押尾寅松さんの昔話

2003年9月、押尾寅松さんからたくさんの昔話を伺いました。その時に、押尾さんが手書きで書かれていた原稿が『私の散歩みち』です。いずれ御著書に収められるものと思いますが、押尾さんの了解を得て、平井誠二専任研究員が入力し、公開させていただきました。


『私の散歩みち』   押尾 寅松 

目 次
一、手長明神
二、デイラ坊と菊名池
三、菊名池のカッパ
四、ものを言う鯉の話
五、菊名池の大蛇
六、化かすのは狐か人間か


一、手長明神(てながみょうじん)

私の生家は妙蓮寺のすぐそば(仲手原)だが、私がまだ小学生の頃のことだったろうか、庭の隅に相当大きな池を造ったことがある。周囲に庭木を植えこんでみたものの、下草がなかったので、強い雨が降ると周囲の土手より土が流れ込んで池を汚してしまった。それで弟と二人で「リュウノヒゲ」を植えることとして、作業を進めているうちに、白っぽくなった「アサリ」のような二枚貝や、その他巻き貝の形の貝殻がポツポツ出てきた。あれ変だなと思っているうちにその中より、黒曜石の大型の鏃(やじり)で少し欠けたものが出た。それより何かもっとすばらしいものが見つかるかも知れないと思いつつ、作業を続けたが、その日は何も出なかった。
だけどこれは神様が、よく家のお手伝いをしているなといって、ご褒美を下されたものと思って、今でも他の鏃と一緒に保管している。その後、石棒(せきぼう)の頭部と思われるものを見つけたが見失ってしまった。
その鏃(やじり)を見つけた夜のこと、父に、あんな処になぜアサリの貝殻などを捨てたのかと聞いたところ、笑いながら、そんなことはしないよ、それはきっと「手長明神」が食べた貝殻を捨てたのだろうと、また笑っていた。「ええっ」といって聞きなおしたところ、その昔私達の生活と仏法を護る神様がたくさんいてな、と次のような話をしてくれた。
この頃縄文海進といって、今より気温が高くなっていて海水がこの周辺の低湿地まで進入し、貝類はもとより、小形の魚類までも繁殖していたらしい。それらの魚を獲るために石の錘(おもり、石錘)をつくり、これを数多く水中に下げて壁をつくり、魚を追い込み、手もとに近寄らせて捕らえていたらしい。この錘には石ばかりではなく、土器の破片も利用したし、または土で特別に作った土錘・沈子なるものが大口台付近からも出土している。また愛知県三河湾の篠島の丘より土師器や石器と共に出土しているのを見つけた。この石錘は魚を獲るばかりでなく、筵(むしろ)等を編むための錘として使用されたのではないかとまで考えられている。
そしてまた手長明神はその南側の丘の上で、ひねもすひなたぼっこをしながら居眠りをしていた。そして腹が空いて目がさめると、その長い手を伸ばして水辺の貝を採っては食べ、採っては食べて、貝殻はその場に捨て、その周辺に貝がなくなると、また別の場所に移動していくので貝が積もってゆくのだと、時には魚や小動物も獲って食べていたので、その骨なども混じっているのだといっていた。そしてまた思い出したように、前の場所に戻ってくるので、層をなしたり塚のようになったりするのだと父は話していた。
この貝塚は食用とした貝類ばかりでなく、獣、魚類の骨から、また日常雑器類まで捨てられているので、当時の生活状況を知るのに大切な場所であるという。私の住んでいる篠原地区内に「富士塚」という町名があるが、これは江戸時代の富士山信仰の盛んであった頃に、富士塚が築かれた(ここも貝塚の跡)。この丘の上に立って富士山を望むと西北の方には秩父の山波、中央に富士、西南には箱根の険、手前には相模の大山が、足もとの丘を下るとすぐ鶴見川をはさんで田園耕作地帯が広がる。
その中の小高い丘にあの有名な戦略家の太田道灌も手こずったという小机城、またその攻略のため陣を張ったという亀甲山(かめのこやま)も見える。この丘(富士塚)は遠い昔手長明神が座り込んでいた貝塚であったと思う。その後周辺は農耕地となり、戦争中には探照灯の陣地となり、終戦後はその足もとに東海道新幹線の新横浜駅ができ、周囲の田園耕作地帯は一瞬にしてビル街と化して、今はその昔をしのぶよすがすらないのは淋しい限りである。


