「大倉山・太尾・新羽地区を歩く」


平成11年(1999)6月27日

主催:「We Love こうほく」実行委員会&港北区地域振興課

We Love こうほく 第14回


講師 大倉精神文化研究所専任研究員 平井 誠二

大倉山駅
開業 大倉山駅は、かつては地名の太尾を取って太尾駅と呼ばれていました。
大正15年(1926))2月14日、東京横浜電鉄(現、東急)の神奈川線(丸子多摩川~神奈川)が開通し、太尾駅もその時開業しました。地元の古老黒川太郎氏(86歳)の話によると、大曽根と太尾で駅の誘致合戦をして太尾に決まったそうです。当初はホームだけの無人駅で、駅舎はありませんでした。改札口は大倉山に登る坂道の途中、線路の脇ににありました。
第1号定期券 黒川太郎さんは、当時、三ツ沢の県立横浜第二中学校(現、横浜翠嵐高等学校)在学中で、自宅から自転車又は徒歩で通っていました。徒歩だと1時間半もかかっていたのが、開業後は反町駅まで電車通学となり、大変楽になったそうです。この黒川さんが太尾駅乗車の定期券第1号使用者になりました。当時の太尾村は純農村地帯、人口は700人程で、駅の利用者はほとんどおらず、1両だけの車内には朝の通学時間帯でも乗客は10名程度でした。
駅名の変更 その後、昭和2年に渋谷線(渋谷~丸子多摩川)が開業し、昭和4年からは、太尾町の山の上に大倉精神文化研究所の建設が始まり、利用者もしだいに増加しました。この山にはそれまで名前がありませんでしたが、研究所建設に伴い、通称で大倉山と呼ばれるようになり、昭和7年(1932)3月31日、渋谷~桜木町間の東横線全線開通に合わせて、駅名が太尾駅から、現在の大倉山駅へと改称されました。
やがて、小さな駅舎が作られ、駅員が1名勤めるようになりました。小森嘉一氏(元研究所員、91歳)の話によると、夕方、渋谷から東横線に乗り多摩川を越えると降りる人ばかりで、綱島あたりまでくると車内には数人の乗客しか乗っていなかったそうです。数年後には現在のようにホームの下、駅前通りに面して改札口が作られました。東横線は、近年まで鶴見川の氾濫により止まることがよくありましたが、特に昭和13年の大洪水では、大倉山の駅前で大人の胸あたりまで水没したそうです。
現在  現在の駅舎は、昭和59年に造られたものですが、高架下を消防車が通りにくいので、この時に線路を少し上にあげました。現在の乗降客は、1日平均51,970名(平成9年末)になっています。

太尾町
古くは「橘樹郡太尾村」といい、村内を三分して東から上太尾(駅前辺り)、中太尾、下太尾(鶴見川沿い)といいました。明治22年の市町村制施行の際に「大綱村大字太尾となり、昭和2年に横浜市に編入され「神奈川区太尾町」、昭和14年に「港北区太尾町」となりました。
地名の由来 「太尾」の地名の由来は、かつて海岸線がこの辺りまで来ていて、大倉山が岬のように海へ突き出しており、その形が動物の太い尾のように見えたことから付けられたといわれています。

太尾道(小机観音霊場道、市道大倉山第201号線)
綱島街道から大倉山駅前を経て新羽橋へ向かう道を「太尾道」といいます。大倉山駅から北西へ500メートルほど行くと歓成院というお寺があります。ここは、「小机領観世音三十三カ所」霊場巡りの十二番目になります。

エルム通り 太尾通をはさんで、駅前から西北にのびる商店街をエルム通りといいます。アテネ市のエルム通りと姉妹提携を結んでいます。「エルム」とはギリシャ語で商業の神のことです。昭和63年に、大倉山記念館にちなんでギリシャ風の町並みに統一しました。「まちなみ景観賞」を受賞しています。
ちなみに、東口商店街はレモンロードといいます。

