港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第33回 終戦秘話-その4- 日誌が語る横浜大空襲から終戦

昭和20年(1945)2月16日の研究所の日誌です。
「敵艦上機来襲(午前七時ヨリ午後五時頃迄、主トシテ京浜附近ヲ波状攻撃シ来ル。研究所本館正面玄関ニ敵機キ銃弾一発落下シ来ル)異常ナシ。」
横浜市内には延べ300余機が来襲し、鶴見区の旭変電所や横浜港内の船舶が被害を受けています。また対空射撃した高射砲弾の破片で各地に火事が発生しました。研究所も正面玄関の階段に機銃弾が被弾しました。この時のものでしょうか、小森嘉一(こもりよしかず)旧所員の話によると、被弾により階段に石が欠けた部分が今でもあるとのことです。
こうして、大倉山周辺も空襲の被害を受けるようになりました。この頃になると、多数いた所員も入隊のため退職していき、人数が減って活動が出来なくなっていました。20年3月31日には、女子職員が疎開の為に退職したとの記事も見えます。
3月10日の東京大空襲の記事はありません。
「四月四日、午前零時過ヨリ敵襲アリ。横浜及東京市内ニ火災数ヶ所ニ認ム。大倉山ニ被害無シ。」この日、横浜市内で死者214名を数えました。
「四月十六日、昨夜半ヨリ午前一時頃マデ敵機多数来襲。大倉山附近ニモ投弾シタルモ研究所ニ被害無シ。電車不通ノ為、通勤者来ルモノナシ。」東京南部と川崎・鶴見の工業地帯を目標として、鉄道線路沿いに爆弾が投下され多くの被害が出ました。東横線も止まりました。
「五月二十四日、午前零時半頃ヨリ敵機来襲。大綱国民学校焼失シタルモ、研究所被害ナシ。」かつての大綱国民学校(小学校)は、大倉山の駅前通りと綱島街道の交差点にあり、現在の川崎信用金庫の辺りが校門でした。
「五月二十六日、昨夜十時頃敵機来襲。大倉山附近何等被害ナシ。(中略)目黒大倉邸焼失。」所長の大倉邦彦邸が焼失しました。両日の空襲は主として東京を目標として多くの被害を与えました。そして、次の目標として横浜が選ばれ、横浜大空襲の日を迎えます。
「五月二十九日、午前十時過ヨリ敵機六百機横浜市ニ来襲。研究所ニモ焼夷弾命中シタルモ全部消火。アズチ一棟焼失シタルノミニテ他ニ大ナル損傷ナシ。太尾町六十余戸焼失。横浜市大部分灰燼ニ帰ス。湘風会館一階ノミ残存。」
太尾町300余戸の内60余戸が焼失しました。横浜大空襲の惨状については多くの研究書があるのでそれらに譲ります。区内でも押尾寅松(おしおとらまつ)氏が『山野草と避雷針のくりごと』(自費出版、1999年)に詳しくまとめておられます。
「七月二十八日、午後一時頃敵機P51研究所ヲ銃撃ス。被弾数十発。一発ハ書庫五階内ニ入リ、小火ヲ生ズ。気象部員ノ応援ヲ得テ大事ニ至ラズ消火ス。蔵書用ポケット焼失セリ。」ついに研究所図書館も被害を受けました。
「八月十五日、正午我国無条件降伏ノ旨発表セラル。」多くの犠牲の上にやっと終戦を迎えました。
戦後は大倉山記念館をGHQが接収する話がありました。
「十一月二日、米国将校三名、建物借用ノ件ニテ来所。富嶽荘、神風館ヲ見ル(山田案内)。両方建物ノ図面ヲ貸与ス。」
「十一月四日、建物使用ノ件ニ関シ、米軍将校十余名来所。岡田案内。」
「十一月五日、山田午後神奈川県庁ニ出張(米軍建物借用ノ件ニツキ連絡事務局ヘ)。」
11月8日になり、県庁連絡事務局より建物借用決定の通知が来ます。それを受けて、午後、富嶽荘と三空荘の荷物を本館物置に搬入しています。ところが、翌日になり借用は中止されました。
「九日、米進駐軍ヨリ富嶽荘、神風館借用中止ノ件ヲ通告シ来ル。」理由は不明です。その後、12月14日、「進駐軍来所、来賓室、所長室ノ家具ヲ持チ行ク。」
家具は15日、17日にも搬出されました。
古い資料には、書かれた当時の生々しさが残っていて、研究書では味わえない臨場感があります。日々のメモや伝票・チラシでも時がたてばやがて大切な資料になります。一度身の回りを探してみてください。そして、皆さんの体験や想いと共に後世に伝えてください(8月15日脱稿)。

(2001年9月号)