二、デイラ坊と菊名池

私の祖父萬吉じいちゃんはあまり多くを語らない人だったが、私がまだ小さい時にこんな話をしてくれた。
その場所は敷地の片隅で、当時は埋もれてしまって全く分からなかったが、最近建物を造るので調査したところ、富士火山灰土の深さにびっくりした場所があったと聞いて、お爺ちゃんの話「デイラ坊と菊名池」という話を思い出した。この場所が「ガリバー」ならぬ、日本生まれの巨人であるデイラ坊で、その主人公の「かかと」の足跡であるといっていた。この大男のひとまたぎが一里(四キロメートル)以上もあったというから、またびっくり。
民俗学の大家である柳田国男先生の話によれば、ダイダラ坊とかダイダラボッチ、デイラボッチなどとも呼び、東京の京王電車の駅に「代田橋」という駅がある。それはこのダイダラ坊が村人のために、橋をかけてやったという。このことから村人はこの恩を忘れないようにと、「ダイダ橋」という名をつけたといわれている。また、今から三〇〇年以上も前に書かれたという『紫の一本(ひともと)』という本に、甲州街道は四ッ谷新宿のさき、笹塚の先にダイダ橋があると記され、またある人が言うのには、このデイラボッチが、大きな山を背負って運んできたが疲れてしまったので、ひと休みしているうちにすっかり寝込んでしまった。
どれほど寝ていたのであろうか、ようやく目覚めて山を背負って行こうとしたら山に根が生えてどうにも動かない。あまりの悔しさに地団駄を踏んだ跡が富士五湖であるといっていた。
こんな力持ちのダイダラ坊も、気がやさしくて村人たちの人気者であったという。そうして力仕事となれば、よろこんで手伝ってくれて村の人達もまた大喜びで彼の面倒を見てやっていた。ところが大男よく働いてくれるが、また飯も人の何倍も食うので、村の人達は自分の食う分までも削ってダイダラ坊の食前に供えていた。それでも村の人達はこのことを口にも態度にも出すようなことはなかった。
いつもと同じように働いていたデイラ坊がそのことに気付いて、これ以上この村にいては迷惑をかけるばかりだと、立ち去ることを考えた。しかし黙って立ち去っては申し訳ないと思って、村人達のびっくりする様なものを贈ってやろうと一所懸命考えた。それにはまず自分の力でできる最高の贈り物をと考えた末に、何処にもない大きな美しい山が良いであろうと思いついた。
それにはまず、土を運ぶための大きな畚(もっこ)を誰にも気付かれないようにと作り始めた。そしてそれが出来上がってみたものの、村人が起きている時では、びっくりさせるだけで面白くないと、夜ふけて寝しずまった頃を見はからって、日本で一番高くてまたどこからでも眺められる美しい山を一夜のうちに造ってやろうと、ある夜に土を掘っては畚に入れて、一刻とて休むことなく土を運び山造りに精を出していた。そして土を掘った場所こそなんと後の東京湾となったのだという。
初めの頃は順調に面白いほどはかどっていた。そして明日、夜が明けたら西の空に今まで見たこともない高い、しかもすばらしい姿の山が忽然として現れたらどんなにびっくりすることだろう。そんなことを思いうかべながら頑張った。ところがいかなダイダラ坊でも疲れが出てきて、フラフラと足がもつれてきてしまった。そしてよろけて転んだその時、畚の網がたまたまきれてしまったのである。その修理もあせればあせる程うまくゆかず、なんとか作業を始めたが、もう少しという所で夜がしらじらと明けはじめ、一番鶏が鳴いてしまったので作業を止めた。あの時畚が切れなければもっと高い山がと、地団駄ふんでくやしがってできたのが、八王子から東神奈川に通じるJR横浜線の淵野辺駅の近くにある「鹿沼」という窪地であり、もう一つ少し離れた所に「菖蒲沼」という沼があるという。そしてその中間には幅五〇メートル、長さ二〇〇メートルにも及ぶ窪地があったという。その窪地は「ふんどしがくぼ」と呼ばれ、あまりの残念さに力を入れすぎた時、褌が落ちて引きずられた跡だともいわれている。そして最後に畚の土をふるい落として去った時にできた山が箱根の「二子山」でこれが最後の置きみやげであるということだ。
それからまたある日のこと、こんな話もしてくれた。「菊名池とデイラ坊」の物語。