大倉山記念館  (大倉精神文化研究所本館)
創設者 大倉 邦彦  明治15年(1882)~昭和46年(1971)
大倉邦彦は、佐賀県神埼郡の素封家江原家に生まれ、上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社しました。社長の大倉文二に見込まれて養子となり、文二の死後に社長に就任しました。邦彦は、社長として事業を大きく発展させましたが、真の経済活動とは単なる利益追求ではなく、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると考えていました。そして、教育の重要性を説き、私財を投入して、富士見幼稚園や農村工芸学院などを開設しました。この考え方をより深め、さらに広く普及するために大倉精神文化研究所を設立しました。また、昭和12年から18年まで東洋大学の学長も務めました。
研究所は、戦中戦後の混乱期に何度も存亡の危機を迎えましたが、邦彦は全私財をなげうって信念を貫き通し、研究所の維持発展に尽力し、昭和46年7月25日(三空忌)に89歳の生涯を閉じました。号を三空居士と称しました。
建 築 現在の横浜市大倉山記念館は、大倉精神文化研究所の本館として、昭和4年~7年に建設されました。
設計者 この建物は、長野宇平治が設計しました。長野は早稲田大学教授で日本建築士会初代会長にもなった有名な建築家です。奈良県庁舎、北海道銀行本店、横浜正金銀行東京支店などは彼の設計になります。
遺跡の発掘
基礎工事で山頂を掘ったところ、住居址や石器、土器などが出土しました。市域で発見された遺跡としては非常に早い時期のもので、当時はまだ縄文式と弥生式の区別も地域差と考えられていました。出土品は、現在も大倉精神文化研究所内に保管されています。
建物の特徴 プレヘレニズム様式の鉄筋コンクリート3階建。
昭和十年頃に作られた『所内しるべ』という建物の案内パンフレットがありますが、それを見ると、大倉邦彦は建物の細部にわたって色々と考えて設計させており、さらに建物だけではなくて研究所とか大倉山全体を一つの完結した世界と考えて造ったことが分かります。
この大倉山の土地というのは、昭和三年に大倉邦彦が東急の五島慶太から買い取って、ひと山全体を研究所の施設にしたのですが、『所内しるべ』には次のように説明してあります。
庭は日本並に東洋の地図を象って居ります。敷地全体九千坪の土地は世界を意味し、建物は個人を表はして居ります。かくして日本と個人と世界とは三位一体である意味を表はすものであります。
邦彦は、山全体を一つの世界、地球全体と見なして、この建物の前庭に日本列島の形を作り、それを「地理曼荼羅」と名付けました。そして、建物全体を人間にたとえました。世界全体と日本と一人の人間ということで、大倉山と前庭とこの建物とで三位一体を表わしました。
それでは、「人間の体を建物に展開した」というこの建物の中を見てみましょう。正面玄関を入ったところが「中央のホール」です。現在ではその奥の「殿堂」、つまりこの会場を「ホール」と呼んでいますので混同しそうですが…。その天井を見上げるとステンドグラスのようになっていて光が射し込んでいます。その周りに鷲と獅子の彫刻がぐるっと並んでいて、上から見下ろしています。今日のように天気の悪い日でも上から金色の光が明るく射し込むようになっています。この中央ホールの部分で人間の心を表しています。そのため、ここを「心の間」とも呼びます。
『所内しるべ』には、明治天皇の御製をそこで引いております。
さしのぼる朝日の如くさわやかに もたまほしきは心なりけり
さし登ってくる朝日のごとくさわやかに照り輝く光、これが上から降り注ぐ光であり、これは雨の日でも晴れの日でも必ず差し込んできます。その清浄な光が誠の心、つまり雑念や穢をうち払った後の清明心を表しているのです。
上にある獅子と鷲は細かく見ていきますと、別々の彫刻で形も向きも全て違っておりまして、下から見ると必ずどれかと目が合うようになっています。これは神仏はどこにいても必ず人間を見守っているということを表しています。人間に対して嘘はつけても神仏の目から逃れることはできない、常に誠の清い心を持たなければいけないのだよということをそこで表しています。
