港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第74回 大倉山記念館の開館-幻の大倉山能楽堂-


横浜市大倉山記念館は、昭和59年(1984)10月27日に新装開館しました。港北の文化の中心として市民に親しまれて20年になります。しかし、それ以前は市民との係わりが薄く、梅林へと向かう道路際にはさび付いた鉄柵(てつさく)があり、「公園・遊園地ではありません。許可なく立ち入ること固く…」の看板も立っていました。この大倉山記念館は、大倉邦彦が昭和3年(1928)に土地を購入し(第16回参照)、翌4年10月から建設を始め、7年4月9日に完成しました(第26回参照)。しかし、昭和50年代になると、建物は荒廃して、外壁コンクリートがあちこちと剥落(はくらく)し、内部も各所で雨漏りやカビの発生が見られました。ファッション誌のグラビアを飾る現状からは想像も出来ませんが、化け物屋敷のように言われていた時期もあったのです。
研究所の土地は約1万坪ありましたが、財政難のため昭和33年(1958)から約3千坪分を順次切り売りしていきました。この間に、様々な経営改善策を模索(もさく)しています。たとえば、かつて「地理曼荼羅」(ちりまんだら、第16回参照)の造られていた前庭には、昭和47年(1972)頃に7階建て全89戸のマンションかあるいは23戸のテラスハウスを建設する計画をたてたこともありますが、実現しませんでした。
結局、昭和56年(1981)3月になり、約7千坪の土地を横浜市へ売却し、建物は市へ寄贈しました。研究所が所蔵するこの頃の資料の中に、本館を大改築して回廊(かいろう、現在のギャラリー)部分とその地下部分を有料のギャラリーにして、前庭に42メートル四方3階建ての能楽堂(のうがくどう)を建設する図面があります。土地売却については、昭和54年(1979)夏頃から始められ、55年2月からは本格的な交渉に入り、同年3月には基本路線が示されています。細部の調整に1年を要し、昭和56年2月14日に研究所と横浜市は「土地売渡承諾書」を取り交わします。詳細は今後の研究を待たなければなりませんが、能楽堂の図面が作成されたのは、翌3月のことですから、横浜市の手による計画と思われます。当時は、久良岐能楽堂(くらきのうがくどう、昭和59年横浜市へ寄贈)や横浜能楽堂(平成8年開館)が出来る前のことで、横浜市は能楽堂を保有していませんでしたから、このような計画が作られたものと思われます。
戦後の研究所には、戦災や風雪による建物の破損を補修する余裕すらありませんでしたので、寄贈時点の本館(記念館)は建築当初の原形をよく残していました。横浜市の手により、全面補修とギャラリー・第1集会室入り口・ホール入り口・研究所事務室などの部分改造が行われましたが、本格的な改修はこの1度だけです。結果として記念館は建築当初の原形をよく残すことになり、平成3年(1991)に横浜市の文化財に指定されました。
なお記念館の管理は、開館以来社団法人横浜ボランティア協会がおこなっていましたが、平成6年4月1日より財団法人横浜市文化振興財団(平成14年4月1日より横浜市芸術文化振興財団)の所管となり現在に至っています。

(2005年2月号)