港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第118回 港北区の基礎知識 -その1、区勢の要覧-

 

30年前、ある先生から地方史研究の手ほどきを受け、長野県の山村で合宿調査を始めました。調査地域を知るために、まず最初にすることは、村役場へ行き村勢要覧と村の地図を入手することでした。行政の要覧は、どの自治体でもほぼ毎年発行しています。統計数字が羅列されている一見無味乾燥な冊子のようですが、何年分も集めてみると地域の変遷がよく分かり、なかなか味わい深いものです。
港北区について知るために、30年前の初心を思い出しながら、市の図書館で港北区の要覧を全て調べてみました。発行されていても図書館に所蔵されていない要覧もあるので、完全ではありません。それでも計44冊見つかりました。書名の違いから、時期別に下記の6種類に分類できます。
①『神奈川区勢要覧』昭和5年、7年、9年      ④『港北統計便覧』昭和49~60年頃
②『港北区勢要覧』昭和24~31年頃         ⑤『港北区区勢概要』昭和61~平成5年
③『区勢概要』昭和38~44年頃           ⑥『港北グラフィック』平成6年~現在
まず、各要覧の表紙を見ましょう。一番多いのは無地のものですが、大倉山記念館6回、日産スタジアム5回、区総合庁舎4回、その他には、アリーナ、新横浜、小机、区の木・区の花などもあります。その時々で区を代表する風景や建物として選ばれたものでしょう。昭和28年には農作物の絵が描かれているのが時代を反映しています。
次に要覧の内容を概観しましょう。港北区域の一部(大綱村、城郷村)が横浜市に編入されたのは昭和2年(1927年)で、その頃は神奈川区でした。『神奈川区勢要覧』は昭和5年、7年、9年に作られています。9年の要覧から名所旧跡を見てみると、師岡熊野神社、小机城址に加えて、新名所として綱島温泉が挙げられています。
港北区が成立するのは昭和14年(1939年)ですが、現存最古の要覧は、戦後の昭和24年のものです。昭和24年の要覧を見ると、港北区の人口の44%が農業従事者(平成17年度は0.003%)であり、「蔬菜、果実等を供給する農圃(田畑)地区」であり、「美しい大自然を擁する風致地区として、また憩いの住宅地帯」でもありました。
昭和30年代に始まった高度経済成長は、港北の地にも大きな影響を及ぼし始めます。昭和39年(1964年)の『区勢概要』を見てみましょう。この年は新幹線新横浜駅の開業、第三京浜道路の建設工事など「建設の鎚音」が響き、区域は急速な変貌を遂げつつありましたが、「当区の使命として守られて来た農業経営についても」合理化・近代化を図っていました。それが、昭和40年代に入ると、区域への転入者が増加の一途をたどり、宅地造成や都市化に追いつけない道路、下水道、学校等公共施設の整備が急務とされています(昭和43年区勢概要)。
昭和44年(1969年)に港北区から緑区を分区します。これを契機に書名を変更したのでしょうか、昭和49~60年(1974~85年)は『港北統計便覧』となっています。昭和50年代になると急激な人口増加は収まってきますが、都市基盤の整備が引き続き重要な課題であり、港北ニュータウンの建設、鶴見川改修、地下鉄建設など新規事業も始められ「自然との調和」が叫ばれるようになります。昭和61年(1986年)からは『港北区区勢概要』です。この頃になると21世紀へ向けて調和のとれた魅力ある街作りが課題とされています。そして、港北区が現在の区域になった平成6年からは、書名も『港北グラフィック』になりました。


(2008年10月号)