(注)この報告は『大倉山論集』第57輯に掲載されたものです。一部省略等がありますので、引用等については『大倉山論集』第57輯をご覧下さい。


ごあいさつ

大倉精神文化研究所の創設者であり、研究所の本館建物(現、大倉山記念館)の施主である大倉邦彦は、大正十五年(一九二六)に、世界の教育施設や宗教施設の視察旅行に出発しました。アジアからスエズ運河を通ってヨーロッパへ、船で旅行する途中、立ち寄った各港や、調査に訪れたヨーロッパ各国で、数多くの絵ハガキを買っています。残念ながら、アメリカへ渡る前に調査を中止して帰国しましたので新大陸の絵ハガキはありませんが、大倉邦彦が収集した七六〇枚に及ぶ世界各地の絵ハガキの中には、後に世界遺産に登録されることになる名所旧跡の写真が一五〇枚以上もあります。

そこで、今回は、全七六〇枚の絵ハガキをクリアファイルに入れて展示し、その中から世界遺産の絵ハガキの一部(七十四枚)を複製にして展示パネルで紹介します。これらの資料をご鑑賞いただき、研究所設立のためにヨーロッパへの調査旅行をした大倉邦彦のこころざしに想いを馳せていただければ、これに勝る喜びはございません。

                  大倉精神文化研究所

◆会期…平成二十二年十一月二日~十一月三十日

 


 
大倉邦彦の訪欧視察旅行

 

大倉邦彦(おおくらくにひこ、一八八二~一九七一年)

当時、四十三歳。「国民の良心の扉」を開きたいとの使命感に燃え、関東大震災の余韻もさめやらぬ大正十五年(一九二六)三月、精神文化図書館の建設をめざして、世界の図書館事業、宗教界教育界の視察旅行に出発した。ヨーロッパ各地を精力的にまわり、精神文化運動の構想が固まったので、ロシア、アメリカ、カナダ等の視察を中止し、昭和二年(一九二七)一月に帰国した。

〈期間〉

大正十五年(一九二六)三月~昭和二年(一九二七)一月

〈随行〉

原田三千夫(はらだみちお、一九〇〇~一九七七年)

大倉邦彦の秘書。当時二十六歳。大倉と共にヨーロパを廻り、堪能な語学力によって渉外や資料の収集にあたった。大倉帰国後も一人残り、書籍類の購入につとめ、昭和二年(一九二七)一月に帰国した。

〈目的〉

大倉邦彦は、人々が宗教的信念に立脚した純真な人生観を持つよう、精神文化運動の必要を感じ、精神文化研究所を併置した図書館の設立を思い立った。

そして①図書館の視察、②学校の視察、③社会施設の視察、④一般思想社会の研究、⑤名旧跡歴訪という五つの目的をもって視察旅行を企画した。

〈ルート〉

大正十五年(一九二六)三月四日、神戸港にて諏訪丸に乗船。上海・香港・シンガポール・マラッカ・コロンボへ停泊し、紅海からスエズ運河を経由してカイロに立ち寄った後、マルセイユに上陸。汽車でフランスを縦断し、ドーバー海峡を越え、最初の目的地ロンドンへと到着した。そしてイギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・オランダ・スウェーデン・フィンランド・ノルウェー・デンマーク・スイス・イタリアを歴訪し、十一月下旬、ナポリ発の伏見丸に乗船て帰国の途に就いた。

〈成果〉

①西洋哲学書など八六〇〇冊を購入。

②富士見幼稚園にて「富士見日曜学校」を開校。

③佐賀県神埼郡西郷村に女子教育の私塾「農村工芸学院」を設立。

④大倉精神文化研究所を開設。

 

〈パネル掲載写真〉

・貨客船諏訪丸(絵ハガキ複製・個人蔵)

大倉邦彦が往路で乗船。

・貨客船伏見丸(絵ハガキ複製・個人蔵)

