港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第71回 武田の末裔伝説


前回の話の続きです。大正15年(1926)頃、小谷文海(こたにぶんかい)さんは、観音山(かんのんやま、現在の大倉山)に5回も登っています。当時のことを、次のように語っています。

当時はまだ此(この)山には狐(きつね)や狸(たぬき)が出没する頃でありまして、丁度(ちょうど)今講堂のある所に私は朝から晩迄(まで)一人で居たことがありましたが、下の方に元甲州(こうしゅう)の武田の苗裔(びょうえい)であるといふ人が住んで居(お)りまして、余り私が朝から晩迄山に居て考込んで居(い)るものですから、あの人はあすこで狐につまゝれて居るのではないかと心配して上って来て呉(くれ)れました。

当時はキツネやタヌキが出没していたそうですが、タヌキについては、都市化の進んだごく最近まで大倉山で見かけたという話を様々な方から聞いています。今でも住んでいるのでしょうか。大倉山のタヌキは有名で、故黒川太郎さん(くろかわたろう、第3回参照)のお宅の庭に平成3、4年頃にタヌキの家族が訪れていた話が、『とうよこ沿線』58号に写真入りで大きく載っています。
閑話休題(かんわきゅうだい)、「講堂」とは、大倉山記念館のホールのことです。当時、まだ何も無い山の上で、一日中考え込んでいる人に、地元の人は不審に思ったのでしょう。当時の人たちが人情に厚かったことが知られる逸話(いつわ)です。
「下の方に」とあるのは、「武田谷戸(たけだやと)」のことでしょう。港北の地名を研究されている吉川英男さんに教えていただいたところによると、武田谷戸は『新編武蔵風土記稿』に「武田谷 (大曽根村の)東南の堺を云(いう) 古(いにし)へ武田弾正(たけだだんじょぅ)と云(いう)者住(じゅう)せしゆへ此唱(このしょう)ありと云(いう)、今に其(その)子孫農家に残れり」と記されています。
『大綱村郷土誌』にも同様の記述が見えます。大曽根商店街の南端あたりから、大倉山駅北の大倉山跨線人道橋(おおくらやまこせんじんどうきょう)の辺りにかけての一帯が、かつての武田谷戸だそうです。後には「大谷戸(おおやと)」とも呼ばれていました。谷戸(やと)の中を東横線が敷設(ふせつ)されてしまったので、かつての面影は全く無くなっています。
「武田の苗裔であるといふ人」については、『大曽根の歴史』によると、大谷戸には屋号(やごう)を「大谷戸」という家が2軒ありました。共に「武田」を姓とする家です。おそらくこのどちらかの家の方を指すのでしょう。その方が小谷さんのことを心配して声を掛けてくれたのです。この両家は親戚であり、共に甲斐(かい)の武田氏の末裔(まつえい)であるとの伝承を持っています。
武田弾正と甲斐の武田家の関係については、吉川英男さんが、「武田信玄末裔伝説私考」(日吉自分史の会『自分をみつける記録集』第7号)で詳しく考察されていますから御覧ください。港北区域と武田信玄の関係については興味深い事柄が多いので、それはまた別の機会に取り上げることにしましょう。
ちなみに、大倉山の北東側斜面は、線路際の「武田谷戸(大谷戸)」から、北へ順に「大乗寺谷戸(だいじょうじやと)」「中谷戸(なかやと)」「殿谷戸(とのやと)」となります。

(2004年11月号)