心を表すホールの奥が信仰をやしなう「殿堂」になります。ホールで誠の心に帰り、神前に近づく準備が出来て殿堂に入るのです。
大倉邦彦は、自身は仏教特に座禅に非常に傾倒するのですけれども、生涯言っていたことは、宗教的信念を持たなければならないが、仏教であるとか神道であるとかキリスト教であるとかイスラム教であるとか、宗教や宗派にとらわれてはいけない、大元は一つなのだということを力説しております。ですからここも宗教的な立場や考え方・信仰を持つことの大切さを説きながら、特定の宗派に偏らないということで作られていると聞いています。見ようによっては神社・神道風の建物にも見えますし、キリスト教の教会風にも仏教風にも見えるといったような形に設計をしたとも言われています。
さて、建物の中心部分、これが人間の体でいえば一番大切な心とその奥にある信仰であるということですから、邦彦はこの中心の部分を非常に重視して造りました。建物にはこの中心部分があって左右の両棟がありますけれども、中心部分が一番丁寧につくられていて、左右の部分は簡素につくられています。左右の部分は研究室や図書館になっています。つまり、人間は心・信仰の上にさらに知性・教養の部分を持たなければいけないということです。それが左右両翼の建物になります。そちらの方は、応接室や所長室を除くと装飾の方もなるべく簡素にして実用一点張りという形に造っています。
この建物は、大倉邦彦が約七十万円の私費を投じて全くの独力で造りました。現在なら数十億円に相当するのでしょうか。お金をかけるところにはしっかりかけて良いものを造っていますが、無駄なところにはお金を使わず、上手に造ってあります。
大倉精神文化研究所
設立の趣旨 大倉精神文化研究所は、「東西両洋における精神文化の科学的研究を行い、知性並びに道義の高揚を図り、公民生活の向上充実に資し、もって世界文化の進展に貢献する」ことを目的としています。
沿革 大倉精神文化研究所は、昭和7年4月9日に大倉山の地に設立されました。現在の横浜市大倉山記念館は、研究所の本館としてこの時竣工したものです。
大倉邦彦は、所長として研究所の経営・指導にあたり、各分野の一流の研究者を集めて、学術研究を進めるとともに、精神文化に関する内外の図書を収集して附属図書館も開設しました。また、学生・教育者・一般人などを対象とする精神教育にも努め、『神典』その他の多くの図書を編集・刊行しました。
研究所は、その後昭和11年に財団法人となり、活発な活動を展開しましたが、第二次世界大戦により、活動は一時中断を余儀なくされました。
戦後は、名称を「大倉山文化科学研究所」と改称し、活動を再開しましたが、財政難により苦しい経営が続きました。そうした中で、昭和25年から35年まで、附属図書館を国立国会図書館の支部図書館としたこともありました。
昭和34年に名称を元の「大倉精神文化研究所」に復しましたが、昭和46年に創設者の大倉邦彦が死去すると、経営は一層困難になりました。そこで、昭和56年に敷地を横浜市に売却し、財政的基盤を確立しました。建物は同時に横浜市に寄贈しました。こうして、活発な活動を再開し現在に至っています。
大倉精神文化研究所附属図書館
開館日時  火曜日から土曜日の午前9時30分~午後4時30分
(日曜、月曜、祝日、年末年始は休みです)
蔵書の概要 哲学、宗教、歴史、文学などの図書や雑誌を入門書から専門書まで揃えています。特に、神道、儒教、仏教、日本史などの図書は古書から新刊書まで豊富に備えています。また、公開書庫にはベストセラー、今話題の本などもあります。
・開架図書 14,916冊 ・閉架図書 67,407冊(平成11年3月末現在)
利用方法 どなたでも自由に利用できます。
一般図書や参考書は、公開書庫で直接調べたり、探したりできます。専門書は、書庫からお出ししますので、閲覧室で読むことが出来ます。公開書庫の本については、どちらにお住まいの方にも一人1回5冊まで、2週間お貸しします。
また、神道・儒教・仏教・日本史などの参考書に関する質問にお答えします。
図書や雑誌のコピーも、一枚30円でお受けします。