大倉邦彦が復路で乗船。

・大日本帝国外国旅券(沿革史資料No.6703-1

大倉邦彦の欧州視察時の旅券(パスポート)。実物を閲覧室展示ケースに展示中。

訪欧視察旅行 略年表

大正十五年

三月二日(日本・東京駅)朝、汽車で東京駅を出発。夜、大阪駅着。

三月四日(日本・大阪駅)大阪駅から汽車で神戸埠頭へ。諏訪丸に乗船。

三月五日(日本・門司港)門司港で下船し、鳥栖を経由して西郷村へ。

三月六日(日本・門司港)西郷村からすったもんだの末、門司港へ。正午、出発。

三月八日(中国・上海)上海市内に出る。同文書院の恩師を訪問。

三月九日(中国・上海)上海を出発。

三月十二(日中国・香港)香港島を自転車で一巡。

三月十七日(シンガポール)翌日、植物園、ゴム園などを見学。

三月十九日(マラッカ沖合)市中をドライブ。ザビエルの古蹟を訪問。

三月二十四日(スリランカ)コロンボ

四月四日(アラビア)上陸して、自動車でカイロへ。

四月十日(フランス・マルセイユ)マルセイユ上陸。市内見物。

四月十一日(フランス・マルセイユ)朝の汽車でパリへ。

四月十二日(フランス・パリ・カレー)カレー港から英国へ。ロンドン着。

四月十三日(イギリス・ロンドン)銀行、日本大使館を訪問。

四月二十二日(イギリス・ロンドン)下宿生活開始。

四月二十七日(イギリス・ケンブリッジ)大学図書館員と会話。翌日、ロンドンへ。

五月四日(イギリス・ロンドン)大ストライキを経験。

五月十日(イギリス・ロンドン)下宿を移転。

五月二十六日(イギリス・スコットランド)スコットランドへ旅行(~六月二日)。

六月七日(イギリス・バーミンガム)バーミンガムの福祉事業を見学。

六月二十七日(イギリス・ロンドン)バッキンガム宮殿、ロンドン塔等を見学。

七月一日(フランス・パリ)ロンドンを出発してフランスへ。パリ着。セーヌ河畔、エッフェル塔、凱旋門を見学。

七月三日(フランス・パリ)パンテオン、ソルボンヌ大学見学。

七月四日(フランス・パリ)ノートルダム大聖堂、市内見物。

七月六日(フランス)ベルサイユ宮殿見学。

七月十日(ドイツ・ヴェルダン)

七月十一日(ドイツ・フランクフルト)翌日、ゲーテ、ルター等の古蹟を訪ねる。

七月十三日(ドイツ・ハイデルベルグ)

七月二十七日(ドイツ・ライン下り)ライン下り。ローレライの岩。暴風雨に遭う。ボン着。ベートーベンの生家、ボン大学を見学。

七月二十八日(ドイツ・ケルン)ケルン駅前のカトリック教会を見学。

七月二十九日(ドイツ・エッセン)クルップ工場、職工の住宅を見学。

七月三十一日(ベルギー・ブリュッセル)

八月一日(ベルギー・ワーテルロー)ワーテルローの戦場跡。ナポレオンを偲ぶ。

八月二日(オランダ・ハーグ)

八月三日(オランダ・アムステルダム)スピノザの家、墓を訪問。国立博物館へ。

八月四日(オランダ)

八月六日(ドイツ・ベルリン)ドイツ・ベルリンへ帰る。

八月八日(ドイツ・ポツダム)ポツダム見学。ドイツ人に珍しがって見られる。

九月二日(ドイツ・ライプチヒ)ライプチヒへ。夜にはベルリンへ戻る。

九月四日(ドイツ・ベルリン)フィンランド行きの船に乗る。

九月六日(フィンランド)フィンランド着。絵の国に来たようだと(~九月十四日)。

九月十五日(スウェーデン・ストックホルム)ストックホルム着(~九月二十日)。

九月二十一日(デンマーク・コペンハーゲン)コペンハーゲン着。国民高等学校を見学。

九月二十三日(ドイツ・ハンブルグ)二十二日、ハンブルグへ。哲学者ムアに会う。

十月一日(ドイツ・ハンブルグ)ハンブルグ港、公園、大学、図書館を見学。

十月四日(ドイツ・ハンブルグ)ビスマルクの墓へ。五日、ハンブルグを発つ。

十月六日(イギリス・ロンドン)再びロンドンへ。

十月十四日(イギリス・ロンドン)ピカデリーサーカス付近で映画を観る。

十月十六日(イギリス・ロンドン)バッキンガム宮殿へ。

十月二十日(イギリス・オックスフォード)オックスフォード大学、図書館を見学。日帰り。

十月二十二日(イギリス・マンチェスター)図書館、教会、病院を見学(~十月二十三日)。

その後、原田三千夫は図書館研究兼図書購入の目的を以てロンドンに留まる。大倉邦彦は十月下旬ロンドンを出発し、フランス、スイス、イタリアを経由し、十一月下旬、ナポリ発の伏見丸にて帰路に着き、昭和二年一月上旬神戸に到着した。

 展示品解説(図書館 閲覧室、展示ケース内)

 

大日本帝国外国旅券(沿革史資料No.6703-1

大倉邦彦の欧州視察時の旅券(パスポート)。

外国人登録証明書(沿革史資料No.6703-2

英国で発行された大倉邦彦の外国人登録証明書。

欧州視察記念アルバム(沿革史資料No.68686871

視察時の撮影された写真のアルバム。その中には、各国の名所旧跡の写真が散見される。

教育施設のパンフレット(沿革史資料No.5922

欧州各国の教育施設を視察した際に入手したパンフレットや調査メモ。

「日誌」二冊(沿革史資料No.2495

原田道生(三千夫)が記した「日誌(研究所庶務日誌)」。十月の記述に「図書館研究兼研究図書購入の目的を以て倫敦に留る」とある。図書購入が視察旅行の目的の一つであったことがわかる。「欧州に於て書籍を購入した日誌」は、その図書購入に関する、昭和二年一月五日から同三年二月二十七日の間の記録である。

 

展示パネル解説(図書館 公開書庫内)

 

世界遺産とは                                                  

世界遺産とは、地球上に存在する貴重な文化財や自然環境を「人類共通の遺産」として、次の世代に引き継いでいくものです。一九七二年、第十七回ユネスコ総会において「世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)」が採択されて正式にスタートしました。世界遺産には「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」の三種類があり、国際的な協力のもとで保護保全されています。現在、登録されている世界遺産は計九一一件あり、その内、文化遺産が七〇四件、自然遺産が一八〇件、複合遺産が二七件となっています。(二〇一〇年八月現在)

 

世界遺産の種類

〈文化遺産〉顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など(七〇四件) 

(例)法隆寺(奈良)、万里の長城(中国)、ローマ歴史地区(イタリア)、ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)等

〈自然遺産〉顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域(一八〇件)