それはそれは昔のことだった。そしてこの妙蓮寺周辺にもこのデイラ坊がいたということだ。この大男、どこから来たのか全く分からなかったが、やはり村人のために一所懸命に力仕事をしてくれたので、村の人達もなにかと世話をしてやっていたとのこと。そんなおだやかな日々が続いていたある日より、昼夜の別なく何日も大雨が降り続いて、この周辺一帯が水浸しになり大洪水になってしまった。そして雨が小やみになっても水はいっこうに退く様子もなく、そして何処も冷え冷えとして畠の作物も獲れず飢饉状態となってしまった。
気のやさしいデイラ坊は、年寄りや子供が飢餓に苦しむ姿を目の前にして、この水を少しでも早く退かせねばならぬと、夜を日についで働き、川や堤を造っていてくれていたので、すっかり疲れてしまっていたという。そんなある時、ぬかるみに足をとられて、大きな地響きをたてて尻餅をついてしまったと、なんとその時のお尻のくぼんだ処が、かつての菊名池で、踵(かかと)の跡が仲手原(旧綱島街道沿い)にあるということだ。そしてなんとか起きあがろうとして手をついた指の跡が台町の窪地の白幡池、それに慈雲寺や武相高校下の湿地帯で後に谷戸田となった。その他水道道沿いや篠原三丁目の谷戸田跡、それに富士塚の方にまで及んでいるということだ。
その反面、この長雨で土が柔らかくなっていたので、力の入った指の間から盛り上がって台地ができあがった。この東横線を中心として白楽から妙蓮寺周辺にかけて、手をついて出来た指の力の跡が絶妙な丘陵地帯となって、港北小学校より妙蓮寺台地それに白幡の方まで続いているのである。その丘陵地帯の中央部いわゆる手のひらの部分が比較的平坦な地域の所を旧綱島街道(六角橋より白楽-妙蓮寺-菊名-綱島に至る)が通っている。それと平行するように東横線が大正十五年二月十四日に開通したのである。現在では丘陵地帯や低湿地が宅地造成されて、昔の面影を知ることが困難となってしまった。
それでも手のひらをついた所をなんとか平地として見てゆくと、「手の中の原っぱ」といい「手中原(てなかはら)」と呼ばれていたものが、誰いうとなく「仲手原」というようになったとか。
その昔横浜市制が施行される前には橘樹郡大綱村大字篠原小字仲手原と呼ばれていたが、この「仲」の字は大字篠原に対して「仲手原」は弟分になるので、「中」の字ではなく、弟という意味を持つ「仲」という字を使用するようになったとか。
この「菊名池」についてもいろいろ話があるが、私は祖父の話を皆さんに聞いていただきたく記しました。このデイラ坊がころんで尻餅をついた窪地には、周囲の水が勢いよく流れ込んできて今の菊名池になったのだと話してくれた。そして水の退いた後、村人達はまた畠仕事に精を出すことができるようになったと大喜び、池は大事に保存され感謝しているとのことである。更にデイラ坊は池に溜まった必要以上の水の排水路として富士塚と菊名の境に水路を造り、鶴見川に通じるようにした。
途中旧綱島街道を横切っている東横線の踏切の下の窪地を「篭窪(かごくぼ)」と呼んでいるが、これはデイラ坊が水路を造った時の窪地が、農業用の「背負篭」に似ているのでこの様に呼ばれたらしい。また綱島と日吉の中間の所に「箕輪」という町名があるが、ここの地形が農具の「箕」(穀物を持ち運ぶ時に使用する篠竹等で作られたもの、または籾とごみを選別する時使用するもの)に似ているからだとか、また雨具として茅萱や棕櫚(しゅろ)等で作られたものの形と似ているとか、これ等をデイラ坊と併せ考えるとなお楽しくなる。
このような歴史や言い伝えのある篠原地区には、新幹線の新横浜駅、これに加えて地下鉄の岸根公園、篠原池があってこの周辺の高級住宅地発展の基礎をなしている。さらには昭和初期に文人墨客がこよなく愛してくれた、東横線の妙蓮寺駅周辺のあることを忘れてはならないであろう。いやこの周辺がいかに住みよかったかは、平成十四年より十五年にかけて発掘された篠原団地の縄文を主とした住居跡が見られたことによっても、よく理解できると思う。さらにこのような風光明媚な地形を作ってくれたデイラ坊にもう一度感謝と讃辞を送りたい。