鎌倉古道
「いざ鎌倉」の非常時に、地方の御家人が一族郎党を引き連れて鎌倉に馳せ参じるために整備された道を「鎌倉道」といいます。区内を通る鎌倉道は、「下の道」と呼ばれます。
旧綱島橋 → 大乗寺前 → 大倉山公園南縁 → 歓成院北側 → 正覚寺東側

梅林
観梅の歴史は古く、すでに奈良時代から行われており、『万葉集』には118首の歌が載せられています。これは桜の3倍以上で、それほどに人気がありました。
さて、大倉山駅を下車して線路沿いに坂道を登り、大倉山記念館の脇をぬけて少し下ると、龍松院の手前に梅林が見えてきます。この梅林は、東急電鉄が龍松院から土地を購入し、昭和6年に開園したもので、小森嘉一氏(90歳、大倉精神文化研究所元研究員)の話によると、学芸大学の辺りにあった金持ちの方の別荘の梅を移植したのが始まりだそうです。その後、昭和18年頃に大倉邦彦が旧制の高等学校を大倉山に開校しようとしたとき、校地に譲り受ける計画もありましたが、実現しないままに、戦後を迎えました。
戦後も梅林には数百本の梅が咲き誇り、東横線沿線の観光地として賑わい、かつては観梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に止まったこともあったそうです。
梅林は、昭和58年から61年にかけて東急から横浜市に売却され、再整備の上、平成元年に今の形で開園されました。現在は、25種類、約180本の梅が植えられています。一番本数が多いのは大きな実を付ける「白加賀」ですが、中国伝来で花が緑色がかった「緑萼梅」、白とピンクの花を思いのままに咲かす「思いのまま」などといった珍しい梅もあります。6月頃には、実を付けますが、港北観光協会から園芸農家に依頼して実を集め、協会推奨の大倉山梅酒「梅の薫」を造り、観梅会の時に販売しています。観梅会から1ヶ月程すると梅林周辺は桜が満開になります。
梅の木の一覧
一重野梅(ひとえやばい) 2本
田子の浦(たごのうら) 1本
古今集(こきんしゅう) 2本
八重野梅(やえやばい) 1本
思いのまま(おもいのまま)1本
見驚(けんきょう) 3本
筑紫紅(つくしこう) 1本
八重寒梅(やえかんばい) 1本
野梅(やばい) 11本
月影(つきかげ) 2本
白玉梅(しらたまばい) 2本
緑萼梅(りょくがくばい) 3本
大盃(おおさかづき) 1本
八重唐梅(やえとうばい) 5本
鹿児島紅(かごしまこう) 1本
唐梅(とうばい) 3本
桜梅(さくらばい) 1本
白加賀(しらかが) 40本
豊後(ぶんご) 1本
花香実(はなかみ) 1本
臥龍梅(がりゅうばい) 1本
茶筅梅(ちゃせんばい) 1本
その他     不明 約80本

東横神社(太尾町1014 神域330㎡)
昭和14年6月22日、東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄両社社長五島慶太が両社の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営し、伊勢の神宮より本体を遷座したものです。翌23日鎮座奉祝祭と物故殉職社員の慰霊祭が行われ、渋沢栄一をはじめとして44柱が合祀されました。その後、毎年慰霊祭が行われており、昭和34年からは五島慶太も祀られています。神社は現在でも東急の所有であり、関係者以外の参拝は出来ません。

龍松院 (曹洞宗虎石山龍松院)
文殊堂由来石碑(文殊堂前の入口左手側)
文殊堂智恵殿には、小机城主笠原能登守康勝公が陣中常に胸に掛け奮戦せる不動尊像(文安三年1446年作)と、君主北条早雲公より拝領の文殊菩薩像を霊感により合祀して、堂宇を建立した。慶安三年(1643年)徳川三代将軍家光公は此の由来を聞し召され、文殊堂領として九石余の御朱印を賜り、代々将軍家より下賜さる。爾来、出世文殊、怪我除け不動と近郷の者より深い信仰を集めた。
是れ、龍松院の起源なり。
昭和五十九年七月吉祥日
龍松院廿五世憲雄代建立
「龍松院由来」石碑(山門入口右手側)
開創 大順宗用和尚永禄三年(1560)示寂
開基 小机城二代目城主(所領拾万石)笠原能登守康勝公
開山 小机雲松院明山宗鑑大和尚
縁起 当院は、笠原能登守龍松院殿外視禅眼庵主(天文年間歿不詳)が、霊夢により文殊堂を建立。其の後六代を経て雲松院九世明山宗鑑大和尚万治四年示寂(1661年)を請じて開山とした。寛政八年(1796)出火炎上。天保二年(1831)十六世元明祖享和尚再建したが、老朽化したので、昭和五十四年廿五世禅鼎憲雄和尚改築、現在に至る。
昭和五十九年七月吉祥日
虎石山龍松院廿五世憲雄代 建立
山門の前には、六地蔵、観音菩薩石像、庚申塔があります。
文殊菩薩像(湛慶作という)は、長さ1寸8分(約5センチ)の、獅子に乗った像です。境内の文殊堂脇には、笠原氏を祀った五輪供養塔が2基あります。
本尊は釈迦牟尼仏。
毎年4月25日に文殊菩薩の御開帳があります。
笠原氏 笠原氏は、小田原北条氏の家臣です。一時廃城となっていた小机城が、北条氏の勢力下に置かれたのに伴い、笠原越前守信為がその城代となりました。この笠原氏の下、近在の武士団は小机衆として組織され、小机城は後北条氏の有力な支城となりました。太尾村周辺もその勢力下におかれ、大倉山の北側の山裾に笠原氏一族の者が砦を築き住んでいました。その跡地を「殿谷」といいます。
天正18年(1590)の北条氏滅亡により、笠原氏は冨川と名前を変えました。旧家の冨川家はその子孫になります。
小机の雲松院は笠原信為が建立した笠原氏の菩提寺です。龍松院はその末寺になります。