(例)屋久島(鹿児島)、四川省のジャイアントパンダ保護区(中国)、ガラパゴス諸島(エクアドル)、グレートバリアリーフ(オーストラリア)等

〈複合遺産〉文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産(二七件)

(例)泰山(中国)、マチュピチュ(ペルー)、ラップ人地域(スウェーデン)等

〈危険遺産とは?〉

紛争・自然災害・都市開発などによって、その価値が失われるような状況にある世界遺産は、「 危機にさらされている世界遺産リスト」に登録されます。 その後、特別な措置が施され、危機的な状況を脱したとみなされれば、危機遺産リストから削除されます。

〈過去に危険遺産リストに登録されたことのある世界遺産〉

アンコール遺跡(カンボジア:一九九二~二〇〇四年)、ケルン大聖堂(ドイツ:二〇〇四~二〇〇六年)、ガラパゴス諸島(エクアドル:二〇〇七~二〇  一〇年)

 二〇一〇年八月現在、危険遺産リストに登録されている世界遺産は三四件です。

 

聖地アヌラーダプラ(スリランカ)

〈文化遺産・登録年一九八二年〉

スリランカ中央部に位置するアヌラーダプラは、紀元前五世紀から十一世紀に至るまでシンハラ王朝の都がおかれた政治、文化の中心であり、紀元前三世紀、インドのマヒンダ(アショカ王の息子)によって仏教が伝えられ、サンガミッタ(アショカ王の妹。あるいは娘)によってブッダガヤーの菩提樹が移植された仏教の聖地である。十一世紀初頭、タミル系チョーラ朝の侵攻によって南部のローハナに都が遷されて以降、ジャングルに埋もれたゴーストタウンとなっていたが、十九世紀に復興され、現在では多数の仏教遺跡によってスリランカ観光の中心地として賑わっている。

 

ジェーダヴァナ・ダーガバ(沿革史資料No.6500-1-045・絵ハガキ複製)

紀元前三世紀、マハーセーナ王の建立。現在の高さは70m。創建当時は152mもあったと伝えられる。

・ロハ・パーサーダ 黄銅宮殿(沿革史資料No.6500-1-057・絵ハガキ複製)

紀元前二世紀、ドゥッタガーマニー王の創建。整然と立ちならんだ四〇列四方の石柱群が往時の繁栄ぶりをしのばせる。黄銅宮殿の名称は屋根が黄金色であったことに由来する。

・トゥーパーラーマ・ダーガバ(沿革史資料No.6500-1-046・絵ハガキ複製)

紀元前三世紀、デーワーナンピア・ティッサ王が建立したスリランカ最古の仏塔。釈迦の右の鎖骨が納められていたと伝えられる。

・聖菩提樹(沿革史資料No.6500-1-048・絵ハガキ複製)

スリー・マハー菩提樹(聖なる菩提樹)と称される。階段をあがったところ、中央上部に見える白く細い木が、ブッダガヤーからもたらされた菩提樹の分け木である。

・ルワンウェリ・ダーガバの復旧した仏像(沿革史資料No.6500-1-055・絵ハガキ複製)

ルワンウェリ・サーヤ・ダーガバは紀元前二世紀、ドゥッタガーマニー王が建設を開始し、息子サッダー・ティッサ王の時代に完成した。創建当時の高さは110mであったとされる。

・ムーンストンと階段(沿革史資料No.6500-1-053・絵ハガキ複製)

クイーンズ・パビリオン(王妃の宮殿)入口に敷かれた半月石。この石の向こう側は土足 禁の聖地とされる。外側の半円には象、牛、獅子、馬が、内側の半円には鳥が描かれている。

 

聖地キャンディ(スリランカ)              

〈文化遺産・登録年一九八八年〉

キャンディは十六世紀の終わりにヴィマラ・ダルマ・スーリヤ一世によって都がおかれてから、十九世紀初めのイギリス軍侵攻によって陥落するまで、二百年以上にわたって繁栄を続けたシンハラ王朝最後の都である。中心のキャンディ湖のほとりには、四世紀にインドよりもたらされた釈迦の犬歯をまつる仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ)が建立され、シンハラ暦のエサラ月(六~七月)には、この仏歯を納めたストゥーパをご神体とし、数千人の人々と百頭を越える象が街中をパレードするスリランカ最大の祭り「ペラヘラ祭り(マハーヌワラ・エサラ・ダラダー・ペラヘラ)」が開催される。

 

・湖ごしに見た仏歯寺(沿革史資料No.6500-1-034・絵ハガキ複製)

キャンディ湖は十九世紀初め、シンハラ王朝最後の王スリ・ヴィクラマ・ラジャシンハによって造られた人工湖である。中央の小島はハーレムとなっており、王宮とは地下トンネルでつながっていた。

・仏教僧侶(沿革史資料No.6500-1-027・絵ハガキ複製)

国民の70%が仏教を信仰している。

・ヒンズー教徒(沿革史資料No.6500-1-028・絵ハガキ複製)

国民の15%がヒンズー教を信仰している。

・仏歯寺(沿革史資料No.6500-1-040・絵ハガキ複製)

現在の仏歯堂は十八世紀初めの再建である。白い壁と赤い屋根が印象的な八角堂は、十九世紀初頭に国王の休憩所として作られ、現在は図書館として利用されている。

・ペラヘラ 祭行列・象(仏歯の行列の祭り)(沿革史資料No.6500-1-035・絵ハガキ複製)