三、菊名池のカッパ

菊名池にカッパがいたなどといっても、誰もがそんな馬鹿なといって誰ひとり話を聞いてくれない。しかしいつの頃から、菊名池にカッパという話が生まれたのであろうか。柳田国男先生の『遠野物語』ばかりでなく、全国的に語られているので、菊名池にいてもおかしくはないと思う。私の大好きな「おつねおばあちゃん」は柳田先生よりずっと昔の人だから、この辺りにも以前より語られていたのであろう。そのおばあちゃんが、私のわんぱく小僧の頃、口ぐせのように「菊名にひとりで遊びに行ってはいけないよ。池にはこわいカッパがいるからな。」といってかたく禁じられていた。それ故かこのカッパ伝説を信じてどうも泳ぐことが苦手になってしまったようだ。
菊名池のカッパは夜行性故か水辺にその姿を見たという話は全く聞いたことがなかった。きっと水面下で活動していたか、お皿の水が乾くのを恐れて夜行性であったのかも知れない。それにしても誰ひとり確かに見たという人はいなかったようだ。それ故、他の地域でよく言われている、体は水草色のうす緑の保護色で、腕も脚も細く、手足の指の間にはカエルの水かきのようなものがついて泳ぎは極めて上手だったという。また背中には、スッポンの甲羅によく似て柔らかい弾力性があって、少し長めのものを背につけているものと、着けていないものがあるらしいが、菊名池のはどっちか分からない。
そうして口は蛙より細長くつき出ていて、頭には他の生きものには見られない、その頂きにはお皿のような形をした水盤があって、常に水気がないと活動できなくなってしまうという大事なものであったともいわれている。それがためこのお皿と水には常に気をつかって、それはそれは大変だったという。それに目はほとんど水中で生活している事が多いので、魚の目のように大きくマバタキをする必要がないので、特に大きく美しく見えたということだ。また頭の水盤の周りには、このお水がこぼれない様に円形に形どられた髪の毛が土手の役目もし星形のアクセサリーにもなってとっても可愛いかったともいわれている。耳は水の中の生活が多いのでついているかどうか聞いてみなかった。それでも音のひびきは水の中なのでよく伝わるから、からだ全体で受けとめ、コミュニケーションをとりあい、聞き分けていたようだ。
体の大きさからいうと、水辺に遊びにきた子供と相撲をとったり遊んだり、農作業を終えた後牛や馬の汗を流してやろうと水辺につれてきて、水をかけたり洗ってやっていても、池の中に引きこむようなことはしなかったが、尻尾につかまってブランコ遊びのようなことはしていたらしい。そんな話からも一般的に思われている小さな子供くらいよりも、もう少し小形のあどけないコガッパであったものと思われる。私のおばあちゃんが口ぐせのように言っていた「菊名池はこわいところだよ、カッパに尻子玉(しりこだま)を抜かれてしまうからな、そうすると二度と生きて家に帰れねーからな」ということを私にくりかえし言っていた。つまり死んでしまうということだったのである。
カッパの話はあちこちで耳にはしているが、私は見たこともないので、菊名池のカッパは心やさしい遊び好きであったのであろうと独り思っているが伝説にとどめたい。それにもうひとつ「しりこだま」に至ってはなお分からなかった。こんな言葉が何処から生まれてきたのであろうかと、誰に聞いても知らないというばかりで、笑いとばされてしまう。人は死亡すると体の筋肉が硬直する反面、瞳孔は開いたままで反応しなくなるとか、また肛門筋等はゆるんでしまう等と聞いているが、これ等の状態をたとえて「しりこだま」が抜かれたとか、死ぬことによって「魂を奪われる」等のことをいっているのだろうか。
どうやら私は、一生満足に泳ぐこともできず、カッパにもお目にかかれず、遊び相手にもされることもなく、また裸になっても雷様に「おへそ」も狙われない年ばかりでなく、曲がりくねってどこにあるのか解らなくなってしまったとは何かもの淋しい。もう一度『遠野物語』を読もう。


