港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第38回 悲劇の雑誌『武蔵山』

前々回の横綱武蔵山の話の続きとして、雑誌『武蔵山』を取り上げます。同誌に、川崎の安藤安(あんどうやす)氏が「横山武を武蔵山とするまで」と題して、入門の経緯を書いています。これによると、大正14年(1925)4月に多摩川丸子(まるこ)の広場で開催された郡連合青年団の競技会に相撲で出場した横山武を、元萬朝報(よろずちょうほう)記者石井七三が見て、その話を聞いた安藤が後に本人を確認し、角界に紹介したことによるそうです。
母親は長男武(たけし)の入門に反対しますが、親戚一同を巻き込んだ一週間にわたる説得によりついに入門となります。安藤は、四股名(しこな)を「多摩川」とするように申し込みますが、かつて同名で弱い力士がいたことから、常陸(ひたち)出身の横綱常陸山(ひたちやま)にならい「武蔵山」としたのでした。
武蔵山は、大正15年(1926)の初土俵から驚異的な勝率で勝ち続けます。白木屋(しらきや、後の日本橋東急百貨店)相撲係安広太郎(やすひろたろう)は、雑誌『武蔵山』に「栃木山第二世としてその名も高い武蔵山関 温厚で、人情深くその上決して高ぶらない 驚異的の昇進、古来よりの相撲型でない近代的スポーツ型、今や国技館の人気を一身に集めている」と記しています(この白木屋は、翌年暮れに有名な大火災を起こします)。
この人気を背景に、全国のファンを集めて「武蔵山会」という後援会が作られます。会の事務所は、東京市神田淡路町の藤牧玄雄方におかれました。「武蔵山会」は、「武蔵山に好意を有する者」をもって組織し、「武蔵山を後援し、もって角道(かくどう)の興隆を期する」ことを目的としていました。
この武蔵山会の会誌が『武蔵山』です。会員は、年1円の会費を納めて、会誌『武蔵山』を受け取ることになっていました。前々回で創刊号を昭和6年6月刊行と書きましたが、5月の誤りでしたので訂正します。『武蔵山』の刊行は年2回の予定でした。これは当時の本場所が1月と5月の年2場所だったからです。
会誌の編集所は、神奈川区松本の飯田九一(いいだくいち)方でした。同誌の巻末に、全国から「祝創刊」の広告が四九件寄せられています。その中から「横浜市神奈川地方武蔵山後援会」の広告を見ると、飯田助夫、加藤助次郎、岸野清太郎、柳下利三郎、金子仙太郎、八城吉蔵、荒井鹿蔵、河部酒店、神本辰次郎、金子半次郎、本所佐一郎、川田善次郎、酒川利八、池谷鏡之助、山本清太郎、飯田九一、島村鐘、吉原道之助、森本新助、浅見三平、南雲初太、倉田勝次郎、田辺房吉、佐々木正信の二四名が代表者として列記されています。
さて、後援会では、この5月場所の5日目(18日)、6日目(19日)、10日目(23日)を総見日(そうけんび)と定め、会費4円50銭(木戸場代、御みやげ、弁当ほか小物全部)で応援しました。その甲斐あってか、武蔵山は初優勝を果たします。
『武蔵山』の第2号は、翌昭和7年(1932)1月の春場所に合わせて発行する予定でした。優勝した小結武蔵山は関脇をとばして一気に大関に昇進しますが、場所前に有名な春秋園事件(しゅんじゅうえんじけん)が起き、春場所興業は中止となります。事件は、出羽海(でわのうみ)一門の力士多数が角界の改革を唱えて相撲協会から脱会したもので、出羽海部屋の武蔵山もこれに加わっていました。この事件のあおりを受けて、『武蔵山』第2号は発行されなかったようです。筆者の調査では、創刊号も県立図書館にわずか1部保存されているだけで、他には現存しないようです。大切にしたいものです。

(2002年2月号)