象の背中に仏歯を納めた黄金のストゥーパが乗せられている。

・ペラヘラ 祭行列・象(沿革史資料No.6500-2-166・絵ハガキ複製)

象の前方にドラマーやダンサーが確認できる。

・象の水浴び(沿革史資料No.6500-1-036・絵ハガキ複製)

仏教においてもヒンズー教においても象は神聖視されている。ペラヘラ祭りでは象の頭数が話題の中心となるため、象はスリランカ全土から多額の料金を払って集められている。

 

メンフィスとその墓地遺跡 ―ギーザからダシュールまでのピラミッド地帯―〈エジプト〉

〈文化遺産・登録年一九七九年〉

エジプトの象徴的な建造物であるピラミッドやスフィンクスなどは、メンフィスを都として栄えた紀元前二六八二~二一九一年頃に建設され、周辺には約三〇基あまりのピラミッドが存在しています。

ピラミッドは王の墓であると考えられてきましたが、遺体や副葬品等が出土しないことから、その目的は正確にはわかっていません。しかし現在ではナイル川が氾濫する農閑期に、人々へ仕事を与えるための公共事業だったのではないかとも言われています。

 

・ギーザの3大ピラミッド(沿革史資料No.6500-1-088・絵ハガキ複製)

エジプトで最も有名なピラミッドで、右側からクフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド。クフ王のものが最大で、建造当初の高さは約147mであったが、現在は約135mとなっており、頂上には建造当初の高さを示す棒が立てられている。一辺が2.3mの石灰岩およそ一〇〇万個で作られた。

・カイロ ピラミッド(沿革史資料No.6500-1-101・絵ハガキ複製)

手前からのびる線路は国有鉄道のエジプト鉄道のものだと思われる。絵ハガキの中央奥にギーザの三大ピラミッドも見える。

サッカラの階段ピラミッド(沿革史資料No.6500-1-093・絵ハガキ複製)

第三王朝ジョセル王の墓といわれ、彼に仕えた宰相イムホテプの設計とされる。当初は低い台状墳(マスタバ墳)として着工したが、設計変更と増築により、六層の階段状となる。史上初のピラミッドといわれ、正四角錐のピラミッドに至る経過を示すものである。

・ギーザのスフィンクスとピラミッド(沿革史資料No.6500-1-092・絵ハガキ複製)

ギーザのスフィンクスは、カフラー王のピラミッドから東に400m下ったところにある。ライオンの体を持ち、ネメスと呼ばれる頭巾をつけている。その顔はカフラー王を模したものだといわれる。

・ギーザのスフィンクスとピラミッド(沿革史資料No.6500-1-090・絵ハガキ複製)


〈コラム〉ピラミッド前で撮影された集合写真

                      (沿革史資料No.6868・写真複製) 

大倉邦彦に随行した秘書の原田三千夫は視察先のヨーロッパへ向かう途中、エジプトで砂漠横断をしている。原田は大正十五年四月四日の日記で、その時のことを以下のように述べている。「(前略)風が強いのを冒して砂漠横断をすることになった。皆砂塵を食う事を恐れたが、来てみれば案外砂塵も立たない。」写真はその時に撮影されたものだと思われる。ラクダに乗る人々の姿は何とも微笑ましい。邦彦は後方左端、原田は後方右から2番目にその姿が見える。また、邦彦はのちに、郷里の佐賀に開いた「農村工芸学院」の生徒への書簡の中で、砂漠横断の感想を「小学校時代に先生から聞き、本で読んで想像して居たよりも、実感ハより以上不思議な砂土の海だと思った。大勢の連れがあってさへ心細くなる程奇異の感を起させた」と書いている。また、砂と風の外に何もない砂漠と、政治経済・教育・宗教など、あらゆるものが形だけの存在で、内容が乾き切っている現代社会はよく似ており、農村工芸学院はそんな現社会の中で、砂漠を旅する隊商の命の縄となるオアシスの役目を果たすために設けられたのだと述べている。

 

カイロ歴史地区(エジプト)  

〈文化遺産・登録年一九七九年〉

 『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』の舞台でもあるカイロは、九六九年にイスラム教を奉じるファーティマ朝の第四代カリフ(最高指導者)によって建設された。カイロはイスラム世界における政治経済の中心都市として発展し、宗教施設であるモスクも数多く造られた。現在、エジプトの首都であるカイロには、近代的なビル群が広がっているが、その一方では往時を偲ぶイスラム建築も各所に残っており、その街並みは時代を超えた融合を見せている

 

・カイロの街並み(沿革史資料No.6500-1-094・絵ハガキ複製)

町の各所に、モスクの特徴であるミナレット(尖塔)が立っている。右手前に見えるのはブン・トゥールーン・モスク、右奥はムハンマド・アリ・モスクである。左奥のアル・アズハル・モスクには現存する世界最古の大学というアズハル大学がある。

・アブディーン宮殿(沿革史資料No.6500-1-103・絵ハガキ複製)

「エジプト近代化の父」といわれるムハンマド・アリの孫、イスマイールによって建てられた。現在、建物は大統領府の所有で、その一部が博物館として解放されている。

・スルタン・ハッサン・モスク(沿革史資料No.6500-1-099・絵ハガキ複製)

十四世紀頃にスルタン・ハッサン公が建築に着手し、その死後完成した。マドラサ(学院)と廟を持つマムルーク朝時代の代表的モスクである。

・シタデル・モスク(ムハンマド・アリ・モスク)(沿革史資料No.6500-1-100・絵ハガキ複製)