四、ものを言う鯉の話

この話は古い昔より語り伝えられているとかで、菊名池のまわりは松や杉それに雑木林にかこまれて、農道近くの南斜面に家がポツンポツンとある程度であった。そして家の周囲には北風を避ける防風林が造られていた。それに続いて農耕地がひろがり、いちだんと低い処には谷戸田といって丘陵地帯の間に細長く田圃が作られていたのである。それはこの篠原地区の地形がそうさせるので、棚田ではないが俗にいう広い平らな耕地はできなかったのである。さらに畠もそのほとんどが丘陵斜面にあったので、耕作するにも肥料を運ぶにも、農作業は人一倍大変だったようである。
この水田の水は丘陵地帯の農地や山林をうるおした水が、地中深くしみこんで田圃の溝口に湧き出たもので、すっかり冷えきっているし、低湿地で深田ゆえに収穫量も少なかったと聞いている。それに特別な特産物もなかったので決して豊かな生活はできなかったらしい。それ故一般的な農家では、母屋(おもや)の周りや山の木々の落葉が秋になると、松や杉の落葉それに枯木などは燃料として保管すべき小屋が、「木部屋(きべや)」として設けられ、当然のこと薪類さらに秋の収穫が終わった藁束も同時に納められ、そして藁等は家畜の飼料となったり、縄や草履その他敷きわらや堆肥に使用されたのである。
また穀物や農機具、雑物を納めたり、雨天や夜間作業を行う「物置」さらには「灰屋(はいや)」等といって肥料、堆肥、灰類等を貯蔵混合作業をする小屋等が屋敷内に設けられていたが、その他に土蔵は数少なかったようであった。それから庭には早春の頃に畳四、五枚分くらいの矩形(くけい)の藁で囲まれた箱形の高さ七〇センチ位のさつまいもの苗床が作られた。そしてその中には広葉樹の落葉や米糠に水、その他のものが加えられ、気温が上がってくるとその発酵熱を利用して、さつまいもの種いもが苗床に伏せられる。その他「なす」や「トマト」の苗床ともなっていた。その床の苗を保護するためにも昔はビニールが無かったから障子に桐油(いいぎりあぶら)を塗って雨や直射日光から苗をまもっていたのである。
初夏の頃となると、さつまいもの苗芽が伸びてきて、その苗芽を刈り取って畑に植え付けるのであるが、昔よりこの様な静かな農作業を続けてきたのであろうか。またこのような静かな丘や畑に降った雨は草木を育み、静かに土の中にしみこんで、他の仲間と一緒になって田圃の溝口に美しい清水となって注がれていたのであろう。この清らかな流れには甲羅と爪のつけ根が淡いブルーの、あまり他の地域では見かけない「さわがに」をよく見かけた。私達はこれを「シミズガニ」と呼んでいたが、一般的には山の沢などで見かけるのは茶褐色のものが多いのでびっくりした次第である。
さらには海に通じているかと思われる小川の岸辺には爪と脚と甲が紅色をした「ベンケイガニ」と勝手に名付けていたのを子供の頃よく見かけたが、今は全く見かけない。海岸線に近い丘に住んでいる「アカツメガニ」よりも紅が美しかったように思う。聞くところによれば、この「アカツメガニ」は夏の大潮の満月の時に丘より大群をなして降りてきて、幼い子ガニを腹部に抱えしきりに波打ち際で放散しているのをテレビで見たが、私達の住んでいる処ではそれは無理かと思われる。そんなきれいな水が集まって菊名池に流れ込んでいたであろう。
このように汚れのない桃源郷ともいえる菊名池にも実に奇怪に物語があったのだった。それはある時土地の古老から「菊名池の主の話」を聞いたのである。それによれば、柳田先生まがいの話であったが、ただ思いつきの作り話でもなかったようで、やっぱり昔よりこんな話がここにも語り伝えられていたのだろうか、こんなことならもっといろいろ聞いておけば良かったと思った次第。それはそれは昔のことであったという。この一帯が大変な旱魃になった時のこと、この周辺の農家の人達が名主さんの家に集まって、菊名池の水門を明日の朝全開し、水を池の下流の菊名・大豆戸(まめど)・篠原耕地等に放水することに話が決まった。そして皆の者がホッとした気分で去っていった後のことだった。
名主さんも日照り続きで何かと気をつかい、疲れ切った体にひと息入れて座りなおした夕暮れ時のことだった。誰か人の来たような気配がしたので土間の入口に出てみたところ、そこには最近ほとんど見かけなくなった、黒染めの衣に笠を目深にかぶったお坊さんが、なぜか疲れきった姿で立っていたので、中へと招じ入れた。その僧には残りものであったが、水門開放の話し合いの時に出した麦飯とタクアンを勧めた。そして僧は少しばかり手をつけてから、聞き取れないような小声で言うのには、「明日池の水門を開くということだが、これもこの日照りではやむを得ないことと思う。しかし、その時魚や貝類その他たくさん獲れることと思うが、なるべく無駄な殺生だけは避けて欲しい」と言葉少なに語り、そして最後に肩を落として、さらに小さな声でつぶやくように「その中にとりわけ大きな鯉がいるはず、これは池の主ゆえ見逃してやって欲しい」と涙ながらに語って帰っていったという。
名主さんはもとより殺生は好むところではないので、翌朝必ず皆の者に伝えておくからと約束して引き取ってもらった。ところが翌朝、名主さんには別な急用が出来てしまって、起き抜けに家を出なければならなかったので、村人に前日のお坊さんとの約束ごとを伝えることなどすっかり忘れて、別の用達の方に気をとられて大急ぎ出かけてしまった。夕刻の帰り道でのこと、池のほとりが異様な雰囲気につつまれていることに気がついた。その時昨日の夕刻、旅の僧との話の中での約束ごとを思い出したからなおのこと、小走りになって水門の処へきたその時、泥んこだらけの人だかり、口ぐちになにかわめいて、異様な雰囲気に気がついた。名主さんが小走りにその中に割りこんで入ったところ、戸板の上には今まで見たこともないような大きな鯉が横たえてあった。
鱗は夕日を受けて紫黄金に輝き、えもいわれぬ神々しさであったとか、名主さんが駆けつけ声をかけた時はすでに遅かったという。それは、これを捕まえたひとりの若者がさも誇らしげに出刃包丁で腹をさいている最中であったからで、名主さんは顔をそむけてしまった。そのうえ体は小刻みにふるえるし、声を掛けようにも声にもならず、どうにもならなかったという。やっと気をとりなおして手を合わせながら見直したところ、なんと昨日の夕方お坊さんに差し上げた麦飯とタクアンとが、腹の中よりそのまま出てきているのでびっくり。そのわけを集まっている人達に話して聞かせたうえで、手厚く葬ってやったということだ。
その後私もこの水門を開き池を乾すということを聞くと、この年になっても「ものを言う鯉」の話を思い出し、奈良東大寺別当であった清水公照先生の「動物は楽しむために生物を殺さない」という言葉に、無意味な殺生だけはしたくないと、つくづく感じている。