地蔵と順国供養塔
地蔵は、元文3年(1738)12月11日に太尾村の若中と大曽根村の3名が願主となり建立したもので、「寒念仏供養」と彫られています。
順国供養塔は、元文5年(1740)12月吉祥日の日付で、「奉納 秋津洲順国供養」と彫られています。

太尾神社
かつて太尾村には、神明社(2)、天満社、八幡神社、杉山神社、熊野社がありました。明治6年の村社指定の際に、村民が各地区ごとに祀っている氏神を固執して譲らなかったために、中間をとって大倉山の上の明神社を村社としました。しかし、その後も村社一社と無格社数社が存在し、祭礼や参拝に不便でしたので、昭和33年6月9日、旧杉山神社跡地に各地区の諸社を合祀して社号を「太尾神社」と改め、全町の鎮守としました。

検見道(きね道、けめ道)
江戸時代に領主や代官の使者として検見役が毎年廻村して、その年の作柄を検査しましたが、その時に通った道筋です。
大綱中学校の北側に沿って、駅前通り(太尾道)と平行している余り幅広くない道路で、綱島街道から池内精工までです。
山を挟んで北側の太尾町にも検見道があります。

太尾見晴らしの丘公園
平成11年度に整備される予定。

三峯神社
古老の話では、かつては富士浅間神社を祀ってあったが、いつの頃からか三峯神社になったといいます。道路脇の鳥居や手水鉢、祈願碑などはいずれも嘉永元年(1848)に建立されたものです。
江戸時代には、庶民の間で山岳信仰が盛んになり、三峯講、大山講、富士講など霊山に対する信仰集団が結成されました。各講では、お金を積み立てて代表者が代参をしましたが、神社を勧請したり、富士塚を築いたりすることもありました。

