港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第113回 12年に一度の霊場巡り -その2-


4月1日午前9時、子年観音(ねどしかんのん)の御開帳(こかいちょう)が一斉に始まりました。観音像を入れてある厨子(ずし)の扉が開けられ、秘仏の姿を拝見することが出来ます。観音様の手からは、善の綱(ぜんのつな、お手綱ともいう)といわれる長い布切れがお堂の外の供養塔(くようとう)まで延ばされています。それを触ることにより、観音様と縁を結んだことになり、功徳(くどく)をいただくことが出来るとされています。1日の朝、筆者は一番札所の泉谷寺(せんこくじ)で、白装束の巡礼者に会いました。その後何か所か廻りましたが、巡礼姿の人は他には見かけませんでした。かつての札所参拝には、こまかい作法や服装の決まりがありましたが、最近はウォーキングを兼ねての参拝もあり、礼を失しない範囲であればよいようです。
さて、旧小机領三十三観音(きゅうこづくえりょうさんじゅうさんかんのん)といわれますが、小机領とは、中世から近世にかけて使われた広域行政単位の一つです。『新編武蔵風土記稿』(以下、風土記稿と略します)によると、武蔵国(むさしのくに)は22郡、82領に分けられており、小机領はその内の1つで、都筑郡(つづきぐん)と橘樹郡(たちばなぐん)にまたがる地域として32の村々が属していました。
では、33か所の札所はすべて小机領の中にあったのでしょうか。風土記稿でその所在地を調べてみると、神奈川領21か所(橘樹郡内に5か所、都筑郡内に16か所)、小机領8か所(橘樹郡内に6か所、都筑郡内に2か所)、都筑郡内で領名未勘(りょうめいみかん、分からない)3か所、多摩郡木曽郷(たまぐんきそごう)1か所となっていました。神奈川領内の札所が21か所もあるのに対して、小机領内はわずかに8か所しかありません。札所が定められてから風土記稿が作られるまで80年程ありますから、その間に小机領の範囲が変わったのでしょうか。あるいは、幕府へ届け出でした転誉上人が住職を務めていた一番札所泉谷寺が小机村だったからでしょうか。しかし、肝心の小机村は風土記稿では神奈川領に含められています。逆に、神奈川宿は小机領となっています。不思議ですが、古くは神奈川領も小机領の一部だったようです。
では、港北区内の札所を見ていきましょう。

1番札所 泉谷寺(せんこくじ)
御詠歌(ごえいか)  ふだらくや ひゃくはちごうの つみとがを いづみがたにに あらひきよめて

御詠歌は、仏の功徳などを詠(よ)んだ和歌で各札所毎に作られていました。昔の巡礼者は鈴を振りながら抑揚(よくよう)をつけて歌っていました。「ひゃくはちごう」とは、かつて小机領が百八郷に分かれていたことを指します。「いずみがたに」とは泉谷寺のある谷戸(やと)のことで、「泉谷(いずみやと)」の地名として残っています。
小机泉谷寺の本尊である十一面観音は、高さ1尺8寸(いっしゃくはっすん、約55cm)の立像(りゅうぞう)で、寺伝によると慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作といいます。838年円仁が唐(とう)の国へ渡るとき暴風雨に遭(あ)い、所持していた自作の観音像を海中に投げ入れて難を逃れました。847年帰朝(きちょう)の時、その観音像が船中に出現したといいます。円仁は、持ち帰った観音を筑紫(つくし、福岡県)の国に祀(まつ)りました。泉谷寺を開山した見誉善悦上人(けんよぜんえつしょうにん)は筑紫の人ですが、上人の夢枕にその観音が現れ、「我(われ)を背負いて東方に赴(おもむ)け」と告げました。上人は、観音を背負い旅を続けますが、小机の地に来たところで観音が急に重くなり動かなくなったので、この地に安置し泉谷寺を建てたと伝えられています。観音堂の南側には三十三観音の小さな石仏が並んでいます。33か所廻れないときは、ここへ参拝してもよいでしょう
さて、御開帳は5月6日までです。公式ホームページ(http://nedoshi-kannon.sakura.ne.jp/)で場所を確認して歩いてみるのも楽しいでしょう。参拝するとお茶やお菓子の接待をしてくれるところもあります。断らないのが礼儀だそうです。

付記 神奈川県立図書館から『かながわの歴史文献55』が出ました。県域の歴史に関する55種類の基本史料について丁寧に解説し参考文献も紹介してあります。歴史を学ぶ人には格好のガイドブックです。

(2008年5月号)