五、菊名池の大蛇

菊名池の西北部にあたる丘陵で裾の部分が、農道をへだててすぐ池となっていて、なぜかこの丘陵地帯を「セーフヤマ」と呼んでいた。その語源は知る由もなく、私が思うのには池に面して張り出した丘陵地帯丘の形が、丁度巾着(きんちゃく)または財布といった形をしているので、「サイフヤマ」と呼んでいた。ところが土地言葉のナマリよりいつの間にか「セーフヤマ」と呼ぶようになってしまったのではなかろうか。私もそのまま受けついで「セーフヤマ」と呼んでいるが正しい呼び名は知らない。今は富士塚一丁目となっているが池に面した旧綱島街道の道路沿いには家が数軒しかなかったように思われる。
それ故平地は畠であったが斜面はほとんど松や杉それに雑木林でうっそうとしていた。この木々も百年くらいは経ているかと思うものもあって、春や秋の頃までその四季の変化の移り変わり、それに池を中心とした景色は水草の変化に加えて、水鳥の遊ぶ姿に、また野鳥の囀り、それはそれは私などには記すことのできない程の美しさで、この世の楽園かと思うばかりであった。ところがひと度季節が移って水鳥も去り、池の周辺の水草が枯れはじめてくると一瞬にして静けさというより音がなくなってくる。しかしまた越冬の水鳥がやってきて再び賑やかになるのであるが、これは今より極めて数は少なかった。
それというのも他の場所にもっと良い避寒池があったからであろう。この頃になると池の水面に水蒸気がたちはじめる。やがて北風が吹きはじめると、水面が波立ち騒がしくなる。急に雲行きが怪しくなって、何が気に入らないのか機嫌が悪くなり冷たい氷雨まじりの北風を、この丘の木々に吹きつける。すると松の幹も枝も他の木々も寒がって「ヒィー、ヒィー」悲鳴をあげて泣きわめく。太い幹は大きな体をゆすぶって怒鳴りはじめる。もうこうなるとどうにも納まらなくなり、今までは畠もそれに池の中の総てのものが、冬の寒さをぐっとこらえていたものまでが我慢できなくなり、それはそれは大変なパニック状態になってきて、恐怖の中に閉じこめられてしまうのである。
しかし現在は周囲に高い建物ができて強風を防いでくれるので、寒風がヒュウヒュウ鳴ったり、夜の戸をガタガタゆすぶって寝られなかったということはほとんど聞かなくなった。こんなことは一年中あるわけではないが、歌人の斉藤茂吉がこんなふうに詠んでいる。
葦原の 一方になびき 伏したるは 昨日吹きたる 疾風にかあらむ
これは昭和の初め頃東横線が開通すると、そのひなびた菊名池と周辺の丘陵地帯を観賞散策して多くの歌を残している中の一つである(『暁紅』昭和15年6月30日発行)。
この様子を見て昔の人は菊名池の「蛇渡りの跡」といっていたそうな。このように池の周辺には葦が人が入り込めない程茂っていたのである。そこでこんな大蛇の話が生まれてきたのであろう。そして池の上を渡ってきた身を切るような北風は近くの丘陵地帯の谷間を抜けながら、さらに強まってゴウゴウとうなり声をあげて走り抜ける様は、昔の人のみが知る怖さであった。ところが、風の全くない冬の日だまりであるこの丘陵の「セーフヤマ」は池を眼下に見おろし、東の方より西の方にわたって開けているので、春から冬を通しての日ざしは明るいし、その上夏は池の面を渡ってくる涼しい風は住宅地としては最高の場所であったであろうと思われる。
その昔の冬のこと、ここで山仕事をしていた老人が、午後のひと休みをしようとあたりを見回していたら、ちょうどひと抱え程もある松の木が横たわっていたという。はて今まで気がつかなかったと思いながらも、腰をかけて一服すべく腰にさしていたたばこ入れを取り出し、きざみたばこをキセルに詰めこんだ。そして火をつけるわけであるが、古い昔のことゆえ、今のようにマッチやライターなどなかったので、火打ち石を取り出し「ほくち」(綿ぼこりのような植物の繊維、ガマノホやオヤマボクチそれにツバナなどの種についている防水油分を含んだ綿状の繊維を乾燥させたもの)を、きざみたばこと合わせ持っていたらしい。
それに火打ち石によって火花を出し着火させる方法であるが、火打ち石は石英の破片の石の角と鋼鉄で作られた鉄片の道具と打ち合わせて火花を出させる方法である。この状景は映画やテレビの時代劇でよく見かける。それは家の主人を送り出す時、おかみさんが後ろより肩に清めの「切り火」をかける状景があるのを見かけるだけになってしまった。そしてこの火花をほくちに移すのであるが、これがまた大変なこと、瞬間的な火花を受けて火種とするので、雨の日や湿度の高い時、特に山や畑の屋外でそのたばこ一服を吸う苦労たるや大変なことであったらしい。それなら弥生時代に考えられた火錐(乾燥した台板に木の棒を直角に立て両手ではさんで急速に回転させ摩擦熱によって発火させる方法、または両手で握れる板の中央に穴をあけてこれに紐をつけ火錐棒に巻きつけこれを上下して火を起こす方法)の方が良いと思うがそうはいかない。
それ故一回つけた火種は絶やさぬように気をつかって大変だった。そのため最初の一服した後の火種を左の手のひらに吹き出し載せるが熱いので右に左に転がしながら、次のきざみたばこを何ともいえぬ巧みさでキセルの雁首に詰めこみ、手のひらの火種を新しく詰めたたばこに移し、静かに紫煙をくゆらせる味わいはまた格別な味があったのであろう。しかしたばこの火を左の手のひらに転がすなど、いかに仕事で手のひらが厚くなっていようとも熱さには変わりがない。それでも煙草を楽しみながら一息入れるというのもまた別なことなのであろう。いまはこんな状景は全く見られなくなってしまった。
このお爺さん一服し終わってよほど満足したのか、さてもうひと仕事と最後の火を座っていた松の木で叩いたところ、その火が松の木の上に落ちてとどまっていたらしい。するといままで座っていた松の木がズルズルと動き始めたという。その時ばかりは声もたてられず、松の木よりすべり落ちて腰が抜けてその場に放心状態で座りこんでしまったという。その火を叩き落とされた松の木と思われていた大蛇もいままできっと秋の日ざしを受けて気持ちよく、昼寝をしていたところに熱い火の玉を落とされたのだからたまらない。さぞかしびっくりしたことであろう。この「菊名池の大蛇の話」私ひとりが聞いたというのなら、ひとり勝手なつくり話になるだろうが、私より年長者にこの話をしたところ、その方も別な方より聞いたというから、やはりこんな話が語り伝えられていたのであろうか。この蛇渡り状況等を歌人の斉藤茂吉が妙蓮寺周辺を散策した時『暁光』(昭和15年6月末発行)に記されているので面白い。


