港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第100回 菊名の水行場 -多くの方々との御縁に導かれて-


「水行」は、「みずぎょう」と「すいぎょう」の二通りの読み方がありますが、成田山(なりたさん)に問い合わせたところ、「すいぎょう」と呼んでいるとの回答でしたので、前回のルビを「すいぎょう」と訂正します。
さて、菊名駅近くの「成田山水行場」については、全く場所が分からず、昨年夏頃から途方に暮れていました。菊名駅からは遠く離れていますが、大口(おおぐち)駅前商店街脇の七島不動尊(ななしまふどうそん)のことかとも考えていました。その頃、大倉精神文化研究所開設の当初に作られたと思われる古い衝立(ついたて)の修理をすることになり、樽町(たるまち)の吉川英男(よしかわひでお)さんに御紹介いただき、大工の武田信治(たけだのぶはる)さんのお世話になりました。武田さんは、歴史に関心が深く昔のことにも詳しいので、大綱八景(おおつなはっけい)について話を伺いました(第97回参照)。
武田さんと何度かお会いしている間に、ある日、大きな写真パネルを2枚見せていただきました。1枚は「よいとまけ」(建築現場の地固め作業)の写真でした。武田さんの父親貞太郎(ていたろう)さんも大工をされており、現場監督をしている写真です。もう1枚は、裏に「大正九年、大綱村菊名水行場、寒行者一同及(および)世話人」と書かれていました。まさしく探し求めていた「成田山水行場」の写真です。大勢の人の集合写真ですが、白装束で斜面の中程に立っている人が17名、これが寒行者(かんぎょうじゃ)でしょう。手前にいる和服姿の5名が世話人でしょうか。後ろに村人が21名程写っています。幟旗(のぼりばた)には「大綱村行場(おおつなむらぎょうば)」、提灯(ちょうちん)には「新栄講(しんえいこう)」の字が読み取れます。この写真について、武田さんからは、寒行者の中にお父さんがいることと、白装束姿で唯一の子供が、後に鳶(とび)の頭(かしら)となった畑野豊吉(はたのとよきち)さんであること、場所は菊名のいづみストアーの近くであることを教えていただきました。水行場は戦後まで残っていたようですが、武田さんはそれ以上詳しくは御存じありませんでした。
武田さんからは、後日、父親貞太郎さんが使っていた鈴を見せていただきました。冬の日没後、貞太郎さんは白装束の上に鈴をたすき掛けにして、大豆戸町(まめどちょう)の自宅から旧綱島街道を走っていき、水行場で水を被(かぶ)り、帰ってくると白衣が凍り付いていて、奥さんは脱がすのに苦労したそうです。
やっと手がかりが出来ましたが、この先どの様に調べようかと考えていたころのことです。第93回で『大綱時報(おおつなじほう)』を採り上げたことから、『菊名新聞』の大崎春哉(おおさきはるや)さんとお近付きになれましたので、大崎さんに相談したところ、早速保険代理店の斎藤吉徳(さいとうよしのり)さんと水菓子屋(みずがしや)の斉藤博(さいとうひろし)さん、その他にも大勢の方に聞いてくださり、水行場を開いた行者(ぎょうじゃ)のお子さんのこと、講元(こうもと)の方々のこと、かつての水行場の様子などが分かってきました。水菓子屋とは、フルーツショップのことです。大崎さんからこの言葉を伺ったのですが、思い出すのに時間がかかりました。最近は使われませんが、残しておきたい日本語の1つです。
閑話休題(かんわきゅうだい)、私の方も新栄講を手がかりに調べていたところ、菊名の詳細な地図に「成田山新栄稲荷神社」が記されていることが分かりました。
現地でよく見ると、いづみストアーの東南の山の上に鳥居と祠(ほこら)と石碑がありました。私有地内ですので勝手に参拝調査は出来ませんが、お許しをいただいて調査しました。その話は次回に。
こうして、多くの方々の御助力により水行場の謎が解けてきました。皆様方のおかげで、この連載もついに100回を迎えましたが、いくつもの謎を残したまま、区切りもなく101回目へと続きます。


付記 師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)の大修造(だいしゅうぞう)が終わり、記念誌が刊行されました。熊野神社の全てが分かる実に役立つ本です。
また、第93回で紹介した『菊名新聞』第1号から第50号までの縮刷版(しゅくさつばん)が4月10日に刊行されます。詳細は菊名北町町内会(電話431-4150)へお問い合わせください。

(2007年4月号)