鶴見川
洪水 区内の平地はその大半が鶴見川やその支流である大熊川・鳥山川、早淵川、矢上川などによって形成されたものです。その本流である鶴見川は、川の勾配が緩いために水の流れが遅く、その上に流路が大きく湾曲しており、また川幅が狭いため、大雨が降ると洪水になりやすいのです。
さらに、大倉山のあたりから下流にかけては川底が岩盤になっていて、容易には掘り取れないため、下流の川床が比較的浅い状態にあったこと。さらに、上流にある恩田川や区内で合流している大熊川以下の支流が、支流とは呼べないほど大きいため、そこから大量の水が流れ込むといった悪条件が重なっていました。
そのため、区域での大雨はもとより、上流地域だけでの集中豪雨でも氾濫することがありました。
旱魃 港北区内の平地はその大半が鶴見川と、その支流である大熊川、鳥山川、早淵川、矢上川などによって形成されたものです。そのため、水はけの悪い低湿地で水害に悩まされたのですが、それに加えて、なぜか旱魃の被害も受けていました。
これは、本流である鶴見川が、川の勾配が緩いために河口から海水が昇りやすく、満潮時には新羽橋の近くまで来たことによります。そのため、鶴見川からの農業用水確保が困難であり、水はけの悪い低湿地でありながら、少し日照りが続くと旱魃の被害を受けたのです。
灌漑溜池 農業に依存していた昔の人々は、その対策として多くの溜池を作りました。現在ではほとんどが埋め立てられてしまいましたが、昭和30年代頃までの古い地図を見るとよく分かります。諸岡熊野神社の「いの池」は、片目鯉の伝説で有名ですが、わずかに現存する灌漑用溜池の一つです。
水害と旱魃の両方の被害を受けたため、区域の農地は生産性が低く、人々は大変苦労しました。かつては、「新羽や太尾へ嫁・婿にくれるな。蛙が小便しても大水が出る」といわれました。
野菜生産 状況が好転するのは、幕末に開港した横浜が都市化して巨大な消費地となって以降のことです。生鮮野菜の需要が急激に伸び、港北区域も明治の中期からその供給地となりました。中でも菊名や篠原の大根、太尾のタマネギ、大曽根のそら豆、樽の小蕪、綱島の桃、小机のイチゴなどは特産品として有名でした。
舟運 さて、鶴見川に河口から海水が昇りやすいことは、一方で住民に利益ももたらしました。満潮時に新羽橋の近くまで遡行する水流を水運に利用したのです。道路が整備されてトラックなどの陸上輸送が盛んになる大正初期までは、水運は物資輸送の中心を占めており、旧太尾橋や大綱橋の近くにあった河岸を中心に商店街が形成されていました。船では、川下から下肥(人糞)を運び、農地の生産力を上げるための肥料にしました。こうして、良くも悪しくも昔の人々は川と共に生活をしていたのです。
堤防 鶴見川の氾濫防止のために、江戸時代から堤防工事が続けられました。しかし、一方が頑丈になると対岸が決壊する可能性が高くなるために、両岸の村々で対立することも多く、寛政4年(1792)など訴訟になることもありました。
明治43年(1910)の大洪水をきっかけに、神奈川県が中心となり鶴見川の改修工事が行われ、大正3年(1914)に現在の位置に堤防が築かれました。その後、昭和13年の決壊で作り直し、昭和27年に現在の高さの堤防となりました。

太尾橋跡
昭和50年頃まで橋がありました。鶴見川はこの辺りまで潮が遡り、それを利用した舟運が盛んで、この辺りに河岸がありました。
鳥山川 現在の鳥山川は、新横浜駅の近くで鶴見川がカーブを描いている場所(いわゆる大曲)から分岐している支流の一つであるが、江戸時代から昭和40年代までは、太尾橋の辺りから分岐し、現在の太尾新道沿いに大曲の辺りまで流れていた。この川は、鶴見川の水害時の水量を減らす分水路であり、塩分を含まない真水の用水路として、干害に悩む太尾村の人々に重宝がられた。元禄14年(1701)には鳥山川からの用水の利用に関する取り決めがなされていることから、鳥山川はそれ以前に完成していたものと思われる。
一時はシジミがたくさん採れ、そばの堤防に桜が植えられて「桜並木」とまで呼ばれた並木道もあった。このきれいだった川も、都市化と住宅化のあおりを受け、治水体制の整備が進んだこともあって、埋め立てられて、昭和50年の太尾新道の開通とともに消えた。今はたた新横浜駅付近の川としてそこの部分がかうじて残ったのみである。   (港北高校社会科研究部『太尾町の歴史』後編、昭和59年)

新羽町
「新」は新開地(開墾地)を示し、「ハ」は「山の端」を意味するといわれます。
新羽郷の地名の初見は、正応3年(1290)で鶴岡八幡宮の文書に見えます。執権北条泰時は延応元年(1239)に、佐々木泰綱に命じて、小机郷鳥山周辺の開発を行いますが、新羽郷はその北限として開発されたと推定されています。
古くは「都筑郡新羽村」といい、明治22年の市町村制施行の際に吉田村、高田村と合併して「新田村大字新羽」となりました。その後、昭和14年に横浜市に編入され、「港北区新羽町」となりました。
新羽町は、港北区内で最も工場の多い地域です。区内にある1,255の工場(平成3年現在)の内、348工場が集中しています。

