港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第21回 関東大震災と港北区

77年前、大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾(さがみわん)北西部を震源地としてマグニチュード7・9の大地震が発生しました。関東大震災です。神奈川や東京は震度6の烈震(れっしん)にゆさぶられ、壊滅的な被害を受けました。
横浜市の死者・行方不明者は2万3000人余、罹災者は人口の93%に当たる41万人余でした。特に地震後市内289ヶ所から発生した火事は、たちまち全域に広がり、6万2000戸余を全焼する大惨事となりました。
この震災の教訓を生かして、その後は耐震耐火構造のビルが数多く建てられ、復興計画に基づいた防災都市の建設が進められました。昭和4年(1929)に建設の始まった大倉精神文化研究所本館(横浜市大倉山記念館)も、地中深くまで埋められた基礎杭、鉄筋コンクリートの太い柱に分厚い壁、小さな窓などにより、最近のビルに比べてもよほど丈夫に造られています。
さて、交通機関の被害も甚大で、罹災者の避難や救援活動に大きな影響を与えました。たとえば、横浜線は小机駅舎が倒壊し、十日市場(とおかいちば)付近の線路崩壊と、同所および東神奈川付近の脱線等により全線が不通になりました。全線復旧は9月28日のことでした。東横線はまだ開通していませんでした。道路も各地で寸断され、被災者は皆歩いて避難するしかなく、綱島街道などは東京方面から逃げてきた人で数珠繋ぎ(じゅずつなぎ)になったそうです。
当時、港北区はまだ誕生しておらず、区域は橘樹郡(たちばなぐん)と都筑郡(つづきぐん)の村々に別れていました(第11回参照)。当時の区域は農村地帯で、家屋が密集していなかったので火事はほとんど発生せず、横浜の市街地に比べれば被害は少なくて済みましたが、それでも、両郡共に、約75%の人が罹災しました。そこへ、縁故者を頼って、都市部から多くの罹災者が避難してきました。城郷(しろさと)地区には、9月4日までに1,052世帯、5,046人が避難しています。夏場のことですから、家屋を失った被災者が寒さに震えることはありませんでしたが、衛生状態の悪さにより、区域でもチフスが流行したりしました。
ところで、大地震といえば、前兆現象の有無がよく話題になります。関東大震災の時は、鶴見川(つるみがわ)や早淵川(はやぶちがわ)でナマズが大発生し、8月31日には大量の漁獲があったそうです(『港北区史』)。なんとも気になる話ではあります。
今年は伊豆諸島で地震が続いています。東海大地震も心配されます。77年前の教訓を忘れることは出来ません。

(2000年9月号)