六、化かすのは狐か人間か

昔より「狐(きつね)七化け、狸(たぬき)の八化け」ということをよく聞いたが、化かされた人の話によればほとんどが狐のようだ。そうなると狸の立場がなくなってしまう。私も懸命にさがしてみたが、茂林寺(群馬県館林市)の文福茶釜、それに証誠寺(千葉県木更津市)の狸囃子ぐらい。ところが東海道は子安の浜(横浜市神奈川区)の近くにこんな話があってびっくり。浦島ヶ丘の観福寿寺の「狸の夜泣石」。これはこの近くに、昔から住んでいる狸が、ある近く老人に化けて寒風吹きすさぶ夜になると、必ずといってよいほどに寺の住職と囲炉裏(いろり)を囲んで世間話をしては、「ああよく暖まった」といって帰る。それが普通の年寄りならば昼間の暖かい時に来るのがほんとうなのに、きまって海風の吹きつける寒い夜ばかりであった。
あまりにもおかしく思われたので、お寺の住職がある昼間のことその老人宅に訪れたところ、何ヶ月も寝たきりだとのことでびっくりした。住職も事の次第を知って、このまま放置しておくわけにもいかず、ある夜のこと、さつまいもによく似た石を囲炉裏の灰の中に埋めて焼きながら待っていた。何も知らない狐か狸が化けたかと思われる老人は、あれこれと世間話をしてから、よく暖まったからとお礼をいって帰ろうとした。その時あまりにも殺生なことだとは思いつつも、このまま放っておいては、あの老人が可愛そうで、これから先どうなるか分からないと、心を鬼にしてその夜の来客に、心ばかりのもてなしだからといって、囲炉裏の中のいもに似た焼石をおみやげにと掘り出して、持ち帰ってくれと進めていた。
さすが老人もしきりに遠慮していたが、素手を出すわけにもいかず、例の八畳敷きの大風呂敷(皆さんもよく狸の置物の信楽焼を見るとすぐわかる愛嬌のある顔に必ずついているシンボル)を広げて受けたからたまらない。キャーッと叫んですぐさま正体を現して裏山へ逃げ帰ったという。その後全く姿を見せなくなったというが、和尚さんも気になってその住んでいたと思う所を探したところ、一つの石の塊りがあった。そしてその石に冷たい北風があたると、もの悲しくも淋しい音を出すのでこの石を「狸の夜泣き石」と呼んでいたという。そして狸に身替わりされた老人は、その後すっかり健康をとりもどし余生を楽しく過ごされていたということでした。
また私達が子供の頃、雲一つない青空からびっくりするほど急激に雨粒が落ちてくることがあった。すると誰いうとなく「狐の嫁入り」だといっていたが、その意味もわからないまま過ごしてきてしまった。またよくいう「狐火」とか「狐の提灯行列」などは、湿度の高い風のない夜に昔の墓地(土葬にする)とか、山でも見ることがあるというが、私は内地では見たことがなかった。しかし終戦後の捕虜生活中に蘇州(そしゅう、中国の都市)の郊外でこの「狐の提灯行列」とでもいうのか、膝から腰の高さくらいの所で淡い青とも紅ともつかない光を発しながら、ゆらゆらと上下し横一列に並んでいる所を2回ほど見た。
小さい頃は「狐火」だとか「ひとだま」の話をよく聞いたが、今は全く耳にしない。それと同じように狐に化かされたという話も全く聞かないが、狐がいないからではないだろう。またその被害者が男性に限られているのもなにかおかしな話である。たとえば家に帰ろうと途(みち)を急いでいたがどうしても家につかない。気がついたら同じ道をぐるぐる廻っていたとか、また肥溜の中で入浴していたとか、さらには麦畑の中を裸になって着物は頭に載せ、河の中を渡るような格好で歩いていたとか、今では全く思いもよらないことばかりである。きっと夜遊びをしてお酒を飲みすぎて帰ることを忘れてしまったのを、ごまかすための手段として狐に化かされたことにしたのではないだろうか。
