港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第58回 人工のオアシス-大倉山公園の自然-


横浜市大倉山記念館がある大倉山公園(総面積69,404㎡)は、東横線大倉山駅のすぐ近くにありながら、その豊かな自然により駅前の喧噪(けんそう)を離れた別世界のようです。以前からタヌキの家族が出没していますし、今年は長元坊(ちょうげんぼう、ハヤブサ科の鳥)も巣立ちました。大倉山公園は、大倉精神文化研究所の敷地を昭和56年(1981)に横浜市が購入して昭和59年(1984)に開園し、その後東急電鉄の所有だった梅林(ばいりん、第2回参照)を加えて現在の形になりました。この自然が長い年月にわたる多くの人達の努力で造り上げられたものだということはあまり知られていないようです。
大倉精神文化研究所が大倉山の土地を購入したのは昭和3年(1928)のことですが(第16回参照)、その当時の写真を見ると、山の上には畑が広がり、樹木は、村社神明社(しんめいしゃ、昭和33年に太尾神社へ合社)の周囲に松の木などがわずかにある程度でした。
研究所の日誌によると、昭和6年より8年(1931~33)にかけて、マツ、カヤ、ソテツ、ヒマラヤシダ、ケヤキ、シイ、ツツジ、ヒノキ、イチョウ、ツバキ、ヤツデ、カエデ、スギ、小灌木など計数千本を植樹し、芝も植えています。こうした造園により、多くの動物が棲息(せいそく)するようになります。
昭和10年(1935)春、研究所は県に対して鳥獣保護区設置の申請を検討しています。書類によると、大倉山の丘陵(きゅうりょう)はすでに「大倉山公園(及びその接続)地区」と呼ばれており、「横浜市民の慰安散策地(いあんさんさくち)として公園施設を施(ほどこ)しつつあり、一方大倉精神文化研究所に集(つど)ふ学徒及(およ)び一般大衆研究修道の地」であり、「静粛(せいしゅく)なる緑地地帯」として保護存続をするために禁猟区(きんりょうく)の設置を求めています。当時、カラス、ムクドリ、スズメ、ホホジロ、ヒバリ、シジュウカラ、エナガ、コガラ、セグロキセキレイ、モズ、ヒヨドリ、ウグイス、ミソサザイ、ツバメ、アオバズク、ジョウビタキ、ツグミ、コウライキジ、コジュケイなど数多くの鳥と、ムジナ、ウサギなどの獣(けもの)が棲息(せいそく)していたことも記されています。
関連資料がないので、申請の有無は不明です。しかし、風光明媚(ふうこうめいび)な公園地として広く認識されつつあったようです。昭和16年(1941)5月3日内務省告示第239号により、「三ツ池(みついけ)、大倉山風致地区(ふうちちく)」が定められています。風致地区とは、自然環境に恵まれおもむきのある風景の土地で、都市計画区域内で特に指定された地区のことです。地区内では建築や宅地造成・竹木の伐採などが規制されました。当時、急速に市街化の進みつつあった横浜に対しては、「帝都(ていと)に隣接し世界的港都(こうと)としての横浜の重大使命に鑑(かんが)みる時、横浜市に風致地区を設(もう)くることは洵(まこと)に国家の重要問題といふべきである」(『公園緑地』5巻4・5合併号)との認識から、市域10ヶ所が「横浜都市計画風致地区」に定められたものです。ちなみに、港北区域では他に「小机風致地区」「日吉台風致地区」もありました。
このようにして景勝地(けいしょうち)となった大倉山公園ですが、戦後大倉精神文化研究所が財政難の時代を迎えると、次第に手入れ不足で荒れ果てていき、まさしく自然のままとなりました。やがて大倉山公園を管理することになった横浜市は、大規模な公園造成を行うこととなります。当時周辺住民からは自然保護の運動もあったようです。造成により地理曼荼羅(ちりまんだら、第16回参照)やプレ・ヘレニック様式の門柱が無くなったのは残念ですが、日々の地道な管理により大倉山公園は現在でも豊かな自然に包まれています。

(2003年10月号)