中の窪
中にある窪地につけられた地名。中井根の南にある平坦地の地名で、「中久保」ともいい、西側は丘陵がせまっていて崖地となっている。
(吉野孝三郎『新羽・吉田の地名』)

連引百万遍
注連引百万遍は、昭和54年に新羽小・中学校の創立にあわせて復活しました。そして、横浜市民俗無形文化財に認定されていましたが、平成8年よりワラ不足などによ、中断してしまい、現在は小学校三年生の授業で蛇を作るだけになっています。しかし、復活の要望も強く、平成12年より再開される予定です。
川口謙二『かながわの祭り 25 シメヒキ』
昭和52年新羽村中之久保で復活した(昭和17年戦時中中止)。この方は、「シメヒキ」と呼んでいて、現在でも毎年4月15日午後1時より集落中央の町内会館で蛇体が作られる。中之久保のシメヒキ百万遍念仏講中21軒(小山姓11軒、米山、渡辺、長沢、藤川の旧住民)より一人ずつ出て、昨年の稲藁で5m程の蛇体を3体作る。
蛇の舌、目はカツの木を削ったもので舌は赤くぬられ、目玉は墨で描かれる。頭は七五三に市松に編まれる。蛇体はシメ縄模様によられて、蛇頭、蛇体、目、舌を最後に組み合わせて一匹の蛇ができる。
舌と目、頭、胴と三組に分かれ分担して作る。また講中21軒のために、小さな3~40センチの蛇体様のものを別に作る。この小さな蛇体は講中各戸に配布されて門戸に掲げて、除魔寒障のまじないとする。
一方大きな三体の蛇体は中之久保はずれの庚申塔の雨屋、小学校下、会館の集落入口の三ヶ所に飾り付け、疫災疫病疫神等の侵入を防ぐまじないにしている。
『新田物語』6号
小山清作氏の話 先輩の話によればね、昔この地域に疫病が流行して村人達が難儀をした時があったそうです。そんな時、何処からともなくやって来た行者が、疫病を根絶するためにワラ蛇づくりをして、地域の出入り口にあるヒイラギの木にかけて、病魔を退散させてくれることを教えてくれたそうです。ワラ蛇つくりの日は4月15日、お念仏は5月1日と分けて行っています。女衆のお念仏も、旅の行者が教えていったのかもしれないね。
『港北区の遺跡をたずねて』
お祀りは四月十五日講中二十一軒が集り萱の蛇を作り、道祖神の脇の木にかける蛇祭り。五月一日百万遍念仏講をお供えする女祭りがあり、市の無形文化財に指定されている。
◎同様の行事は、吉田では「防ぎ念仏」「七五三引念仏」、高田では「祈祷念仏」といいました。また、菊名、篠原などでも昭和初期まで行われていました。
川口謙二『かながわの祭り 25 シメヒキ』
諸岡熊野神社でも昭和31年前後までやっていた「シメヨリ」という神事があった。
正月8日午前十時、氏子から一戸2束の稲藁が奉納され、氏子の人々が七五三に編みながら注連縄により、蛇頭も市松に七五三に編んでつくる。また12本の足(閏年は13本)を結び、5m程の蛇体を3体つくる。そして村の入口に当たる、オトボリ、ジンガ、西ジンガの三ヶ所の鳥居にシメのようにかけ、疫病、疫神の侵入を防いだ。
参考 大蛇とはやりやまい
昔、大曽根と太尾の村境に、一本の大きな松の木あったト。この年、田の草取りも終わり、百姓も一安心した時だったが、遠くの村で下腹いたくて苦しむという、えらい病がはやりだしたのである。
「高津村や新田村には、おそろしい病がはやりだしたトヨ。」
百姓達は、野良仕事の合間に、遠い村の出来事を話していた。
暑い夏がやってきて、稲穂が頭を出す頃になると、おそろしい病は、隣村までやってきた。大曽根の百姓達は、頭を寄せ集めて考えた。村で評判の知恵爺さんが、
「そうだ、いい考えがあるだ。このはやり病がおらっちの村に入らねえように、大蛇に病を食わしたらどうだ。大蛇は、何でもうまそうに呑むちゅうじゃねえか。」といいだした。百姓達は、みんなして、六所神社に集まった。知恵爺さんは、村中からかき集めたワラで、長さ4間(7、2m)頭の直径1尺(30㎝)もある大蛇を作り上げた。目玉は、松かさ5、6個を糸で結びつけて作った。
次の日、村人達は知恵爺さんと神主を先頭に、大蛇を村境の一本松まで運んだ。大蛇を松に巻き付け終わると、神主は、大蛇が病を食う祝詞をあげた。
夏の暑い日も過ぎ、稲が頭を下げる頃になっても、下腹の痛い、えらい病は大曽根にははやらなかった。でもナ、大蛇は病を食べ過ぎて、腹がとけてしまったということじゃ。真っ赤に熟れた柿がポタンと落ちる頃、村人は大蛇をあつく葬ったということじゃ。
昔は、水道が無く、食器や野菜など川の水で洗ったり、また、飲み水として使っていたところがありましたから、伝染病が発生すると、すぐ広まってしまいました。医者も少なく、良い薬もない頃ですから、神仏にお祈りなどをしていました。
大曽根村では、太尾村、新羽村など近くの村に疫病が出たと聞くと、大蛇を作って、村境の木にまきつけ疫病除けとしたそうです。
この儀式は、昭和の初めまで続いたそうですが、医学の進んだ今日では、もう見ることは出来ません。         (大曽根小学校『大曽根の歴史』より抜粋)

