

・多目的遊水地(2003年6月15日運用開始)と新横浜公園(横浜市が整備中)

小机城址 小机町237番地

海抜42メートル、飯田城、根古屋城ともいう。

・小机城の築城時期、築城者は分からない。

●鎌倉期築城の説

佐々木泰綱がこの辺りを開発した13世紀(1239年)以降ではないかとの説。

●室町期築城の説

この辺りは上杉氏の勢力下にあり、西方(緑区三保町)にはその支配下の榎(えの)下(した)城があったことから、それと係わりのある城だろうという。

・榎下城は室町時代前半に上杉重兼の次男憲清によって築城された。やがて永享の乱(1438~39)勃発すると城主の上杉憲直(憲清の子)は鎌倉公方足利持氏に加担して幕府軍に敗れ、持氏は自害、憲直は持氏が出家した金沢称名寺を守るところを攻められて自害した。その後関東管領上杉氏は榎下城よりさらに堅固な小机城に拠点を移していったものと考えられる。

*中世の城について

・中世の城郭は、近世に築かれた大規模な「城」とは、その機能・性格が異なる。

・中世には、天然の地形を利用して、半島状に突き出た丘陵や台地の先端部を城としたものが多い。その設備も櫓(やぐら)・木柵等のほか、小規模な土塁や空(から)堀(ぼり)を伴う程度。居館・住館は、多くの場合城外にあった。

・横浜市には、小机城の他、青木城、榎下城、馬場城、荏田城などがあったが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かつての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかでない。

・1476年(文明8)  関東管領山内上杉家の家臣長尾景春が家督争いから反乱を起こし79年3月から小机合戦が始まった。小机城主矢野兵庫助は景春方に味方し、扇谷上杉氏配下の太田道灌が城を攻めた。

・1478年(文明10) 太田道灌が率いる軍は、鶴見川対岸の亀之甲山(新羽町亀ノ子橋付近)に陣を張り、長期戦となった。道灌は、疲れの目立つ兵士に、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりちりとなる」と詠い、励ました。やがて、小机城は落城し、以後は、一時廃城となった。

・その後、上杉氏も北条早雲に追われ、小田原北条氏の領地となり、40年余にわたり廃城となる。

小田原北条氏と小机衆

・16世紀、小田原北条氏が、相模から武蔵を支配下に入れると、大永4年(1524)、南武蔵の拠点として小机城の大修築を行った。

*永正9年(1512)に北条早雲の支城となり、重臣笠原越前守信為を城主として大規模な改築を行ったとの説もある。

・北条五大老の一人、笠原越前守信為が城代となる。

城代 笠原越前守信為-笠原能登守康勝-笠原平左衛門照重

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原北条氏滅亡。

・小机城4代目城主の笠原弥次兵衛重政が徳川家康の旗本として200名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村町)に住むことになり、小机城は廃城となった。

・遺構は非常に良く残り、西郭・東郭を中心とする本丸の土塁・空濠・土橋・櫓台等が明確に認められる。

・空濠は幅20メートル、深さ10メートルに達する。

『江戸名所図会』(1836、天保7)を編纂した斎藤幸雄・幸孝親子、挿絵を描いた長谷川雪旦

雲松院・小机城址・泉谷寺などを見学……「小机城址と雲松院」「泉谷寺」の二枚の挿絵がある

小机城址市民の森

・昭和52年(1977)10月1日、港北区内で最初の市民の森として開園。面積4.6ヘクタール。

小机城址祭り

・第1回は、平成5年(1993)、今年は第14回、4月2日に開催予定。

竹灯籠祭り

小机城址市民の森で開催、2004年から始まる、10月末~11月初旬に開催。

富士仙元

・鐘楼跡(物見台跡)……江戸期に富士塚となる。

・畑を過ぎ雑木林の尾根道を進むと、富士仙元に着く。頂上には「富士仙元大菩薩」の石碑が建っている。

金剛寺 小机町952番地

医王山金剛寺、本尊は薬師瑠璃光如来坐像(行基作という)、像高68センチ。

・1748年(寛延元) 金剛寺、創建(「開闢覚」には1540年(天文9)創建とあるらしい)

・1786年(天明6) 雲松院19世大継良大和尚により、曹洞宗寺院として開山されたという。

・1876年(明治9) 金剛寺下に小机学校の新校舎ができる

・1929年(昭和4) 2.2 金剛寺焼失

・現在の本堂は、昭和60年(1985)再建。

武南十二薬師第七番札所

・安永8年(1779)発起、天明2年(1782)寅年に第1回の開帳、次回は平成22年(2010)で第20回になるのか。

・薬師如来……病気平癒の仏

・寅年……広隆寺(京都)の薬師如来像を安置したのが、長和3年(1014)の寅年寅の日だったことから

石段下の庚申塔……寛文9年(1669)建立……小机村がかつて都筑郡に属していた証か(矢ノ根庚申塔、第3京浜下庚申塔なども)

住吉神社 小机町110番地、字宮原

・創建年代不詳、小机領総鎮守。

・大阪の住吉大社より分霊を勧請したというが、その年代も不詳。

・平成7年(1999)10月に新社殿が竣工。

・杉山神社およびその氏子集団との関係やいかに?

