(注)この報告は『大倉山論集』第57輯に掲載されたものです。一部省略等がありますので、引用等については『大倉山論集』第57輯をご覧下さい。

ごあいさつ

 

大倉邦彦は、日本の伝統文化を継承し発展させることを目的の一つとして、昭和七年(一九三二)に大倉精神文化研究所を設立しました。その大倉邦彦は、日本の象徴として富士山をこよなく愛していました。富士見幼稚園、富士見農園、富嶽荘、芙蓉荘、富士見寮など、大倉邦彦が設立した施設には富士山の名、あるいはその異称である富嶽や芙蓉の名が多く使われています。研究所の敷地を大倉山に決めたのも、この丘の上から富士山がよく見えたからだといわれています。

そこで、今回の研究所資料展では、大倉邦彦が川柳や短歌と共に描いた富士山の絵、研究所が所蔵する富士山を描いた風景画、富士見幼稚園関係資料など、富士山をテーマとした展示を企画しました。

これらの作品をご鑑賞いただき、大倉山の地に精神文化研究所を設立した大倉邦彦のこころざしに想いを馳せていただければ、これに勝る喜びはございません。

                                      大倉精神文化研究所

◆会期…平成二十二年三月二十日~五月二十八日
 

主要展示品解説

 

【大倉邦彦】一八八二~一九七一年

明治十五年(一八八二)、佐賀県神埼市の素封家江原家に生まれた。上海の東亜同文書院を明治三十九年(一九〇六)に卒業した後、大倉洋紙店に入社。明治四十五年(一九一二)、社長の大倉文二に見込まれて養子となり、大倉文二の死後は社長に就任した。

大倉邦彦は、社長として事業を大きく発展させたが、真の経済活動とは単なる利益追求ではなく、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると考えていた。この観点から、教育事業に携わり、東京目黒の富士見幼稚園や佐賀県西郷村の農村工芸学院などを開設。また、この考え方をより深め、さらに世の中に広く普及するため、昭和七年(一九三二)大倉精神文化研究所を設立した。研究所は、戦中戦後の混乱期に何度も存亡の危機を迎えたが、大倉邦彦は全私財をなげうって信念を貫き通し、研究所の維持発展に尽力した。昭和四十六年(一九七一)に死去、享年八十九歳。

 

【富士見幼稚園】一九二四~一九四四年

富士見幼稚園は、本研究所の創立者である大倉邦彦により、大正十三年(一九二四)に東京市目黒区に設立された。園章は、富士山と朝日の光をかたどったデザイン。

当時、幼児教育はさほど重視されていなかったが、大倉邦彦は、幼少時代の学びや体験が人間としての基礎を作り、その後の人生に大きな影響を与えると考え、幼児教育の必要性を訴えた。そして、自らの信念を実現するために富士見幼稚園を開設した。

また、幼稚園での教育は家庭教育の延長であると考え、よい母親を育てるための成人学校である「富士見学びの会」を発足させた。さらには卒園した子供たちを対象に「富士見日曜学校」も開いた。

富士見幼稚園はこのような活動を展開し、毎年百名程の園児を送り出していたが、昭和十九年(一九四四)戦局の悪化により閉園を余儀なくされ、二十年にわたる活動を終えた。

 

1、幼稚園便覧 沿革史資料No.7377

園児募集のためのパンフレット。

2、通信帳 沿革史資料No.5386

富士見幼稚園と保護者間で用いられた連絡ノート。

3、幼稚園バッチ 沿革史資料No.7021

富士見幼稚園で使用されていた徽章。未使用品で、箱と包紙も現存している。

4、名札 沿革史資料No.8235-39

富士見幼稚園で使用されていた名札。裏には着用していた園児の名前が記されている。

5、(写真)昭和六年第六回卒園記念 沿革史資料No.6867

園児の胸元には、名札(展示品4)が着用されている。

 

