港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第105回 高浜虚子が訪れた泉谷寺


第103回武蔵野探勝(むさしのたんしょう)の続きです。武蔵野を巡って吟行(ぎんこう)を続けていた高浜虚子(たかはまきょし)と門弟達は、昭和12年(1937年)11月7日に小机(こづくえ)を訪れました。今回は虚子も参加して36名。記録を担当したのは、虚子の娘婿(じょせい)で俳人(はいじん)の真下喜太郎(ましたきたろう)です。小机駅に降り立った虚子は、刈り取った稲が干されている水田風景を見て、「稲架(はさ)の中 人急ぎくる 小駅かな」と詠(うた)っています。当時は、まだ港北区が出来る直前で(第11回参照)、神奈川区小机町と呼ばれていました。真下は、「町と云(い)うと賑やかなように聞こえるが、実は丘陵が起伏し、田野(でんや)が展開しているに過ぎず。太田道灌(おおたどうかん)が……小机城を攻め落したという時代だってこんなものだろうと思われるようなところだった」(仮名遣いと読点を訂正しました、以下同様)と記しています。
句会は、泉谷寺(せんこくじ)の方丈(ほうじょう、住職の居間)を借りて行われました。泉谷寺は、正式には松亀山(しょうきさん)本覚院泉谷寺といい、浄土宗芝増上寺(ぞうじょうじ)の末寺(まつじ)です。真下(ました)は、「泉谷(せんこく)の名の起(おこ)りは、昔ここの谷から清水(しみず)が湧(わ)いたのに由(よ)るので、古くは亀や蛇の巣窟(そうくつ)だったそうだ。現在でも春先きには亀の子が出るということだが、「松亀山」という山号にも関係がありそうで面白い」と記しています。「この寺領 六万坪や 落葉掻(か)く」(豊原青波)。
当時、境内(けいだい)の裏山には「泉谷遊園地(せんこくゆうえんち)」がありました。遊園地は一万坪(いちまんつぼ、約33,000平方メートル)の広さがあり、学生のグループが「野戦料理」(やせんりょうり、すき焼きでしょうか)をしていたり、「新聞紙を敷いて坐(すわ)った子供づれのピクニックの人たち」がいたりしました。石野瑛(いしのあきら)述『小机城阯(じょうし)と雲松院(うんしょういん)及(およ)び泉谷寺』(小机町内会、1933年)によると、昭和6年(1931年)3月に泉谷寺世話人と第37世法誉真冏(ほうよしんけい)住職が相談して「泉谷寺境内即ち泉谷を中心とし、巨松(きょしょう)老杉(ろうさん)生い繁る昼尚(なお)暗き幽深(ゆうしん)なる山谷(さんこく)を開いて、多くの桜樹(おうじゅ)を植え、最もよく自然を利用したる遊園地となし、都人士(とじんし)の清遊(せいゆう)に供(きょう)せんが為(た)め」開発を始めたものです。
玉山成元(たまやまじょうげん)著『泉谷寺史』(泉谷寺、1974年)の年表に、昭和21年「市立城郷(しろさと)中学校設立用地として山林一町六反歩(いっちょうろくたんぶ、約16,000平方メートル)寄進す」とあります。遊園地の土地の一部を提供したのでしょうか。
『新武蔵野探勝』では、平成3年(1991年)11月3日に吟行(ぎんこう)を行い、城郷中学校の図書室を借りて句会を開いています。
「図書室の 窓いっぱいの 小春かな」(佐々田まもる。
当時の山門は茅葺(かやぶ)きでした。山門を入ると左手に観音堂。時あたかも落葉の季節であり、観音堂を中心として、様々な木々の落ち葉が絶えず雨のように降っており、各種の秋の小鳥が飛び交っていました。
「散りしける 銀杏を踏んで 立話」(鈴木花蓑、すずきはなみの)
観音堂の広さは3間半(さんげんはん、約6.4メートル)四方で、戦争中には、城郷国民学校大堀先分校として使われます。この観音様は、旧小机領三十三所観音霊場の第一番札所です。子年観音として、ちょうど来年が御開帳になります。今から楽しみです。
本堂は、間口(まぐち)奥行き共に8間(はちけん、約14.6メートル)の茅葺きで、柱は1尺2寸(いっしゃくにすん、約36センチ)の大物でした。
「一度来し 記憶の如き 寺の秋」(鈴鹿野風呂、すずきのぶろ) 
山門は昭和48年(1973年)、本堂は昭和49年に建て直しています。
さて、泉谷寺を会場に定めたのは、広重(ひろしげ)の杉戸絵(すぎとえ)があったからだと思われます。これについては、次回に。

(2007年9月号)