シタデル(城塞)は、十字軍への防備のために築かれたもので、歴代支配者の多くが居住した軍事上の重要拠点であった。ムハンマド・アリ・モスクは、中央のドームと細長い二本のミナレット、幾層もの城壁が特徴的なトルコ形式のモスクである。

 

〈コラム〉南部兄弟商会について

絵ハガキの上部に「NAMBU BROS.TOURIST AGENCY PORT SAID」という記載がある。これは南部憲一が兄の辰造、弟の慶三と共に営んでいた南部兄弟商会のことである。大倉邦彦の秘書、原田三千夫の日記には以下の記述がある。「右手にシナイ山を望み、やがてポートテューイックの港に投錨、午後三時頃なり。ここより上陸してカイロに向ふ。南部兄弟商会の案内により内外人合せて三十人計り。」邦彦らの一行はエジプトで砂漠横断をしているが、それらの手配は南部兄弟商会が行った。南部兄弟商会は元々エジプトのポートサイドにあった貿易会社だが、スエズ運河を通行する観光客の案内等もしていたようである。

 

パリのセーヌ河岸(フランス)

〈文化遺産・登録年一九九一年〉

パリを流れるセーヌ川両岸のうち、東西およそ8kmが登録対象となっている。登録対象地区はパリの中心部であり、古代ローマから近世まで数多くの建造物が残されている。紀元前三世紀、シテ島周辺にケルト系民族が住み着いたのが始まりで、約二二〇〇年の歴史を有する。十九世紀後半、ナポレオン三世時代の県知事オスマンによりパリ大改造がなされ、その後多くの町のモデルとなった。

 

アレクサンドル三世橋(沿革史資料No.6500-2-144・絵ハガキ複製)

フランス共和国とロシア皇帝アレクサンドル三世の友好の証として、ロシアから寄贈された橋。一九〇〇年のパリ万博に合わせて建造された。優美な装飾が施され、パリで最も美しい鉄橋と言われている。

・コンコルド広場・メルクリウス像(沿革史資料No.6710-014・絵ハガキ複製)

・コンコルド広場(沿革史資料No.6500-2-140・絵ハガキ複製)

フランス革命時には「革命広場」と呼ばれた。広場中央のオベリスクは、かつて古代エジプトのルクソール神殿にあったもの。

・エッフェル塔(沿革史資料No.6710-015・絵ハガキ複製)

一八八九年パリ万博の際に建設された。高さ312.3mは当時、世界一であった。

・トロカデロ宮殿から見たエッフェル塔(沿革史資料No.6500-2-167・絵ハガキ複製)

トロカデロ宮殿は、一八七八年のパリ万博の主会場として使用されたが、その後、一九三七年に取り壊された。今はなき宮殿からエッフェル塔を撮影した貴重な絵ハガキである。

・チュイルリー公園(沿革史資料No.6710-019・絵ハガキ複製)

・ノートルダム大聖堂(沿革史資料No.6710-013・絵ハガキ複製)

ゴシック建築の最高傑作。ローマ時代からの歴史があり、一八〇四年にはナポレオンの戴冠式が行われた。また、ユーゴーの小説『ノートルダムのせむし男』の舞台として有名である。

 

フォンテーヌブローの宮殿と庭園(フランス)   

〈文化遺産・登録年一九八一年〉

パリの南東60kmにあるフォンテーヌブローの森は、古くはフランス王家の狩猟場であった。十六世紀前半、この地に宮殿を建てたのがフランソア一世である。彼はイタリアのルネサンス文化に心酔し、イタリアから多くの建築家、画家、彫刻家、漆喰職人らを呼び寄せてこの宮殿を建設した。彼の夢はこの宮殿を「第二のローマ」にすることであった。

その後、このフォンテーヌブロー宮殿は、アンリ二世、ルイ十四世、ルイ十六世などの歴代国王、そしてフランス革命後のナポレオン一世に愛され、その都度増改築された。

 

フォンテーヌブロー宮殿(沿革史資料No.6500-2-137・絵ハガキ複製)

フランソア一世はこのフォンテーヌブローの森をこよなく愛し、度々訪れていたが、一五二八年に宮殿を大改造して、ほぼ現在の形を作り上げた。

・フォンテーヌブロー宮殿の花園(沿革史資料No.6500-2-146・絵ハガキ複製)

フォンテーヌブローの森は、東西25km、南北18kmに及ぶ。砂岩の上をブナ、白樺など多種類の広葉樹が覆い、動植物の楽園となっている

・フランソア一世の回廊(沿革史資料No.6500-2-150・絵ハガキ複製)

ミケランジェロの弟子、イル・ロッソがデザインした回廊。絵画と化粧漆喰が交互に並んでいる。

・アンリ二世の回廊(沿革史資料No.6500-2-137・絵ハガキ複製)

アンリ二世は、フランソア一世の息子である。彼とその妃カトリーヌ・ド・メディチにより宮殿の増築が行われた。

・会議室(沿革史資料No.6500-2-152・絵ハガキ複製)

中央のテーブルは約120cm(直径)の一枚板で作られている。

・ナポレオン1世の寝室(沿革史資料No.6500-2-171・絵ハガキ複製)

ナポレオン一世は宮殿をこよなく愛し、帝位を退くまでここに住み、執務を続けた。

・別れの中庭(沿革史資料No.6500-2-155・絵ハガキ複製)