私の周辺にもこんな話があった。東横線は妙蓮寺の墓地の脇道を登って綱島街道を横切って、横浜盲学校の前の道をさらに進むと大口坂となる。この道は子安の浜辺の魚介類を仕入れる唯一の搬入路であった。この道は妙蓮寺より綱島街道に至るまでは蓮光寺原といって周囲はすべて農耕地帯であった。そして盲学校近くより先は雑木林で、昼なお暗く淋しい所で昔は狐も出没していたし、追いはぎまでも出たと聞いている。
それでも妙蓮寺近くを売りに歩く魚屋さんが、子安の浜の夕河岸(ゆうがし)といって、日中漁に出て夕方水揚げするのを買い出しに出る。そして浜で舟を待っている間に魚の仕入れ代金まで、博打にかけて負けてしまって魚を仕入れることが出来なくなってしまった。その言い訳に、今日はいい魚が安く手に入ったのだが、大口坂の途中で狐の奴が目の前に立ちふさがって動かねー。こいつと思って盤台(ばんだい、魚屋さんが使う浅くて広い長円形のたらい)をかついだまま突っ掛けていけば、少々退ってまた止まる。
腹にすえかねて盤台をそこに置いて、天秤棒で追いかけているうちに後ろの奴が盤台の魚を盗んでいる。こいつと思って後ろの奴を追いとばしているうちに、前のものを盗んでいる。最後には全部盗まれてしまったので、空身で帰ってきた始末さ、とこんなことが年に二三回はあったらしい。いかにも狐に化かされたような、子供だましみたいな言い訳ではなかったろうか。ところがおかみさんも心得たもので「商売道具まで盗まれなくて良かったね」と笑っていたとか。
また篠原八幡神社の前の道(水道道のバス停・武相台より神社に通ずる道)は「鎌倉下の道」と呼ばれ、篠原と篠原東の境界線を北に進み、神社の前より富士塚二丁目と篠原北の境を菊名駅に向かい駅を横切って、旧綱島街道に接続する。この篠原八幡神社の前に峠の茶屋のような休憩所があったらしい。そこへ神奈川の反町(たんまち)にあった三島堂の先生が、人力車に乗って往診の帰り道のできごと、車がこの茶店の前にさしかかると、車夫が急にブツブツ言い始め「梶棒(かじぼう)が重くなるからどけ」と怒鳴ったり、足で蹴るような動作まで始める。最後には梶棒を下に置いて追いかけるしぐさまで始めてしまった。
先生も黙って見ているわけにもいかず、「どうしたのか」と声をかけたところ、車夫が言うのには「いや実は、狐が2匹出てきて梶棒にぶらさがったり、足もとを走り回るものですから車を進めることが出来ないのです。」といって、「先生、もし食べ物があったら、何でもよいですから奴らに施してやってください。」というと、先生も「よし解った、お前も疲れたであろうから一服しよう」と茶屋の中に入ってひと休みしたという。そして「これは狐にな、」といって別の包みを渡すと、早速その包みを持って「こうい来い」と呼びつつ、「これは先生からのおみやげだ、ゆっくり食べろよ」といって藪の中へ消えていった。
しばらくして戻ってきてから「先生、狐の奴らよろこんでましたよ、中の一匹はその場で食べないで巣の方へ持って行きましたから、子狐にでも食わせるんですかね」と先生に告げていたとか、先生も「そうか、そうか」といいながらうなずいていたという。そして人力車も軽く走り出して帰院すると、家族の者に「いやいや今日もな、篠原の八幡様の所で狐が出てきて梶棒にとりついて、車が動かなくなってしまい、ご馳走をふるまったら通してくれたよ」と伝えていたとか。
これは狐にかこつけて、車夫が休憩所でひと息いれて、また狐のご馳走までも藪の中でいただいていたのであろう。これなどは先生を狐を使ってまでも化かしていたという話であろうかどうかわからない。

以上