6、保育証 沿革史資料No.8235-7(大正期)沿革史資料No.823541(昭和期) 富士見幼稚園の保育証(卒園証書)。

二点の資料をよく見てみると、中央上部に描かれているマークのデザインが異なっている。富士山を基調とした基本デザインは同じだが、外周の形が大正 期の桜型から、昭和期には丸型へと変更されている。また、当研究所では、展示品の他に二種類の保育証を所蔵している。開園していた二十年間に、四種 類以上の保育証が使用されていたことがわかる。

7、保育の方針 沿革史資料No.8235-4

8、園児募集チラシ 沿革史資料No.8221-7

9、園児募集ポスター 沿革史資料No.8235-36

10、(写真)富士見幼稚園、新旧園舎

大正十四年四月竣工の園舎 沿革史資料No.6873

昭和十一年三月竣工の園舎  沿革史資料No.6760-103

園児数の増加にともない手狭になった園舎は、昭和十一年に改築された。

 

【大倉邦彦の揮毫と富士山】

 

11、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11435の複製

  「いくたびか たほれつおきつ つとめなむ かためしこころ よしゆるるとも 邦彦」

12、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11392

  「一峯高処白雲低人到雲中道已迷 邦」

13、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11423の複製

  「ああ富士が 見える見えると 人をよび 邦彦」

14、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11337の複製

  「無我でこそ たえざるつとめ な し と げ る 邦彦」

15、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11342の複製

   「魂を うちだすかぢの こころもて はげみつわれよ 日の本のわざ 邦彦」

16、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11338の複製

  「おほかたは 水のそとにて まはりつつ 水とはならず 流されもせず 邦彦」

17、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11450

  「としとしに 人にまたるる 時のもの 邦彦」

18、(大倉邦彦の揮毫)沿革史資料No.11400

  「腹たたず こころ静に お茶はたつ 邦彦」

19、(絵画)「晩秋の富士」 一九三〇年(昭和五) M Ishikawa
沿革史資料 No.11017の複製 (原寸:額縁86.3cm×104.2cm

作品左下に「M Ishikawa」の署名、また額の裏に「晩秋の富士 石川誠作」と記されている。

20、(絵画)「富士山」 一九三八年(昭和一三) Ryu Shunnsuke
沿革史資料 No.11018の複製 (原寸:額縁83.2cm×103.5cm、絵59.5cm×79.4cm

春の富士山の姿を描いたもの。作品左下に「Shunsuke Ryu」という署名がある。龍駿介は、明治二十二年(一八八九)に福岡県で生まれた風景画家。富  士個展を六十六回開催し、富士山の油絵集が出版されるなど、富士山を数多く描いた画家として著名。
21、(絵画)「富士山」 制作年作者不明 沿革史資料 No.11022の複製 (原寸:額縁55cm×89.5cm、絵32.5cm×67cm

 

【富士山の名を冠した施設】

富士山を愛した大倉邦彦は、富士見農園、芙蓉荘、富嶽荘、富士見寮など、富士山の名を冠した施設を数多く造った。

 

22、(写真)富士見農園 沿革史資料No.6796の複製

大正十四年ごろ、東京郊外の玉川村等々力にあった農園。この農園は、大倉邦彦が技術を修徳し生業を助ける職業教育の一環として経営していた。後に  佐賀県に設立することとなる農村工芸学院と同様の趣旨をもっていた。

23、『芙蓉』第1 沿革史資料No.5748

昭和三年、主として慶應義塾大学の学生のための寮「芙蓉荘」が、東京市目黒区に設立された。この資料は、その寮生によって作られた荘報(リーフレッ ト)。ちなみに荘報の名前となっている「芙蓉」とは、富士山の呼称の一つである。

24、(写真) 富嶽荘 沿革史資料No.6873の複製

昭和五年六月、研究員および学生を収容する施設として、東京市中目黒に設立された。その後、目黒町三田を経て、昭和六年六月に大倉山の地に移設され た。写真は、大倉山の地に移設後の富嶽荘。

25、(写真)富士見寮 沿革史資料No6873の複製

大倉洋紙店の社員寮として設立された。昭和四十三年一月には、大倉洋紙店富士見寮と研究所研修寮の建物の一部が共用部分として契約された。