*住吉神社の説明板=「上古小机根古屋と称す百八ヶ村の首郷なりと言う水郷一帯の時代に源を発し」

小机城物故者供養塔 小机町135-9

その他多数の石仏(主に江戸中期)が集められている。

泉谷寺 小机町字泉谷256番地

浄土宗、松亀山本覚院泉谷寺、東京芝増上寺の末

・本尊の秘仏観世音菩薩立像(長1尺8寸)は、開山当時より伝わる古仏。

・元亨年間(1321~24)の開創で、元は本覚院と称したという。

・大永3年(1523) 二宮織部正が父の菩提のため、見誉悦公を招き、開山とし現在の寺号に改めた。

・寛永19年、徳川家より朱印状。当時は末寺100ヵ寺余、塔頭末庵43軒を有し、関東三触頭の1つとして葵の紋を許され興隆した。

・1622年(元和8)と1777年(安永6)の二度の火災で衰微。

・1781年(天明元) 20世極誉恵頓により再建。恵頓は『泉谷瓦礫集』の著者としても知られる。

・1809年(文化6)1月28日 大田南畝、小机のそうめん作りを見学、翌29日に『泉谷瓦礫集』を書写。

・1834~40年(天保5~11) 第26世立誉了信(広重の兄弟)が住職を務めていた

この頃、安藤広重が泉谷寺に滞在して杉戸絵などを描いたらしい

・昭和3年(1928)  詩人野口米次郎、泉谷寺の杉戸絵を発見(紹介)。

・昭和33年(1958)1月14日 杉戸絵が神奈川県重要文化財に指定される

小机領三十三所子年観音霊場

・平安時代以降、しだいに観音巡礼が盛んになり西国(33)、板東(33)、秩父(34)、江戸期にはあわせて100観音と称された。さらに各地に地方霊場も作られた。

・享保年中(1716~36)に成立し、宝暦6年(1756)春に最初の開帳、二年後の2008年4月が21回目の開帳か

・戦前は33ヶ所を2泊3日で廻っていた。

・一番札所が泉谷寺

(御詠歌)ふだらくや ひゃくはちごうの つみとがを いづみがたにで あらひきよめて

二番札所が三会寺

本法寺 小机町字土井谷戸1379番地(◎)                   *1424番地(×)

日蓮宗、長秀山本法寺、東京池上本門寺の直末

・1539年(天文8)10月 綱島太郎の発願により、池上本門寺9世東眼院日純聖人を開山と仰ぎ、綱島に創立。

天正の始め、小机城家老の一人鈴木丹後守が、綱島から小机村字堂之脇へ移転させ長秀山本法寺と改称。

・1703年(元禄16) 大地震と鶴見川の出水により、本尊が流される。

・1819年(文政2)、度重なる鶴見川の氾濫により、現在地に移転

・1873年(明治6)  本法寺の寺子屋が小机学舎となる(城郷小学校の前身)

・楼門は、2階が釣鐘堂になっている。

俳画塚……飯田九一の俳画塚、昭和46年(1971年)建立。

句碑……うくひすや 親子ならんて 老を啼   海山(飯田快三、九一の父、県会議員・大綱村長)

泥亀の 浮む瀬もあり 御祓川     助夫(飯田助夫、九一の兄、衆議院議員)

碑や 梅雨の雲影 遡る        九一(飯田九一)

句碑……雨寒く 土に染みゆく 草紅葉     華頂女(飯田九一の妻)

横浜市指定文化財

手水鉢 明治35年(1902)作。奉納主横浜市大田町の鈴木弁蔵(米成金、大正8年惨殺)。石工は名工の誉れ高い内藤慶雲(溝ノ口)と松原祐太郎。

*「鈴弁殺し」……大正8年の米価暴騰のあと、東大農学部出身の農商務省米穀局技師山田憲が、外米商で米価を私的に操作して儲けていた横浜の米成金・鈴木弁蔵をバットで殴り殺し、バラバラにしてトランクにつめ、信濃川に流した事件で、世間を驚かせた。

太子神社(太子堂) 小机町1443番地

・現在は愛宕町持ちだが、以前は職人達による太子講が持っていた。

・聖徳太子を祀る太子信仰。

雲松院 小机町字愛宕下1451番地

臥龍山雲松院、曹洞宗、本尊は虚空蔵菩薩像

・1525年(大永4) 笠原信為が亡父能登守信隆を追善するために開いたという。

信隆の法名「乾徳寺雲松道慶」から雲松院とした。

・本堂正面の「雲松院」の額……心越禅師(江戸前期、中国からの渡来僧)の書という。

横浜市指定文化財

『天童小參抄』(平成元年)……中国の禅僧の説法集を評釈したもので、現存最古の写本。

旗本笠原家の墓所(平成6年)

本堂及び山門(平成7年)……本堂は宝暦3年(1753)建立、山門は安政5年(1858)造立。

龍の伝説

雲松院の境内には池があり、龍が住みついていたので龍ヶ池とも呼んだ。夜になると、この龍が田畑を荒らして困るので、何とかしてもらいたいと里人から申出があった。そこで第5世住職宗頓和尚が封じ込めの経文を唱えること七日間、法の功徳かいたずらも止み、数日たった朝、池の中を見ると尺にも足りない蛇と化して死骸を浮かべていた。和尚は法華経を一字一石に書いて蛇の亡骸と共に山の中腹に埋め法華塔を建てて弔った(『港北百話』)。