港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第57回 ダイダラ坊と菊名池


港北区域には様々な伝説や昔話が伝えられています。それらの多くは、古老の話として、名著『港北百話』に収められていますが、採録(さいろく)に漏(も)れてしまった面白い話がまたまだたくさんあるようです。先日、篠原の押尾寅松さん(おしおとらまつ、80歳、第33・34回参照)にこんな話を伺いました。以下は、その要約です。
私(押尾寅松)の祖父萬吉(まんきち)じいちゃんはあまり多くを語らない人だったが、私がまだ小さい時に、庭の片隅の窪地(くぼち)に関してこんな話をしてくれた。妙蓮寺(みょうれんじ)周辺にもダイダラ坊がいたというのだ。
この大男の一またぎが一里(いちり、4キロメートル)以上もあったというから、びっくり。ダイダラ坊はどこから来たのか全く分からなかったが、村人のために一所懸命に力仕事をしてくれたので、村の人達もなにかと世話をしてやっていたとのこと。そんなおだやかな日々が続いていたが、ある時昼夜の別なく何日も大雨が降り続いて、この周辺一帯が水浸しになり大洪水になってしまった。そして雨が小やみになっても水はいっこうに退(ひ)く様子がなかった。やがて何処(どこ)も冷え冷えとして畠の作物も獲れず飢饉(ききん)状態となってしまった。気のやさしいダイダラ坊は、年寄りや子供が飢えに苦しむ姿を目の前にして、この水を少しでも早く退かせねばならぬと、夜を日についで働き、川や堤(つつみ)を造っていたので、すっかり疲れてしまっていたという。
そんなある時、ダイダラ坊はぬかるみに足をとられて、大きな地響きをたてて尻餅(しりもち)をついてしまったと。なんとその時の窪地(くぼち)に、周囲の水が勢いよく流れ込んできて菊名池(きくないけ)になり、踵(かかと)の跡が押尾家の庭の窪地になったのだと話してくれた。そしてなんとか起きあがろうとして手をついた指の跡が台町(だいまち)の窪地の白幡池(しらはたいけ)、それに慈雲寺(じうんじ)や武相高校(ぶそうこうこう)下の低湿地で後に谷戸田(やとだ)となった。その他水道道(すいどうみち)沿いや篠原東三丁目の谷戸田跡、それに富士塚の方にまで及んでいるということだ。
その一方で、長雨で土が柔らかくなっていたので、力の入った指の間から盛り上がった土で台地ができあがった。東横線を中心として白楽(はくらく)から妙蓮寺周辺にかけて、手をついて出来た指の間の跡が丘陵(きゅうりょう)地帯となって、港北小学校より妙蓮寺台地それに白幡の方まで続いているのである。その丘陵地帯の中央部、いわゆる手のひらの部分が比較的平坦な地域の所を旧綱島街道(六角橋より白楽-妙蓮寺-菊名-綱島に至る)が通っている。それと平行するように東横線も通っている。しかし、現在では丘陵地帯や低湿地も宅地造成がされて、昔の面影を知ることは困難となってしまった。それでも手のひらをついた所をなんとか平地として見てゆくと、「手の中の原っぱ」といい「手中原(てなかはら)」と呼ばれていたものが、誰いうとなく「仲手原(なかてはら)」というようになったとか。
このダイダラ坊がころんで尻餅をついて水の退いた後、村人達はまた畠仕事に精を出すことができるようになったと大喜びし、感謝したとのことである。更にダイダラ坊は池に溜まった必要以上の水の排水路として富士塚と菊名の境に水路を造り、鶴見川に通じるようにした。途中旧綱島街道を横切っている東横線の踏切の下の窪地を「篭窪(かごくぼ)」と呼んでいるが、これはダイダラ坊が水路を造った窪地が、農業用の「背負篭(しょいかご)」に似ているのでこの様に呼ばれたらしい。篠原周辺の風光明媚な地形を造ってくれたダイダラ坊に感謝と賛辞を送りたい。
さて、押尾さんから伺った「ダイダラ坊」は、ダイダラボッチ、デーラ坊、デイデッポなどともいわれ、関東や東海地方に広く伝わっている巨人伝説です。一夜で富士山を造ったとか、山を担(かつ)いだ、足跡が池になったなど愉快な話がたくさんあって、私も大好きですが、『都筑の民俗』にも見えませんし、港北区域では始めての採録です。

(2003年9月号)

付記 押尾寅松さんの話はもっともっと長くて面白かったのですが、紙面の関係で要約しました。他にも菊名池に関する伝説など興味深い話をいくつもご存じで、2003年9月21日に改めてお話を伺いました。その内容は押尾寅松さんの昔話に全文記載しています。ご覧下さい。