一八一四年、帝位を追われたナポレオン一世は、この中庭で近衛兵に別れを告げた。むせび泣く側近たちに背を向け、彼はただ一粒の涙も流すことなく馬車に乗り込み、エルバ島へ旅立った。

 

ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域(イタリア)〈文化遺産・登録年一九九七年〉

ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アヌンツィアータはナポリに程近いヴェスヴィオ山の麓にあった都市である。いずれも西暦七九年八月二十四日に起こったヴェスヴィオ山の大噴火で火山灰に埋没したが、一七〇〇年後の十八世紀半ばから本格的な発掘が行われ、その存在が明らかとなった。市庁舎、野外劇場、豪華な邸宅、街路、給水設備などの遺構からは初期ローマ帝国時代の人々の豊かな暮らしぶりを垣間見ることができる。

 

・フォロ(沿革史資料No.6500-1-118・絵ハガキ複製)

フォロはポンペイの町の中心的な場所で、裁判や商取引、政治経済の討議などが行われたバシリカ、アポロ神殿、浴場、食料市場などの施設に取り囲まれた公共広場である。フォロの床は大理石で舗装され、皇帝の像が建ち並んでいたとされる。

アポロ神殿(沿革史資料No.6500-1-110・絵ハガキ複製)

フォロの西側に位置し、四十八本の列柱に囲まれる大神殿である。正面にはギリシャ神話に登場するアポロのブロンズ像が置かれていたが、現在、オリジナルはナポリにある国立考古学博物館に収蔵され、遺跡にはレプリカが置かれている。

・ファウノの家(ファウヌスの家)(沿革史資料No.6500-1-119・絵ハガキ複製)

ポンペイで見つかった個人住宅の中でも、群を抜く豪邸で、その名は牧羊神ファウノの像が あることに由来する。約三〇〇〇㎡の敷地に大広間、中庭、花壇、泉水が配され、邸内からはアレキサンダー大王の合戦を描いたモザイク画なども見つかっている。

・ヴェスヴィオ山と登山電車、ナポリ中心からの眺望(沿革史資料No.6500-1-439・絵ハガキ複製)

かつてポンペイを含む周辺の都市を滅ぼしたヴェスヴィオ山では、一八八〇年に登山電車が敷設された。その宣伝のために作られた歌が、日本でもコマーシャル等で耳にすることのある「フニクリフニクラ」(Funiculi funicula)である。なお、登山電車は一九四四年の噴火で破壊されたが、一九九〇年に復活した。

・石臼とかまど(沿革史資料No.6500-1-127・絵ハガキ複製)

ポンペイでは石臼を使って粉をひき、パンを焼いて販売していた。ポンペイの町にはパン屋の他にも数多くの商店があり、豊かな市民生活を営んでいたことが想像される。


〈コラム〉渡欧記念のアルバムから

ポンペイ市街 (沿革史資料No.6871・写真複製)

この写真は大正十五年十一月頃、邦彦が帰国する少し前に撮影されたものだと思われる。写真上部のメモは大倉邦彦に随行した原田三千夫によるもの。「ポンペイ発掘市街 紀元前九百年頃の市街紀元七十年頃火山の灰ニうめられた それが今より百年前から発見されて」と書かれている。

 

サンタ・マリア・デッレ・グラッツィェ教会(イタリア)   

〈文化遺産・登録年一九八〇年〉 

イタリアのミラノにある教会。十五世紀後半、ドメニコ会の修道院の教会として建設された。ルネサンス期の建造物の中でも最大級のもの。また、教会の建設にともなって修道院も改築された。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、その改築の際に修道院食堂の壁画として描かれた。

 

・サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(沿革史資料No.6500-1-189・絵ハガキ複製)

・サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内庭(沿革史資料No.6500-1-192・絵ハガキ複製)

・レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」(沿革史資料No.6500-1-200・絵ハガキ複製)

画の題材は、キリストがこの中の一人が自分を裏切ると告げる場面である。画は剥落や加筆により損傷が激しかったが、科学的修復が施され一九九九年に当初の鮮やかさを取り戻した。展示した絵ハガキは、損傷の激しかった当時の画の状態が窺われるものである。

 

〈コラム〉原田三千夫『渡欧日記』より

視察旅行に随行した原田三千夫は、「最後の晩餐」に対して興味深い感想を以下のように記している。「壁絵の色褪せてはあれど、尚ほ十分見分けはつく。有名なればとて見る絵には先入観のない批判を下し難い事は、常に遺憾に思ふ。唯だ之れが有名なのかと無理にその価値が強ひられる様で、一種不愉快な感じもする。」(沿革史資料No.6909

 

ヴェネツィアとその潟(イタリア)                      

〈文化遺産・登録年一九八七年〉

運河と橋で結ばれた一二〇余の島の上に築かれた都市。街には、ロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロックなど様々な様式の建造物が建ち並ぶ。その街並からは、東西貿易の中継地として繁栄したヴェネツィア共和国の往時の面影が偲ばれる。

 

・ヴェネツィア遠景(沿革史資料No.6500-1-212・絵ハガキ複製)

・ため息橋(沿革史資料No.6500-1-207・絵ハガキ複製)

ドゥカーレ宮殿の尋問室と牢獄を結ぶ橋。投獄される囚人がため息をつくことから称されるようになった。

 

フィレンツェ歴史地区(イタリア)                        

