港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第230回 港北のお城と館 ―その5、佐々木高綱館―

 

7.佐々木高綱館

前回に続けて『新編武蔵風土記稿』(以下、風土記稿と略称)を見て行くと、鳥山村の項に「佐々木高綱館跡」の記述があります。この館は、地名から鳥山館とか、鳥山城と呼ばれることもあります。

佐々木高綱(1160?~1214年)は、源頼朝の家臣で、名馬生唼を頼朝から拝領し、宇治川の合戦(1184年)で梶原景時と先陣争いをしたことで有名な武将です。高綱と生唼については第90回と第91回で書きましたので、そちらをご覧ください。

さて、風土記稿によると、源頼朝は佐々木四郎左衛門尉高綱に馬飼料(軍馬の飼育料)として鳥山の地を与えたとあります。四郎は通称、左衛門尉は官職です。いつのことか、年代は書かれていません。

鳥山町の三会寺は、源頼朝が佐々木高綱に奉行を命じて建立させたとの寺伝があります。承安年間(1171~75年)あるいは建久3年(1192年)のことといわれています。馬飼料もこの頃のことでしょうか?

風土記稿の鳥山村の項には、佐々木高綱に関連した記述がたくさんあります。三会寺には、境内の左手に、小机領三十三箇所子歳観音霊場の2番札所として知られる観音堂があります。風土記稿はその観音縁起を引用しています。

観音縁起によると、佐々木高綱は、鳥山八幡宮の西側に、「十余町四方の館」を構えて、その四方に堀をめぐらして要害の地としていました。高綱の館を城とも呼ぶのは、これに由来します。館を構えた時期は不明です。館の庭先には18町の馬場がありました。その跡地を馬場とか馬場崎といいます。

十余町四方というと、普通に読めば1辺の長さが十余町、つまり1㎞以上になりますので、現在の鳥山町全体(約1.1㎢)と同じかもう少し広い屋敷ということになってしまいます。四方(屋敷の周囲全体の長さ)の合計が1㎞余と読めば、1辺が250m余となり、これなら有り得るかも知れません。馬場の18町(約2㎞)も、直線距離ではなく、周囲が約2㎞と解釈すべきなのでしょうか?

佐々木高綱はこの館に、目代(代官のこと)として六角太郎と鳥山左衛門の二人を、舎人(目代の下役)として猿山庄司を住まわせました。高綱もこの館に住んでいたという説もありますが、自身は鎌倉に住み将軍頼朝に仕えていたようです。高綱の愛馬生唼は鳥山の地で飼育され、ここで死に、駒形明神(後に馬頭観音)として祀られましたが、高綱は晩年出家して諸国を廻り、信濃国(長野県松本市)で亡くなったと伝えられています。

鳥山という地名自体も佐々木高綱に縁があるという説があります。高綱が目代に任命した鳥山左衛門の名字にちなんで地名が生まれたという説です。通説では、この辺りは水田が広がる中に島のように僅かばかりの陸地がある地形をしていることから、島の旧字「嶋」を鳥と山に分解して、それが村名になったといわれています。風土記稿はこの両説を紹介していますが、真偽の程は定かでありません。しかし、『吾妻鏡』の暦仁2年(1239年)2月14日条に、佐々木泰綱(高綱の兄の孫)が「小机郷鳥山等」の開発を命じられたとの記事がありますから、この頃にはすでに鳥山の地名が定まっていたことが知られます。

さて、前述した三会寺の観音堂ですが、本尊の十一面観音が祀られたのは三会寺の創建よりも古く、高綱の頃は鳥山八幡宮の乾の方(北西)、字ボウタというところにお堂がありました。お堂の前には川が流れていて、風土記稿は、高綱がそこで馬の足を洗ったとの言い伝えを記しています。この川には、目代の猿山庄司が架けた橋があり荘司橋と呼ばれていたのですが、江戸時代にはすでに川も橋も無くなっていたようです。いったいどこにあったのでしょうか?

今から約200年前、風土記稿の調査が行われた時、鳥山村には蛭田という百姓の旧家がありました。当主は七郎右衛門。先祖は高塚弾正といい、弾正の子が織部で、この頃から蛭田姓を名乗るようになったのだそうです。蛭田家には、佐々木高綱の一族であるとの言い伝えがあり、屋敷地の内に小さなお堂を建て、将軍地蔵を祀っていました。将軍地蔵は高綱の守り本尊であり、それを蛭田織部が譲り受けたとの伝承も持っていました。『港北百話』には、高塚弾正が堂守をしていて、文治2年(1186年)に没した時に、織部が相続したと記しています。この将軍地蔵について、風土記稿は長さ1尺余(30㎝余)としていますが、『港北百話』は2尺程(60㎝程)と記しています。筆者は現物を見たことが無いので、どちらが正しいのか分かりません。

佐々木高綱の館については、今ではその場所も規模もよく分かりませんが、鳥山の地には佐々木高綱の足跡が数多く残されています。

 

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

(2018年2月号)