庚申塔(新羽1595)
明治14年建立。ここは中之窪谷戸と南の向根谷戸との村境にあたる。
庚申塔の後ろのヒイラギの木に藁の蛇を掛けた。
庚申(こうしん)は、十干十二支の一つで、60日に一度この日が回ってくる。人間の体の中には三尸(さんし)の虫が住んでおり、庚申の日の夜、寝ている体から出て、天に昇り天帝にその人の罪を報告すると信じられていた。そのため、虫が出られないように庚申の日は一晩中起きているようになった。人々は眠くならないように、集まって夜通し話をするようになったが、後には数少ない娯楽の一つとして楽しみにもなった。地域毎に庚申講を作り、持ち回りで宿を決め、講員が集まり、庚申の掛け軸をかけ、御神酒、煮しめ、けんちん汁などを供え、灯明を上げた。
◎庚申塔には鶏を刻んである。…鶏が鳴けば日が変わるのでそれまで起きていた。

おいづか(新羽1590) 大炊塚(おおいづか)ともいう。
この塚は、小山家の個人持ちであり、塚の由緒には2説あります。
一説には、鎌倉時代、小山家が新羽六軒百姓の頭であった頃、ある年鶴見川の洪水で米が全く取れず、年貢米の上納が出来なかった小山家の先祖は切腹し、他の百姓も後を追って切腹したそうです。遺骸にはそれぞれ小さな塚が作られましたが、後にこれが繋がって大きな塚となったといいます。
また一説には、小山家の初代である小山大炊之助義正が、主君が死んだのでそれを追って生身入定したため、「生い塚」といったとも伝えられています。
江戸時代には、この塚の上に神明社が祀られたために、「神明塚」とも呼ばれています。

専念寺 (浄土宗亀甲山専念寺)
小机泉谷寺末。開基は、慶長6年(1601)村内の清太郎による。
開山は、耕公上人(1605年入寂)と伝えられる。
本尊は、慈覚大師作の木立像、長さ8寸(約24センチ)。
専念寺は、「小机三十三観音札所」の第十六番札所にあたり、本堂左手にある観音堂には長さ一尺(約30センチ)余の立像聖観音を安置しています。
境内はよく手入れされた樹木や草花で美しい。特に「ボケ」の花は有名で、年末から咲き始め、彼岸の頃まで楽しめます。
専念寺の辺りの字を「亀山」といいます。亀の甲に似て、頂上が平坦地になっている低い山です。

専念寺裏遺跡
市立新羽小・中学校の建設に伴い発掘が行われ、弥生時代中期・後期の住居址を中心として縄文時代から平安時代にわたる100軒余りの住居址が発見されています。

横浜市営地下鉄
昭和六十年に新横浜まで開通し、平成五年にあざみ野まで開通しました。
新横浜北駅は、今年8月に「北新横浜駅」と改称になります。