〈文化遺産・登録年一九八二年〉

古代ローマに起源をもつ都市。ルネサンス文化を体現する「花の都」と称される。その都市の繁栄を築いたのは、金融業で巨万の富を築いたメディチ家である。今も街には、メディチ家に関する歴史的建造物が数多く残る。

 

・ドゥカーレ宮殿(沿革史資料No.6500-1-209・絵ハガキ複製)

ヴェネツィア共和国時代に総督邸兼政庁として使用された。外観はゴシック様式によるが、イスラム建築の影響も見られる装飾が施されていることが特徴の一つである。

・フィレンツェ遠景(沿革史資料No.6500-1-183・絵ハガキ複製)

・ポンテ・ヴェッキオ橋(沿革史資料No.6500-1-184・絵ハガキ複製)

フィレンツェ最古の橋。現在の橋は、一三四五年に再建されたもの。橋の上に装飾店が建ち並んでいることで知られている。下記、原田の『渡欧日記』に登場する橋である。

 

〈コラム〉原田三千夫『渡欧日記』より

視察旅行に随行した原田三千夫は、「Firenzeの印象が他の伊太利の何の都よりも、一等優れてゐると後で感じた」とフィレンツェの感想を述べるとともに、街の印象を以下のように五条にわたり書き記している。

一、黄色い壁に赤煉瓦、それが古びて苔むして、古い町の感じを与へるには十分。道路ハ一般に狭い。近代式の建物は殆どない。恰も埃及のカイロに於ける気分を味う。

二、Duomoが色の異なった大理石で、派手な縞模様をしてゐるのは余り感じがよくない。殊にその格好も俗である。

三、Arno川にかゝったPonte Vecchioの面白さ。Gallerie degli Uffiziから写生してゐる画家があったが、成程共感。

四、Ponte Vecchioから川上を望んだ。小高い丘やなだらかな遠山。点在する家の感じは如何にも水彩画的の美しい感じを与へる。

五、周囲か小高い山に包まれたFirenzeの総観も穏やかな、如何にも文化の淵源となるに適する。 (沿革史資料No.6909

 

ローマ歴史地区(イタリア)                       

〈文化遺産・登録年一九八〇/一九九〇年範囲拡大〉

イタリアの首都。紀元前五〇九年にローマ人による共和制確立以後、現代に至るまで二五〇〇年間途切れることなく芸術活動が行われてきた。しかも各時代の建造物が街に現存している世界に類をみない都市である。そのような特徴から「永遠の都」と称される。

 

・コロッセオ(沿革史資料No.6500-1-154・絵ハガキ複製)

古代ローマの円形闘技場。長径188m、短径156mの楕円形で、収容人数は五万人余という巨大施設であった。

・パンテオン(沿革史資料No.6500-1-132・絵ハガキ複製)

紀元前二七年にアグリッパが創建、一二五年にハドリアス帝が再建した。アーチとコクリートという独特な技術を用いるローマ建築の傑作。パンテオンとは「万神殿」を意味する。

〈フォロ・ロマーノ〉

ローマ市民が集い、皇帝が凱旋した古代ローマ帝国中心部の遺構。フォロ・ロマーノとは「ローマ市民の広場」を意味する。

聖なる道(沿革史資料No.6500-1-150・絵ハガキ複製)

フォロ・ロマーノで最古の大道り。凱旋行進は、この大通りを通り、カンピドリオの丘に向かった。

・巫女の住まいの跡(沿革史資料No.6500-1-156・絵ハガキ複製)

ローマでもっとも古い信仰の一つヴェスタ信仰。ヴェスタ神殿は、炉とかまどの女神「ヴェスタ」に捧げられた。巫女は、その神殿の聖なる火を守ることをつかさどった。

・サトゥルノ神殿(沿革史資料No.6500-1-151・絵ハガキ複製)

紀元前四十二年に再建。貧民・奴隷階級の人々に信仰されていたサトゥルノ神に捧げられた神殿。十二月の祭りの期間中は、身分が逆転し、主人が奴隷に仕えたといわれている。

カラカラ浴場〉

二一二年、カラカラ帝の治世に建造された浴場。11haの広さがあり、一度に一六〇〇人余が入浴できたという。

中央大広間 ぬるま湯の風呂(沿革史資料No.6500-1-167・絵ハガキ複製)

微温浴室(沿革史資料No.6500-1-177・絵ハガキ複製)

・冷浴場(沿革史資料No.6500-1-169・絵ハガキ複製)

 

ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)          

〈文化遺産|登録年一九九〇/一九九二/一九九九年範囲拡大〉

首都ベルリンの南西部ポツダムに十八世紀半ば頃、プロイセン王フリードリヒ二世(大王)が宮殿と庭園を造営した。以来、この地には同王家の多くの宮殿、庭園が建てられた。この宮殿の北東には素朴なたたずまいのツエツイーリエンホーフ宮殿があるが、第二次大戦末期、連合国が戦後処理を議すポツダム会談をここで開いたことでも知られている。

 

サンスーシ宮殿のフリードリヒ大王記念碑(沿革史資料No.6500-1-444445・絵ハガキ複製)

サンスーシ(Sanssouci)、フランス語で、「憂いなし」の意。ドイツ東部のポツダム市にある宮殿で十八世紀半頃、フリードリヒ大王の原案で建築された。南面して東西に長い一階建ての建物で、庭園は六段のテラスに続く。ドイツバロック建築の代表作である。

・サンスーシ宮殿の段庭 (沿革史資料No.6500-1-446・絵ハガキ複製)

六段の階段状の庭園(Terassen)

