港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第3回 大倉山駅の第1号定期券

第2回で紹介した大倉山梅林の観梅会(かんばいかい)はいかがだったでしょうか。その最寄り駅である大倉山駅(おおくらやまえき)のお話を今回はいたします。大倉山駅は、かつては地名の太尾(ふとお)を取って太尾駅と呼ばれていました。
さて、大正15年(1926)2月14日、東京横浜電鉄(現、東急)の神奈川線(丸子多摩川(まるこたまがわ)~神奈川)が開通し、太尾駅もその時開業しました。地元の古老黒川太郎氏(くろかわたろう、86歳)のお話によると、大曽根(おおそね)と太尾(ふとお)で駅の誘致合戦をして太尾に決まったそうです。当初はホームだけの無人駅で、駅舎はありませんでした。改札口は大倉山に登る坂道の途中、線路の脇にありました。黒川さんは、当時、三ツ沢(みつざわ)の県立横浜第二中学校(現、横浜翠嵐(すいらん)高等学校)在学中で、自宅から自転車または徒歩で通っていました。徒歩だと1時間半もかかっていたのが、開業後は反町駅(たんまちえき)まで電車通学となり、大変楽になったそうです。この黒川さんが太尾駅乗車の定期券第1号使用者になりました。当時の太尾村は純農村地帯、人口は700人程で、駅の利用者はほとんどおらず、1両だけの車内には朝の通学時間帯でも乗客は10名程度でした。
その後、昭和2年(1927)に渋谷線(渋谷~丸子多摩川)が開業し、昭和4年(1929)からは、太尾町の丘の上に大倉精神文化研究所の建設が始まり、利用者もしだいに増加しました。研究所の丘にはそれまで名前がありませんでしたが、昭和7年(1932)3月31日、渋谷~桜木町間の東横線全線開通に合わせて、駅名が太尾駅から、現在の大倉山駅へと改称され(詳しくは第42回参照)、研究所の丘も通称で大倉山と呼ばれるようになりました。
やがて、小さな駅舎が作られ、駅員が一名勤めるようになりました。小森嘉一氏(こもりよしかず、91歳、)の話によると、夕方、渋谷から東横線に乗り多摩川を越えるとそれ以降は降りる人ばかりで、綱島あたりまでくると車内にはもう数人の乗客しか乗っていなかったそうです。さらに数年後には現在のようにホームの下、駅前通りに面して改札口が作られました。現在の駅舎は、昭和59年(1984)に造られたもので、乗降客も1日平均52000人になっています。

(1999年3月号)