港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第56回 慶應義塾と大倉山


慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、以下、慶応と略称)は、現在5つのキャンパスに分かれていますが、その中で区内にある日吉(ひよし)キャンパスは約36ヘクタールで最大の面積を有しています。慶応は創立当初より、学生の寄宿舎生活をその特徴としており、日吉キャンパスにも寄宿舎が造られていました。
さて、慶応の日吉校舎には、昭和19年(1944)3月から海軍が各校舎や寄宿舎に駐留(ちゅうりゅう)を始めます(地下壕を掘り始めるのは7月からです)。同年9月2日、慶應義塾塾監局(じゅくかんきょく)総務課長富田正文(とみたまさふみ)氏ほかが、建物の件にて大倉精神文化研究所へ来所しています。詳細は不明ですが、この頃から、大倉山を借用する話があったのかも知れません。
終戦後は、昭和20年から24年(1945~49)まで進駐軍(しんちゅうぐん、アメリカ軍)が日吉キャンパスを接収しました。そのため、大学は10月からまず東京三田で授業を始め、その後各地に校舎を借りて分散授業となります。学生寄宿舎も各地で借用していたのでしょうか。大倉精神文化研究所に借用の記録があります。
大倉精神文化研究所は、戦後しばらくの間「大倉山文化科学研究所」へと名称を変更していましたが、研究所の日誌によると、昭和21年6月27日、「慶應学生拾余名(じゅうよめい)、学寮(がくりょう)清掃のため来所。来(きた)る29日より引越し来る予定。」とあります。学寮とは、研究所附属施設の1つ「富嶽荘(ふがくそう)」のことであり、学生たちは予定通り6月29日より富嶽荘に起居(ききょ)を始めています。慶應義塾長潮田江次が昭和22年(1947)に発給した証明書によると、日吉台の学生寄宿舎は「進駐軍ニ占用(せんよう)サレタルタメ去ル廿一年(にじゅういちねん)七月ヨリ」大倉山文化科学研究所内に移転経営していることを証明しています。契約書がないので未確認ですが、証明書から推測すると、当初は大学が研究所から借用していたようです。ちなみに、研究所の事業報告によれば「予科生徒ノ寮」と記されています。
昭和21年10月1日、慶応寄宿舎の開寮式が行われています。翌昭和22年7月6日、大講堂(附属施設の武道場か)にて、寮祭(りょうさい)を挙行したとの記事や、昭和22年9月17日夜慶応寮の学生勝本氏が逝去(せいきょ)したこと、同年10月23日富嶽荘(ふがくそう)に泥棒が侵入し、布団(ふとん)やカヤ(蚊帳)を盗まれたとの記事などもあります。
この後、富嶽荘がいつまで学生寮として使用されていたのかは資料がありません。昭和24年6月1日付けの契約書によると、この時から、富嶽荘は「慶應義塾自治寮」として、学生個人が契約人となり、研究所と賃貸契約(ちんたいけいやく)を結び、少なくとも昭和27年ころまでは寄宿舎として使用されていたようです。
さて、昭和24年(1949)10月1日、日吉キャンパスは米軍から返還されました。大学はやっと元のように授業が出来るようになります。また、新制の慶應義塾高等学校も移転してきます。こうして、日吉は再び活気を取り戻していきます。
余談ですが、調べてみると大倉精神文化研究所の創設者大倉邦彦と慶応の関係は、意外に古いものでした。太尾町(ふとおちょう)に研究所を作る以前の、昭和3年から5年(1928~30)にかけて、大倉は東京目黒に家を借り、「芙蓉荘(ふようそう)」と名付けて、慶応の学生に寮として提供しています。さらに遡れば、大倉家の先々代である大倉孫兵衛は、近代陶器の製造輸出で有名な森村市左衛門の義兄弟であり森村組の共同経営者でしたが、この森村市左衛門が慶應義塾の創始者福澤諭吉(ふくざわゆきち)と深い関係にありました。偶然かも知れませんが、何か縁(えにし)を感じます。

(2003年8月号)