・サンスーシ宮殿中央部(沿革史資料No.6500-1-450・絵ハガキ複製)

宮殿の中心部分(Mittelbau)。

・サンスーシ宮殿の音楽室(沿革史資料No.6500-1-451・絵ハガキ複製)

フリードリヒ大王の音楽の間(Konnzertzimmer)。

・サンスーシのシチリア庭園(沿革史資料No.6500-1-452・絵ハガキ複製)

イタリア・シチリア地方風の庭園(Sizilianischer Garten)。

・サンスーシの古代寺院(沿革史資料No.6500-1-454・絵ハガキ複製)

この絵ハガキによると古代寺院(Antiken-Tempel)であるが、皇后(Kaiserin)の休憩所(Ruhestaette)との説明がついている。

 

ライン渓谷中流上部(ドイツ)               

〈文化遺産・登録年二〇〇二年〉

アルプスに源を発し、北海に注ぐ全長1320kmのライン川。その中流上部のマインツ~コブレンツ間の65kmは、古城や修道院、ブドウ畑が続く美しい景観と伝説に彩られ、多くの人達がライン下りを楽しむ名所である。マインツを出発してリューデスハイムを過ぎると詩に歌われた「ローレライの岩」が右岸に現れる。さらに下るとケルンに至る。

 

ライン川のローレライ岩(沿革史資料No.6500-1-398・絵ハガキ複製)

ライン川中流右岸にそびえる高さ132mの巨岩。かつてこの辺りは舟行の難所であった。この岩は山彦を起こすことで知られ、ローレライとは「待ち岩」を意味し、こだまを岩(lei)辺で待ち受ける(lauern)ことに由来するという。ハイネの詩「ローレライ」はジルヒエルの曲によって広く親しまれている。

ザンクトゴアール ライン川の岩(沿革史資料No.6500-1-400・絵ハガキ複製)

ライン下りの船着き場で、ここから両岸に古城を眺めてゆったりと蛇行すると、終点のコブレンツに着く。

・コブレンツ ライン川の眺め(沿革史資料No.6500-408・絵ハガキ複製)

西部、中部ヨーロッパでは、ドナウ川に次ぐ流量を誇るライン川。ドイツでは「母なるドナウ」に対し「父なるライン」と呼ばれ、古来ヨーロッパの政治、経済、文化に多大の役割を果たしてきた。

 

ケルン大聖堂(ドイツ)                                 

〈文化遺産・登録年一九九六年〉

ライン川畔に屹立するケルン大聖堂は世界最大のゴシック様式の建物で、ドイツ文化の誇りの象徴である。奥行き144m、最大幅86m、二基ある尖塔の高さは157m。建設開始は一二四八年だが、以後途中財政難から何度も工事は中断され、一八八〇年、着工から六三二年を経てようやく完成した。正式名はSankt Peter Und Maria

 

・ケルン ライン川(沿革史資料No.6500-1-431・絵ハガキ複製)

ライン川をはさんで対岸右寄りにケルン大聖堂を遠望する。

・ケルン大聖堂(西側)(沿革史資料No.6500-1-432・絵ハガキ複製)

・ケルン大聖堂(南側)(沿革史資料No.6500-1-433・絵ハガキ複製)

この南塔の五〇九段の階段を上ると、高さ95mの展望台に到達する。

 

ラップ人地域(スウェーデン)                          

〈複合遺産・登録年一九九六年〉

 ノルウェー、フィンランド、スウェーデンの三国とロシアの一部を含む、北緯6633分以北の北極圏をラップランドという。この地域に約五〇〇〇年前からサーメ人(ラップ人)と呼ばれる人々が生活している。サーメ人は、厳しい自然環境の中、トナカイとともに遊牧生活を営んでおり、手工芸や伝統音楽など独自の伝統文化を現在に伝えている。

 

・トナカイを引く男性(沿革史資料No.6710-087・絵ハガキ複製)

約四万人いるサーメ人のうち、二五〇人ほどがトナカイとともに遊牧生活を営んでいる。サーメ人はもともと狩猟民族であったが、三〇〇年ほど前から遊牧生活に移行している。

・トナカイと少年(沿革史資料No.6710-091・絵ハガキ複製)

民族衣装を着た二人の女性(沿革史資料No.6710-084・絵ハガキ複製)

色彩豊かな上着は「コルト」と呼ばれる。女性の手によって織られ、デザインや飾り付けは 村ごとに異なるという。

・ケブネカイセ山(沿革史資料No.6710-094・絵ハガキ複製)

アビスコ国立公園にあるスウェーデン最高峰の山(2123m)。周辺には氷河や氷食湖、滝など美しい自然が広がっている。

・室内の女性(沿革史資料No.6710-088・絵ハガキ複製)

遊牧中の住まいであるテントは「ラッボ」と呼ばれ、トナカイの毛皮で作られている。

 

〈コラム〉ラップランドのサンタクロース

一九二五年にフィンランドの新聞が「北極では食料が不足し、トナカイに餌をあげることが出来なくなったサンタクロースは、フィンランドのラップランドに引っ越した」という記事を掲載しました。一九二七年にはフィンランド国営放送局が、「サンタクロースはラップランドのコルヴァトゥントゥリ山にトナカイと一緒に住む」と発表しました。

サンタクロースはこの山に、お手伝いの妖精トントゥーやトナカイたちと一緒に住み、世界中の子供たちが良い子にしているかを日々観察しているということです。