港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第54回 歴史史料と地域の研究


区域のことを知るには、様々な文献があります。古いものでは、江戸幕府が編纂(へんさん)した『新編武蔵風土記稿』(1810~28年、第52回参照)に各村毎の様子が記されています。
明治政府は、各府県から郡誌・村誌を提出させ、いわゆる「皇国地誌(こうこくちし)」の編纂をしていました(1872~93年)。編纂事業は途中で東京帝国大学へ移管(いかん)され、郡誌・村誌は大学図書館へ所蔵されましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失します。各地に残された控(ひかえ)や草稿(そうこう)の発掘が進められていますが、残念ながら区域では、わずかに小机村(こづくえむら)の「地誌編纂書上」(『皇国地誌 横浜市港北区』所収)があるだけのようです。
この調査がきっかけとなり、明治中期からは全国各地で地誌の編纂(へんさん)が行われるようになります。区域でも様々な地誌が編纂されました。
明治22年(1889)以降、『武蔵通志』(『緑区史資料編第1巻』所収)
明治27年(1894)、『神奈川県橘樹郡地誌(たちばなぐんちし)』(『明治読本 神奈川地誌』所収)、
明治29年(1896)、『橘樹郡用地理史談』(『神奈川県郷土資料集成1地誌篇』所収)、
明治43年(1910)、藤沢三郎『吉田誌』
明治45年(1912)『新田村治概要(にったそんちがいよう)』(前掲『皇国地誌 横浜市港北区』所収)、
大正元年(1912)、藤沢三郎『吉田沿革史』(1983年『港北ニュータウン郷土誌叢書1』として刊行)
大正3年(1914)、『神奈川県橘樹郡案内記』(1987年港北図書館より刊行)
昭和2年(1927)、『城郷村誌(しろさとそんし)』(前掲『皇国地誌 横浜市港北区』所収)
昭和12年(1937)、『神奈川区誌』(当時、港北区域は神奈川区の一部でした)
この頃、小学校でも郷土教育が盛んに行われました。大綱村(おおつなむら、大豆戸・篠原・菊名・樽・大曽根・太尾・南綱島・北綱島)でも、村内4小学校長が集まり、大正2年(1913)に『大綱村郷土誌』(前掲『皇国地誌 横浜市港北区』所収)を「村内小学校教授訓練の資料として」編纂しています。
戦後は、昭和28年から36年(1953~61)にかけて『さつき叢書』8編を自費出版した戸倉英太郎氏の研究に始まり、『港北百話』(港北区老人クラブ連合会・港北区役所、1976年)、『港北区史』(1986年)、『菊名あのころ』(菊名北町町内会、1996年)、『箕輪のあゆみ』(小嶋英佑、1997年)などが刊行されています。
明治以降の近代歴史学は、天下国家を論じることを中心として発達してきました。その中で、ごく限られた地域の歴史を語ることは「郷土史」と呼ばれて、国史研究の補助的役割を担わされてきました。戦後、その批判として「地方史」研究が唱えられましたが、中央に対する地方なのかという批判から、「地域史」と呼ばれるようにもなりました。しかしそうした経緯にもかかわらず、現在でも「郷土史」「地方史」「地域史」の3つの名称はあまり区別されずに使われています。どのような名称を使おうとも、史料やフィールドワーク(現地調査)にもとづいた科学的な研究をすることと、郷土偏愛による独善的な考察に陥(おちい)らないことが大切であるのはいうまでもありません。
さて、私が地方史研究に関心を持つようになり四半世紀になりますが、その想いの一端を形にすることが出来ました。大倉精神文化研究所で、本年3月に刊行した『港北の歴史散策』です。この本には、大塚文夫先生の「原始人の食物-食物からみた集落立地-」、勝田五郎先生の「古道を歩いて-鎌倉道と小机周辺-」、寺田貞治(てらださだはる)先生の「近代の日吉-旧海軍日吉台地下壕の話を中心として-」の講演録3編と、この「シリーズわがまち港北」の第1回から第50回まで、そして港北区域について学ぶための参考文献144冊を掲載しています。横浜市大倉山記念館内の研究所附属図書館でお分けしています。

(2003年6月号)