港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第61 回 篠原のモチ無し正月


あけましておめでとうございます。正月の食べ物といえば御節(おせち)に雑煮(ぞうに)ですが、筆者の故郷(第15回参照)では、茹(ゆ)でた丸餅(まるもち)で雑煮を作っていましたので、焼いた切り餅を入れる関東風の雑煮は、長い間慣れませんでした。
さて、この餅(もち)は年越しの神様への神饌(しんせん、お供え物)として用意するもので、家族はその直来(なおらい、神饌を下げて酒食する宴)として雑煮にして食べ、小餅を各人に配りました。お年玉とは、本来お金ではなくこの小餅だったようです。
港北区域の正月行事を調べて見ると、さほど珍しいものは見あたりませんが、昔は篠原(しのはら)に「餅無し正月(もちなししょうがつ)」の風習がありました。『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう、第52回参照)によると、190年程前、江戸から来た調査員が篠原村の村名の起源を尋ねたところ、土人(どじん、土地の人)の伝える話では、寿永2年(じゅえいにねん、1183)加賀国篠原村(かがのくにしのはらむら、石川県加賀市篠原町)で平惟盛(たいらのこれもり)と木曽義仲(きそよしなか)が合戦をした時、負けた惟盛軍の残党が落ちのびた先が港北区のこの地であり(その当時は「鈴木村」といっていた)、後に村名を篠原村と名付けたとの説を紹介しています。調査員は、地名が同じである事から生まれた伝説であろうと記していますが、それに続けて次の一節があります。

又(また)伝(つた)ふる所は、かかる干戈(かんか、戦争)の中にて移りしかば、あたる年(その年)の正月も餅をつき新年を賀(が)する事無(なか)りき、其(その)遺例(いれい)として村民今も正月は餅をつかず赤飯(せきはん)をなして祝(いわ)へりと。

命からがら篠原へたどり着いた敗残兵たちは、餅(もち)を搗(つ)いて新年を祝う余裕すらなかったので、その苦しみを忘れないように、調査当時でも村人は餅を搗かず赤飯で新年を迎えていたことを記録しています。押尾寅松さん(おしおとらまつ、第34・57回等参照)がおじいさんから聞いた話によると、この篠原でも天保年間(てんぽうねんかん、1830~44)頃からはこっそり餅を搗くようになったそうで、今ではもう他所(よそ)と変わらなくなっているということです。押尾さんの子供の頃、お父さんが餅つきをしていて、最初は元気に搗いていたのが、途中から不機嫌になることから(疲れてきたからでしょうが)、祖先が怒っていると思ったそうです。押尾さんは、結婚当初に餅無し正月を実践(じっせん)したことがあるそうですし、今でも子供たちにこの伝承を教えておられます。
こうした「餅無し正月」は全国的に分布していることが知られており、餅を食べない理由も様々ですが、民俗学的には、建前としての年越し儀礼と、住民の生活実態としての食生活との差が生み出した風習ではないかと考えられています。篠原村の村名の由来については、植物の篠竹(しのだけ)が生えていたとか、小さな盆地状の地形(シナ)によるものとも考えられますし、平家の残党が本当に住み着いたのかはよく分かりません。区域周辺を見渡すと、1月は農作業が忙しくて2月に正月行事をした(新羽・駒岡)とか、コメの餅は来客用で、家族用にはヒエやアワの餅を搗いたという話もあります。昔は貧しくて正月だけ白米(はくまい)を食べられたという話もあります。1月下旬の最も寒い頃に寒餅(かんもち)つきをしていたことも関連があるのかも知れません。篠原の「餅無し正月」の由来は遠い伝説の彼方です。
この連載も6年目に入りました。本年もよろしくお願いいたします。

(2004年1月号)